いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月25日 日々の聖言

2014年09月25日 | 日々の聖言

「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを、避けなさい。

それらは無益かつ空虚なことである。」テトス3:9 


生活の上で、言葉は大切な道具であり、有益な手段です。しかし、言葉には限界が

あります。殊に、人の心を動かすのは議論や論争ではありません。言葉を裏付ける

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聖書からのメッセージ(332)「最高のクリエーター」

2014年09月25日 | 聖書からのメッセージ
「詩篇」139篇13節から18節までを朗読。

 17節「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう」。

 この詩篇は「ダビデの歌」とされています。そしてこの詩篇は神様がすべての事をつかさどっておられ、御心のままにそれを創造し、導かれることを、言葉を尽くして語っています。恐らくダビデ自身の体験、深い思いから生まれたことではないかと思います。1節以下には「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」と。

 神様はすべての事を知っておられる、と語っています。神様は私たちの内側も外側もありとあらゆるものを全部知っている。それは当然といえば当然であります。なぜなら、神様は私たちの創造者、造り主です。造った人はそれがどんなものであるかをいちばんよく知っているのです。日常生活で電気器具だとかいろいろな道具を使いますが、その中の仕組みがどうなっているかは分かりません。ただ指示されたようにボタンを押して、終わるときはここを押してと使い方は知っています。洗濯機や乾燥機でも、炊飯器でもそうですが、「じゃ、炊飯器はどうしてご飯が炊きあがるの?」と言われて「炊飯器だからじゃない?」と、皆目その仕組みは分かりません。

私は好奇心が旺盛(おうせい)ですから、すぐに分解して中を見てみたくなります。それで分解しても元に戻らなくて困ることがありますが、いくら中を見てもこちらはさっぱり分からない。いろいろな部品が組み合わされている。これはいったい何のためだろうか?これはどういう働きをしているのだろうか? 素人(しろうと)にはさっぱり分かりません。しかし、分からなくても使えます。造った人は更にもっと深くその仕組みを知っていますから、これにはこういう特徴があるとか、こういう使い方もできると知っている。手近に携帯電話を使っていると思います。ただ、発信と着信ぐらいでほかの事には使いませんが、若い人の使い方を見ていると、いろいろな使い方をします。目覚し時計にもなるし、スケジュール帳にもなるし、写真を撮ったりします。あるいはインターネットにつないで地図を見たり、音楽を聴いたり、いろいろな情報を集めます。天気予報から地図まで。あるいはそれで買い物もするという、お財布携帯と言うそうです。機械にパッとかざすと、それで小銭も何もいらない。実に多種多様ないろいろな機能が付いていますが、私共は使いきれないから単純に発信と着信だけで終わります。しかし、作る人にとってはその仕組みは面白いに違いない。こういうこともできるように、ああいうことも……、といろいろなことを盛りだくさん小さな箱の中に詰め込んでいく。それをいちばんよく知っているのは、それを設計し、作った人です。これはこうなる、あれはこうなる。恐らく作った人は、私たちが普段使っている携帯電話の使い方を見ると、悔しいだろうと思います。「せっかく良いものがあるのに、どうして使わないのだ」と。「そのときはこうしたらいいのに、もっと簡単なんだよ」と言いたいでしょう。でも、私たちはそれが分からないから、単純に「ここを押して、次はここを押して、後はこれだけ」と、それ以外は押さない。時々おかしな所を押したために訳が分からなくなってしまう。でもそれをちゃんと分かっている人がいるのです。作った人は全部わかっています。

ですから、1節以下に「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます」こうなったらお手上げです。神様の前に何にも隠すことができない。全部知られている。心にひそかに思っている事から、現れているものも隠れたものも、神様はことごとく全部知り尽くしておられる。そして、私たちと共に居て下さる。5節に「あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます」。神様が私たちを前から後ろから十重二十重に囲んでくださっている。言い換えると、パウロが「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである」(使徒 17:28)と言ったように、神様を私たちの内に宿すのではなくて、実は私たちは神様のなかに握られているというか、包み込まれている。それなのに私たちはいろいろと心配をする、思い煩う。

小さな歩けないお子さんは、お母さんの腕に抱かれて、お母さんが何から何までことごとく世話をする。食べさせること、お風呂に入れたり、おしめを換えたり、四六時中お世話をする。そしてだき抱えて連れて行きます。赤ちゃん自身は動けません。自分では何もできませんが、お母さんが全部それをする。そして、お母さんの腕の中に抱かれていると安心している。「お母さんは大丈夫だろうか、ちゃんと自分を抱えておいてくれるだろうか。途中で落としはしないだろうか」と、そんな心配は一切しません。お母さんの腕の中にいるときの子供は、いちばん安らかです。私たちは神様を自分と離れた関係、人と人とが向かい合っているような形で神様との関係を考えているなら、これは間違いです。神様は私たちよりもはるかに大きな御方です。それは想像できません。その神様のなかに私たちは取り込まれているのです。だから、まさしくパウロの言うように「神様のなかにあって私たちは生きているのです」。そして、その神様が私たちを造り、この世に生きる者として置いてくださった。私たちに日々の糧(かて)を与え、健康を与え、働く仕事を与え、それぞれかかわりある人のつながり、家族をもうけ、地域社会などいろいろな所に私たちを置いてくださる。一つ一つその時に応じて神様はちゃんと生きる道筋を備えてくださっている。これが詩篇139篇を通してダビデが語っている事です。

ご存じのようにダビデ自身がそういう体験をしたからであります。ダビデはただ単なる羊飼いの息子として、しかも八人兄弟の末っ子として数にも入らないというか、非常に小さな存在でありました。確かにそうです。家庭のなかで兄弟が多いと親の注目だって減りますから、一人っ子とは違います。しかも昔の話ですから、恐らく長男の方が尊ばれたでしょう。いるかいないか分からないような小さな者に目が留まるはずがない。だから、彼もそういうものとして人生を終わったに違いない。私はダビデのことを思うと、果たしてそれが幸せだったのか、不幸だったのかな、と思います。平々凡々とした名もない小さな羊飼いで、平和な平穏な生活をしていた。将来に大きな夢を持っていたわけでもないと思いますし、生活に事欠かないぐらいの羊を飼って生涯を過ごす。ところが、ある日突然のごとくとんでもないことが降ってきた。

祭司サムエルがやって来まして、「お前は次なるイスラエルの王様になるのだ」と告げる。本人が願ったわけではない。子供のときから夢に思い描いていた人生ではありません。神様がユダの野にあって羊を飼っていたダビデに目を留めて、エッサイの家から取り出して、ついにイスラエル王国の王に立ててくださった。彼は生まれながら貴族の家でもなければ、王家の血筋にあるわけでもありません。自分の思わない願わない道へ神様がズイズイズイと引っ張っていかれた。そしてとうとう王様にまでなりましたが、しかし、その生涯は実に波乱に満ちたものでした。王様になって余程安楽な悩みのない、毎日が竜宮城のような生活かというと、そうではなく、次から次へいろいろな戦いがあり、国の中にも外にも、自分自身の中にも常にありました。しかし、彼は絶えず今ここにあるのは神様が置いてくださったのだ、と信じ続けていく。この信仰以外にありません。王様だからといって、軍隊を強くしようとか、民のために福祉を施してやろうとか、領地を広げようとか、そういう思いは何にもありません。いつも彼は「わたしは常に主をわたしの前に置く」(詩篇 16:8)ことをつとめました。とにかく神様だけを見上げて生きる。戦いのなかにある時もどうしたらいいか? 彼は子供の時から統治者として、国を治める者としての教育を受けたわけではありません。戦略戦術にたけた人物でもありません。常に彼は初心者、いわゆるアマチュアでありますから、どうしたらいいのか、おろおろする。そのたびに彼は神様に祈るのです。「神様、あなたがわたしをここに置いてくださった御方です。ここでわたしは何をすべきでしょうか。どうしたらいいでしょうか? 」と。

だから彼は繰り返し、繰り返し、しつこく祈ります。ケイラという村がペリシテ人に襲われたときもそうでありました。ダビデに「助けてくれ!」と言って来ました。ダビデたちはサウル王様に命を狙(ねら)われて逃げていたのです。だから人を助けるなんてそんな余裕はありません。でもその時に彼は祈りました。「神様、今こういう状態ですけれどもどうすべきでしょうか」。その時、神様は「お前が行って彼らを助けなさい」と言われた。ところが彼と生死を共にしてくれる、信頼していた部下たちが「自分たちすらも命が危ないのだから、やめたほうがいい」と言いました。その時にダビデは困ったのです。「どうしようか。神様は『行け』とおっしゃるが、しかし自分の信頼する仲間たちは自分の身を思ってそう言ってくれるのに、それをむげに断るわけにはいかないだろうし……」と。その時彼はもう一度祈ったのです。その結果、はっきりと「これは神様の導きだ、いまケイラに行くべきだ」と確信を与えられ、部下たちを説得します。そして彼は出かけて行きます。彼と一緒に付いていく仲間たちも、最初は反対したのですが、一緒について行った。そしてケイラを救いました。また彼が王様の位に就(つ)きましたときに、国の権力が移り変わるとき、国がいちばん弱くなりやすい。だから敵が攻め込みやすい。その時を狙ってペリシテ人が大軍をもって攻めて来ました。レパイムの谷に100万近くの大軍が押し寄せて来た。ダビデはまだ王様になったばかりで、どうしていいのか分からない。そのとき、やはり彼は祈ったのです。「主よ、この戦いに行くべきでしょうか?」と。その時神様は「行きなさい。この戦いであなたに勝利を与えるから」と。彼は確信を得て戦いに出ました。わずかな力をもって出て行ったとき、神様の力が働いて相手の大軍は何かにおびえるがごとく退散、消えてしまう。それでやれやれ安心、と思っていたら、また同じペリシテ人が攻めてきます。しかも前の時と全く同じ状況です。同じ場所で同じだけの大軍がやって来ます。私たちであれば、前回の経験がありますから、今度もそれで行こう、この手があったとなります。あの時こうしたし、今度も同じだし、どれもこれも状況は似ている。これはこの手で行こうと、すぐ決めてしまいやすいのですが、ダビデはそこでも祈ります。「神様、またこうやって攻めて来ました。この戦いに行くべきでしょうか?」。その時神様は「行きなさい。ただし今度はこうしなさい」と前回とは違った作戦を彼に与えます。いろいろなことがあるたびにダビデは神様に呼び求める。というのは、自分が今ここに立っているのは、神様がわたしをここに置いたのだと、そのことが徹底して貫かれているのです。

これは私たちのいまを生きる生き方でもあります。私たちはいまイエス様の救いにあずかって神の子供とされました。神様が造り、生かしてくださることを知っています。かつては、そんなことと露知らず、自分の親が私を造ってくれたぐらいに思っている。あるいは先祖のお陰で今があると思っている。そうではありません。聖書のお言葉を通して、「なるほど、神様が私たちをお造りになった。そして私たちに生きる道を備えてくださる」と信じます。ダビデにイスラエル王として使命を与えられたのは神様である。私たちもそうです。それぞれに生きる道を神様が与えてくださって、今があるのです。

ですから、13節以下に「あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです」とあります。私たちをお母さんのおなかに宿してくださったのは神様です。そして私たちの体、肉体の隅から隅まですべてのものを造り、生きる命を与えてくださった。これが私たちの今の姿です。ですから、自分の今ある姿を振り返るだけでも、驚くべき事態、事柄です。

夏になると、都会地を離れて大自然の中に出掛けて行ってキャンプをしたり、ハイキングをしたり、行楽に出掛けたりします。日常生活では小さな家がひしめきあい、コンクリート造りのマンションだらけの都会地に住んでいますから、だんだん気持ちが小さくなってしまう。ところがたまに出掛けて、普段見慣れない大自然を見たりすると、厳(おごそ)かな思いになります。雪をかぶった富士山を眺(なが)めたりすると、霊験あらたかといいますか、心が引き締まるような思いがして「これはやっぱり神様がお造りになった……」と思います。大海原(おおうなばら)を眺めたりすると、「なるほど、自然というのはすごい……」と感嘆します。ところが、朝起きて鏡で自分の顔を見て「これは神様が造られたのだな……」と、感心する人はほとんどいません。自分の手をゆっくり見てください。不思議じゃないですか。こんな微妙に巧みに動く手を誰が造りますか。私たちは自分が普段見慣れないものを見ると、神様を感じるけれども、見慣れた風景には「こんなのは当たり前だ」と思って、神様の存在に気が付かない。これは不幸な事です。確かに、大自然の大海原や、木々や草花やそういう自然を見ることも、そこに神様のわざを感じ取ることができますが、いちばん身近な神様のわざは自分自身です。ところが、案外と「自分は駄目だ」と思っている。「私はもうこうなってしまったし、年を取ったからこうなって……、若ければもっと良かっただろうけれども」と思いますが、そうじゃないのです。人が年を取っていくことも神様が与えてくださった、いうならば、創造の一つの結果です。だから、それを認めること。「箴言」にいわれているように「すべての道で主を認めよ」(3:6a)、「自分の知識にたよってはならない」(3:5b)と。「宇宙にまで飛び出さないと神様のことは分からん」とか「どこか大きな山にでも登らないと神様を感じられない」のではなく、私たちは既(すで)に神様の手に握られ、神様のなかに存在している。私たち自身が神様の作品です。私たちのこの肉体もそうですし、生まれてから今に至るまでの日々の生活のことごとくを、神様はご計画をもって導いてくださる。

14節「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです」と歌われています。神様は恐るべき御方、また「くすしき」、不思議なる御方です。神様の御思い、ご計画、神様がどのように導かれようとしているのか、私たちには分からない。しかし、神様は私たち一人一人を造り、生かし、地上の旅路を今に至るまで導かれたのは確かです。まずそのことをしっかりと確認していきたい。15節以下に「わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた」と。造られた者は自分がどのように造られたか分からないのは当然であります。一つ一つ神様の目的のために造ってくださった。16節に「あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた」とあります。神様は私たちの人生がまだ姿かたちのなかったとき、お母さんの胎(たい)にまだ芽生えていないそのときから、既に私たちをご計画のうちに備えてくださった。この地上で一日もなかったときに、私たちが生きるであろう人生をすべて神様は書に記された。ちゃんとご計画してくださっている。神様の御思いは、17節に「なんとわたしに尊いことでしょう」と。私たちに思い抱いてくださる、願ってくださるご計画は何と尊いことだろうか。ともすると、私どもは自分の力で頑張ってきた。努力してきた結果がこれだけにしかならなかった、と嘆(なげ)いている。そうではありません。神様が生きる道を備え、なすべきことを教えてくださり、導いてくださって一つ一つのなかを通り抜いて来たのが今です。自分が努力したように思う。自分の計画を一生懸命実現しようと努めてきた結果であろうと思いやすいが、そこで思いを切り替え、神様を認めること。しかも、私の人生に神様が100 パーセント かかわっておられるのだ、と認めることです。

そう言われると「では、私があれこれ考えなくても、神様が何もかも決めてくれるというのなら、もう私は知らん」となりやすい。昔私もそのように思ったのです。父が「お前がそんなちっぽけな頭で計画したところで、神様の御心しかならないのだ」と言われたとき、「ほう、そうか。じゃ、もうやめとこう。好きなことをしてやるわ!」と。「何をしたって神様の思いから離れられないなど、そんな無茶な、こちらの了解も得ないで、勝手に決められて!」と言ったことがありますが、実はそうではなかったのです。

神様が、「ことごとく記してくださった」という言い方は、何もかもあなたのために決めてくださった、予定してしまったというのではありません。カルビンという宗教家は「予定説」といっています。すべてに神様が決定権を持っていて、人の救われる者と滅びる者とは、決定されているというようなことを言って大論争になった過去の話があります。予定説に立ちますと「なんだ、神様はもう私の死ぬ時まで決めてくださったのなら、自分が何をしても仕方がない」と思ってしまう。ところが、これは決して予定の問題ではありません。神様が私たちのために備えてくださることであって、決してこのシナリオ、このストーリーしかないと神様が決めているのではありません。振り返って、結果として「この道しかなかったな」と思いますが、しかし、それはあくまでも過ぎて来た結果の話です。私たちは時々刻々右にするか、左にするか、選択と決断が迫られているのであります。その決断によっていのちの道を行くこともできるし、滅びの道を行くこともできる。だから常にいのちの道と滅びの道、死の道とが備えられている、と語られています。私どもは常に選択と決断をするとき、まずいのちを選びなさい、と勧められていますが、神様は私たちに選択し、決断する自由を与えてくださいました。しかし、その決断は当然こうなると、神様が定められたいのちの道であり、また滅びの道でもあるわけです。いのちの道と滅びの道があること、私たちがいのちの道を選ぶならば、それに対して神様は備えてくださった一つ一つのわざを、私たちを通して実現に至らしてくださる御方でもあります。神様は単純に私たちに「あなたのためにはこれだけ、こういう道しかないよ」と決められているわけではありません。運命とか、宿命のように定められてしまったのではありません。神様の前にへりくだって、選ぶべき事柄の一つ一つを御心に従って選び取って行きますならば、そこにまた違った、これまでの自分と違う、思いも掛けない様々な新しい人生を神様は備えてくださる。私どもは浅はかなとろがあり、考えが至りませんから、これにはこれしかない、こうなったらこうしかない。これとこれはこうだと、せいぜい三択(さんたく)ぐらいですか、良くて五択ぐらいのアイディアしかない。神様のこともそのくらいのものと思っている。そうじゃないのです。神様は千変万化です。私たちの想像を超えたシナリオを無尽蔵に持っていらっしゃる。私たちをどのようにでも導かれる。私たちの思い、願い、私たちの選択、選び、決断する道筋と神様の御思いは実に複雑な絡(から)み合いをしながら、ちゃんとご自分の御心に導いていかれるのです。だから今このときの選択と決断が非常に大切になってくる。「ペテロの第二の手紙」にありますように、「あなたがたの受けた召しと選びとを、確かなものにしなさい」(1:10)といわれるのは、そのことです。私たちがいま神様によって選ばれ召された者であることを知って、神様の御心を求めて生きること。そうして行くときに、神様のほうが私たちの想像のつかない考えも及ばないような恵みのわざ、神様のご計画のなかに私たちを生きることができるようにしてくださる。

 17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」。神様の私どもに備えてくださる、与えてくださるご計画、御思い、これに勝るものはほかにありません。自分の肉の思いで「ああしたら良いに違いない」「こうしたら良いに違いない」「これは私にとって幸いだ」と、あれこれとない知恵を絞って考えつくことよりも、むしろ神様が導かれるところに自分を委ねていく。「神様が私のために与えてくださった恵みの道です」と信じること。これが幸いな生き方です。そうでないかぎり常に不安が伴います。思い煩わなければおられなくなります。ダビデが17節に「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いこと」、神様の思い、私に抱いてくださる思いは尊いものだ。掛け替えのないもの、貴重なものなのだ、うれしいこと、最高の恵みだ、と言っています。しかし、私どもは、自分の考えていること、自分の思ったことが実現するのがいちばん良い、それが尊いことだと、そこにしがみついてしまう。そのために神様の恵みから遠ざかってしまう。そのときもう一度「主に帰れ」と、神様は絶えず呼びかけてくださいます。今は恵みの時です。神様の前に立ち返って身を低くして、すべてが神様の恵みであることを認めること。これが私たちのなすべきただ一つの道です。そうすると、そこに神様は祝福と恵みを更に加えてくださる。私たちを恵みの高みへ引き上げてくださる。

 「今」という時を喜び、感謝し、主の恵みであることを告白していきたい。神様を褒め称えたい。17節に歌われているように「神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう」と。神様が私どもに思い描いてくださる、抱いてくださるご計画、御思い、また備えられる事柄は「これは本当に私にとって最高のことです」と感謝すること。こから先どういう道を備えてくださるか分からない。しかし、分からないけれども今日一日をまず神様の御心に全く従おうではないか、ここが大切です。「先のことは分からんから、今の時何をしたって仕方がない」ではありません。今、今日、主の導きに、主の御心に従って歩んでまいりますならば、その次に備えられた出来事、あるいはその道、その事柄も「これも神様から出た恵みです」とはっきり確信が持てるのです。

 いつもどんなときにも、今、この時こそが恵みの時、「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」(Ⅰコリント15:10a)。今、今日、この時は神様の恵みなのだ、と認めていきたい。そして感謝し、「次なる歩みを、主よ、導いてください」と主の御心を信じる。これが御心だって、どうやって分かる? といわれますが、分からないのです。ただ、私どもが「これが御心であることを信じます」と、自(みずか)らが信じて踏み出していく。「御心だと信じてやったのだけれども、どうしてこんなになったのでしょうか」と言われますが、「御心だから、そうなったのではないですか」と「え!御心だったら、もっとこうなるべきでしょう」と言う。すぐ自分の思いを遂げよう、自分の思いが満たされるように、満足するようにということばかりを求めます。そうではなくて、神様の御心を信じて、たとえそれが自分の思いとは正反対の、そこには希望がない、望みがないように見える事態のなかにも、なおそこで主が導かれること、「神様がこのことをおこしているのです」と信じていくときに、やがて絶望に思えたその道、あの紅海に道を開かれる神様は驚くべきことをして私たちを救いにあずからせ、神様はご自分の栄光を私たちを通して明らかにしてくださる。神様の栄光は私たちが感謝賛美することにほかなりません。私たちをして喜ぶ者、手放しで神様を褒めたたえる者へと造り替えてくださる。それがどのような具体的な事柄になるか、私たちは知り得ません。先のことは分かりませんが、今日が、今が、この瞬間に神様は御業のなかに恵みをもって私を顧(かえり)み、神様が備えてくださった道であることを固く信じて、主に従う道を絶えず選び取って行きたいと思う。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。