いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月24日 日々の聖言

2014年09月24日 | 日々の聖言

「しかし、その聞いた御言(みことば)は、彼らには無益であった

それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」ヘブル4:2b 



どんなに良い知らせでも、その言葉を信じない限り、絵に描いた餅にすぎません。神様の

言葉も同様です。読みっぱなし、聞きっぱなしで、流してしまう限り、みことばに約束された

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聖書からのメッセージ(331)「求むべきもの」

2014年09月24日 | 聖書からのメッセージ
 「ルカによる福音書」10章38節から42節までを朗読。

 42節「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

 これはマルタ・マリヤの記事であります。イエス様が大変親しくしている家族、マルタ、マリヤ、ラザロという姉妹と兄弟がおりました。彼らはベタニヤ村に住んでいました。ベタニヤ村はエルサレムから少し離れた村です。イエス様がエルサレムに来られるときには、大抵彼らの所に宿泊をしたようです。38節に「ある村へ」と語られていますが、ベタニヤ村であろうと思います。マルタ、マリヤのうちに滞在することになりました。

38節に「イエスを家に迎え入れた」と語られています。マルタさんは大変うれしくて、何とかイエス様をもてなしたいとお世話をするために一生懸命になって、忙しくしていました。40節に「接待のことで忙がしくて心をとりみだし」と語られていますから、「あれもしよう、これもしてあげたい。でも時間がない。でも何とかしなければ……」と気持ちも焦(あせ)るけれども手はない。一人でバタバタしていた。その一方、マリヤさんは「主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた」とあります。イエス様のそばでお話になることを聴いておった。このときイエス様はたった一人ではなかったと思います。恐らく弟子たちもいたのだと思いますが、イエス様がお話していることをマリヤも仲間に入って聴いていたようであります。その様子を見まして、マルタさんは40節「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか」。とんだとばっちりを受けたもので、「自分が一生懸命に頑張ってやっているのに、私の状態を見たらイエス様も分かるだろうに、一言ぐらい妹に言ってくれたらよさそうに」と。「何とかしてあげなさい」という一言でも欲しかったのでしょう。マルタさんが「なんともお思いになりませんか」と、この言い方はかなり厳しい言い方です。「何とも感じないの、あなたは!」という話になりました。「妹に手伝うように言ってくれ!」と言ったのです。お姉さんの言うことなどきっと聞かないのだと思います。

そのとき、41節に「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている』」とあります。マルタさんが一生懸命になっているその気持ちはよく分かる。けれども、その思いのなかに欠けているものがあった、とイエス様は指摘しておられるのです。「多くのことに心を配る」、この言葉を合わせると「心配」となります。心配するのは、いろいろなことに、千々に心が乱れるのです。一つだけにならない。「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」「これはどうだろうか」「あれはどうだろうか」と、思いがあれもこれも、これもあれも、といろいろなことで切り刻まれてしまう状態、これが「心配」といわれることです。まさにマルタさんはいろいろなことを心配したわけです。時間に間に合うだろうか? 準備した物が足りるだろうか。あるいは、あれはまだできないけれども、何とかしなければいけない……、といろいろなことに心を配って思い煩う。これはイエス様のためにしてやっているのだ。何とかしてイエス様をもてなしたい、楽しませてあげたい。またせっかく来られたのだから喜ばせてあげたい、との願いは良いのです。動機は良いのですが、何がいま大切なのか、このことを彼女は忘れている。イエス様が喜んでくださること、イエス様を楽しませてあげたい気持は分かるけれども、本当に主が望んでいること、願っていることは何なのかを尋ねようとしない。いうならば、自分がしてやりたいことを一生懸命にしているのです。いろいろな心配をして、自分がああしようか、こうしようかと心を配る。これは世間では立派な話です。なかなか出来た人じゃないか、お姉さんが一人で一生懸命にお客さんのために尽くしているなんて、感心だ、こんな美談はない。片や何たる妹だ!お姉さんの手伝いもしないで、そんなダラダラしちゃって、と世間の基準といいますか、世の判断からすればマルタさんは褒められてしかるべきであろうと思うのです。ところが、それに対してイエス様が「何を心配しているのだ」とおっしゃった。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」。そうではなくて「しかし」と42節に「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。「無くてならぬもの」、大切なもの、欠いてはならない事柄は多くはない。それはそうです。たくさんあるのだったら一つぐらい抜けたっていいわけです。たった一つだからこそ大切です。だから、ここでイエス様が「無くてならぬもの、今あなたにどうしてもこれだけは、という最後に残る大切なことは、たった一つだよ」とおっしゃる。そして「マリヤはその良い方を選んだのだ」。マリヤさんは自分にとっていちばん大切なものをいま選んだ。しかも「それは、彼女から取り去ってはならないものである」。それはそうです。無くてならないもの、彼女にとってそれは無くてはならない大切なことだから、これを取り去ってはならない、といわれました。

ここで、二つの価値観といいますか、そういうものがぶつかっているのです。それはマルタさんのように何とかしてイエス様のためにと言いつつ、自分の計画、自分の思い、自分がしてやりたいことに一生懸命になる。それはそれで悪くはないでしょうが、しかし、そのために思い煩う、あるいは心配する。これは神様が私たちに求めておられることではありません。神様が私たちに願っているのは私たちが平安であり、喜びがあり、感謝して、輝いていのちに生きること。これが私たちに願っていること、またそれを与えたいと思っていらっしゃるのです。ところが、マルタさんは自分の心配、思い煩いのためにその喜びを失い、感謝がなくなり、明るくない。忙しさのために彼女の心にゆとりがありませんから、あちらにぶつかり、こちらにぶつかりで、文句タラタラで、周囲の者もぴりぴりしてしまって……。よくありますね、私たちの生活のなかでも。「そんなに苛立つぐらいだったらやめといたら」と言うと「いや、やめられん!」と。「だったら、楽しんでやったらどうなの」と、楽しむゆとりがない。それを神様は喜んでおられません。人の世では、そうやって自分が努力をすること、身を尽くすこと、いろいろな思いを尽くして人を楽しませ、自分が満足する。自己満足です。いうならば、ここでマルタさんが一生懸命イエス様にごちそうしてあげたり、何かもてなしをしようとすることは、ある意味で自己満足です。こうしてやりたい。前もってイエス様に尋ねたわけではない。「イエス様、何が食べたいですか」とか、「どこへ行きたいですか」「何がしたいですか」と聞いて、それをしてあげようというのではなくて、「イエス様が来た。ようし、今までしてやりたいと思っていたあれもこれもしてやろう。こうしてもあげよう」と、自分の思いを遂げることに一生懸命。いま自分が何を求められているか、あるいはいま神様が私に願っていることは何なのかを求めることをしない、聞こうとしないこと、これがマルタさんの一つの大きな失敗、と同時にそれは私たちのうちにもある事です。

マルタさんばかりでなく、私たちもそういうことをしている。私どもが常軌を逸(いっ)するといいますか、平安を失う。あるいは何かを心配しているときは、よくよく考えたら自分の事なのです。家族のことが心配だとか、何とかが心配だとか、あれがこうだとか、いろいろなことで心が憂うつになる、不安になる。その原因をよくたどってみると、自分の思いを遂げたい、ひいては、自分の身に何か不幸が起こりそうな、自分にとって不都合なことになりそうだから心配したり、思い煩ったりしている。しかも、そうしなければならない理由は案外とちっぽけな事、なくてもいいようなものです。何かそういうものに一生懸命頭を突っ込んでいると、袋小路に入ってしまう。だから「これをしておかなければならない」「あれをしておかなければ……」と、焦る思いに圧倒される。すぐにでも世が終わりそうな、終末がくるような恐怖感に囚われる。心配や思い煩いが高じてきますと、とんでもない妄想(もうそう)に駆(か)られます。

私もそういうことでよく失敗をします。思い煩うとき、心配するときは、だんだんとそれが膨(ふく)らんでいくのです。そして、やがてそれが自分の思っているような方向へいかなかったら「世は終わりだ」と言うぐらいに思い詰める。そして気持ちが暗くなる。周囲の者に対して冷ややかになる。言葉はとげとげしくなる。だから、よく家内から言われるのです。「最近チョット何か心配でもあるの? 」と、こちらは「別に……」と言うのだけれども、考えてみると、やはり何かを心配していることがあったりします。こちらは隠そうと思って一生懸命平静を装(よそお)っていますが、言葉の端々にチクッととげが出ているのです。振り返って、冷静に落ち着いて考えてみると、何をそんなに心配していたのだろうかと、心配の発端は本当に米粒ぐらいの小さいものです。そんな吹けば飛ぶようなものだけれども、気が付かないうちに心の大部分を占領してきます。そして物事を暗くしてしまう。だから、思い煩って心配しているとき「いったい私は何を心配しているのだろうか」と、いったん振り返ってみたらいい。そう言えばあのことがあって、この心配が始まったけれども、そのことはいったい何が問題なんだ?と振り返ってみる。すると、何としょうもないことを自分は考えていたのだろうか、とおかしくなって笑えてきます。ところが、その真っ只中にあるときは「これをしなかったら、これがなかったら終わりだ」と言うぐらいに追い詰められてしまう。

このときのマルタさんはそうだと思う。そんなことをしなくたって、イエス様はマルタさんを嫌いになるわけではないし、「それをしなかったら、おれたちはこの家を去っていくぞ」と言われるわけでもない。恐らくマルタさんは自分なりのプランがあったのだと思う。こうして、ああして、その次はこれをしてあげて、そしてこうやって、イエス様がきっと喜ぶだろう、あれも喜ぶだろう。そのための準備はあれをして、これをして……、という一連の大きなプランがあった。初めのうちは「できたらいいね」という段階から、「いや、こうしなきゃ、いけないな」となる。更にそれが高じてくると、「いや、これが一つ抜けたら、もう大変なことになるぞ」とだんだんと気持ちが千々に乱れる。またそれが自分に大きな重しのようになってのしかかる。でも、実際、それは何の意味もないのです。イエス様は山海の珍味を食べたくて寄ったわけではないでしょうし、イエス様はまだご自分の使命があって、その目的のために進んでいる。その途中でマルタ、マリヤのうちに来たので、そんな大きなもてなしを期待していることは、まずはありません。でも、マルタさんのなかで自分の思いが膨(ふく)らんで、それにとらわれてしまう。これが私たちの実際の姿です。だから、マルタさんは私たちの代表のようなものです。他人事(ひとごと)ではありません。

それに対してイエス様が「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」と、パチンと頭をたたかれたのです。恐らく、そのときマルタさんはハッと気が付いたに違いない。「ああ、そうだ」と。今まで気が付かないうちに大きく積み上げていたものがガラッと崩れ落ちたに違いない。いうならば、まぼろしのごとく、夢のごとくいろいろなものを積み上げて「もうこれがないと生きていけない」と言うぐらいまでに思いつめてみて、そしてポッと視点を変えるといいますか、自分が見ているところから一つポイントを変えて、「でも無くてならないものは、多くはないじゃないの。一つだけだよ」と言われた瞬間に、自分を振り返って「今までこんなに一生懸命だったのに、あ、そうだ。その必要はなかったのだ。そんなに思い詰めることはいらなかったのだ」と、マルタさんはこのことを知ったと思います。

42節「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。その一つというのは何か? それは「イエス様の足もとにすわって、御言に聞き入る」ことです。39節に「主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた」とあります。マリヤさんにとって何が大切といって、イエス様をもてなしたり、あるいはイエス様のために何かをしてあげることではなく、イエス様との交わり、主のみ声を聴くことをまず第一にしました。というのは、イエス様が再びこのようにゆっくり時間を取って彼らの所に来てくださるときが、またあるのかないのか、これは分かりません。いや、もうなかったに違いありません。その後、イエス様はやがて捕らえられてあの十字架に死を迎えることになりますが、マリヤさんはそんなこととは露知りません。恐らくマルタさんも前もってそのことを知っていたら、もてなすどころではない。もっと別なことをしたに違いない。

私共でも、親しい人の突然の訃報を聞いたりすると「え!そんな、そんなに早く死ぬと分かっていたら、もっとあれもしておいたらよかった、これもしておいたらよかった」と思いますが、このときのマリヤさんはイエス様と交わる、イエス様がいちばん近くにいてくださるときは、この瞬間、このときをおいてほかにないと思ったのです。今いちばんしなければならない大切なことは、イエス様の言葉を聴くことだ。これがマリヤさんにとって必要なことでした。

それはマリヤさんばかりでなく、いま私たちもそうなのです。この世にあっていろいろとしなければならない責任、果たさなければならない事があります。そうすると、そのことに一生懸命になります。マルタさんは長女でありますから、やはり放っておけないのです。両親がいたとは記されていませんから、恐らく両親は他界しておられたのでしょうが、お姉さんが親代わりのようなもので、妹の世話もしていたでしょう。だから「自分が責任をもたなきゃ、ここは私がしなければ……」と、マルタさんの思いはよく分かります。それと同じように私たちもこの世にあって「私は主婦として」、「私は主人として」、社会的な、あるいは家庭にあっていろいろなところで果たさなければならない責任を自分は負っている、と思います。だから、それをまずしなければ……、となりますが、しかし、いま私たちに必要なこと、一番大切なことは、神様と交わることです。「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日」(Ⅱコリント6:2)。私たちにとって、この今をおいてはイエス様に出会うことができない。主のみ声を聞くことができない。いや、それどころかいちばんの大切なことは、神様と交わること、これを抜きにしては私たちは生きられないからです。私たちのいのちは神様と交わること、ここから与えられるのです。

「マタイによる福音書」6章31節から34節までを朗読。

これはイエス様が語ってくださった勧めですが、ここに「思いわずらうな」と繰り返して語られています。思いわずらいのよってくる原因は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと」、いわゆる生活のこと、この世の事柄、この地上にあって肉体を養うための糧(かて)、そういうもののために四苦八苦しています。一生懸命努力し、働きます。しかし、ここでイエス様が言われるのは、自分がどんなに頑張ってみたって寿命をわずかでも延ばすことができないように、私たちは神様から養われている者なのだよ、ということです。だから、そんなことを思い煩わないで、もっとしなければならないことがあるじゃないか。それは何か? 33節に「まず神の国と神の義とを求めなさい」とおっしゃる。「神の国と神の義とを求める」、これを分かりやすく申しますならば、神様を求めること。神様を第一にして神様に聴く、神様を求めていく。この神の国と神の義を求めるとは、いうならば、私たちの生活のすべてが神様の支配の中に置かれていること、神様が私たちの生活の隅々にわたって主となっていただくことです。神様の支配の中に自分を委ねきっていくこと、これが神の国を求めることです。毎日、朝起きて夜寝るまでいろいろな業をいたします。食べたり着たり飲んだり仕事をしたり、買い物をしたり、テレビを見たり、いろいろなことをしますが、その一つ一つのことに神の国を求めること、神様の支配を認めていくこと。例えば、朝、食事をするとき、私はこれが食べたいからこれを作ろうと、確かにそうやって自分の食べたい物を用意するに違いありません。しかし、そこで今朝は自分の好きなようにやった、私がした、というのではなくて、神様が今朝も食べるべき物を備えてくださいました、と神様が支配してくださっていることを認めるのが、神の国を求めることです。神様が食べるものを備えてくださった。朝起きて目を覚まして、昨日の今日、今日の明日、元気で当たり前と思う。そうではなくて、そこで神の国を求めるのです。「今日も私は健康を与えられてこうして目を覚ますことができた。今日も一日生きる力を与えてくださった」と、神様の支配の中に自分を認めること。私ではなくて神様が主です、と神の国を求めることです。すべてのことに、そうやって神の国を求める。一日終わるときもそうです。「今日、おれはよく頑張ったぞ」と言うのではなくて「神様、今日も一日あなたがこうして導いてくださったから、いろいろな業をさせていただいて感謝します。知恵を与えられ、力を与えられ、すべての必要を備えられて今日も一日が終わります」と、そこで神の国を求める。だから、この「神の国を求める」とは、一度だけではありません。毎日、ことごとに一つ一つに神様の支配と導き、神様の御思いを認めていくこと、これが神の国を求めること。そして「神の義を求める」とは、神様のさばき、報い。私たちは自分のしていることすべてを神様が見て評価してくださる、と認めるのです。人に褒められたいとか、認められたい、ということではなくて、常に神の義を求める。神様がさばかれる御方で、神様の前に自分を絶えず置くこと。いうならば、神様の量りといいますか、物差しで常に測られている自分であることを知っておく。だから、世間の人が良いというから良いのではなくて、神様が「よし」とおっしゃるかどうか。こうすることが神様の報いにあずかることかどうか、そのことを求めるのが「神の義を求める」ことです。だから、神様の支配と神様のさばき、報い。さばきというと、何だか怖い話のように聞こえますが、神様の報酬(ほうしゅう)です。神様は私たちをねぎらい、その労苦に豊かに報いてくださる御方です。同時に、間違うときははっきりと「それは駄目だぞ!」と厳しく、神様は白黒を付けられます。義を求められます。だから、生活のすべての中に神様が中心になっていくこと、これが「無くてならぬもの」。人として、それぞれこの世にあって果たさなければならない責任、主婦という立場、あるいは母親という立場、主人という立場、父親としての責任、社会に出ていろいろな仕事に携(たずさ)わるならば、会社の中で責任者になるかもしれない。それぞれに与えられるいろいろな責任はありますが、しかし、もっと大切なのはそういうものを抜きにして、人としていちばん根本のところで、人間として求められていることは、神様と結び付いていくこと、神様を第一にしていくことでしょう。これがどんなことのなかにも貫かれていくこと。そうするならば、33節の後半にありますように「これらのものは、すべて添えて与えられる」。あとのことは神様が全部準備してくださる、備えてくださる。だから、私たちのすることは神様との関係をきちっと、絶えずよい関係に保つといいますか、神様と密接であるように努めるのです。

「ルカによる福音書」10章42節に「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」。一番大切なことは何かと? イエス様の御言葉を聴くこと、いうならば、神様と私たちとが密接につながることを努めていく。これが私たちにとって何よりも欠くことのできない事です。日々の生活でまず第一は、神様と私、その関係がどうなっているか。おろそかになっていやしないか。疎遠(そえん)になってはいないか。神様と私との間に何か物が挟(はさ)まってはいないか。何か幕のようなものが出来ていないか。絶えず関係を整えていつも密接にしておかないと気が付かないうちに神様と私たちとの間にいろいろなものが入ってくる。そして神様がぼんやりしたものになってしまう。

私は眼鏡を使いますが、使っているとだんだんといろいろな汚れが付いて見えにくくなりますが、慣れてしまうと気が付かない。そうすると、家内が「眼鏡が汚れているよ」と言うので、外して見ると「汚れているな」と気が付きます。ズーッとはめていると汚れていることに気が付かない。神様との関係も絶えず磨いておかなければ駄目です。常日ごろから風通しの良い関係を築いておかないと、いよいよのときに困ります。だから、無くてならない大切なことをまず第一にしておくこと。それは神様と私たちとの関係が曇りのない関係、言い換えると、何一つ障害のない密接な関係を保ち続けることです。これが大切です。そうしますと後のことは神様が一つ一つ備えてくださる。

私たちにいま必要なことは何なのか? それはあれをすること、これをすること、この世のそれぞれに与えられた責任を何とか果たさなければいけないことよりも、まずは無くてならない大切なこと、それは神様と私たちとが正しい関係にあるように、神様の御思いを絶えず聴くことができる関係を築いていきたい。神様を大事にしていくならば、あとのことはちゃんと整うのです。私たちが第一にすべきものを第一にしないと、ボタンの掛け違いが起こります。何をしてもちぐはぐになって、どれもうまくいかない。そしてイライラして焦(あせ)って、周囲に当り散らすようになる。そうならないためにまず私たちが神様の前に自(みずか)らを整えて、神を第一にすること。主のみ声を聴き、主の御思いを深く知ることができる関係、そういうものを常に培(つちか)って、それを大切に育てていきたいと思うのです。私たちの与えられたこの恵みの関係を大切にしていくならば、後は神様がどんなことでも知恵を与え、道を開き、すべてのことをよき事に造り替えて神様の御業を私たちは喜ぶことができるのです。

42節にありますように「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。彼女だけではありません。私たちからもそれは取り去ってはならない事柄です。神様のみ声を聴きつつ、親しい交わり、関係をしっかりと築いていきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。