いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月17日 日々の聖言

2014年09月17日 | 日々の聖言

「なんでも、隠されているもので、現れないものはなく、

秘密にされているもので、明るみに出ないものはない。」 マルコ4:22 



「これは秘密だから」と一人の人に言えば、必ず広がるのは世の常です。秘密が

秘密であり続けることはありません。必ず、明るみに出てくるものです。それは神

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聖書からのメッセージ(324)「福音に生かされて」

2014年09月17日 | 聖書からのメッセージ
 「ヘブル人への手紙」4章1節から7節までを朗読。

 2節「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」。
 
教会にきますと、信仰、信仰、とよく言われます。最近いろいろな方から「先生、信仰というのはなかなか難しいですね」という言葉を聞きます。それは信仰を持って生きることの喜び、恵み、結果が得にくいからでしょう。信仰の難しさ、というのはいったい何なのだろうか?と思うと、自分の頭で理解していることと、実際の問題や事柄とのギャップ、隔(へだ)たり、それが結びつかない。それを結びつけるのが苦しいのです。信じたとおりにスーッとつながってしまえば何の事はないのですが、ところが人には感情がありますし、またいろいろ浅はかな知恵もありますから、ああも考え、こうも考える。御言葉を知っていながらなかなかその御言葉に結びつくまでに時間がかかる。ここが難しい。私は最近、図らずも何人かの方々からいろいろな形で「先生、信仰って難しいですね」と言われて、もう一度改めてそのことを考えてみるときに、そこにくるのです。

 2節に「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」とあります。「福音」とあります。「福音」とは、ご存じのように、グッド・ニュース、「良き知らせ」です。ユダの野で野宿をしていた羊飼いのところに御使が現れて、「あなた方に喜ばしいおとずれを伝える」といわれました。うれしい話です。うれしい話、喜びの言葉であるはずなのに、ちっとも心が喜べない。実際、私たちが聖書のお言葉、神様の御言葉を受けながら、なんかちっとも喜べないでいるのはなぜか? そこです。そうなると「信仰は難しいな」となってきますが、これは何も新しいことではなくて、まさに聖書のなかで、多くの人々がそのことを語っているのです。

1節には「神の安息にはいるべき約束」とも記されています。神様が私たちに安息を与えてくださる。平安、安きを与えてくださる。ところが、実際の自分には安きどころではない。年中不安と恐れと思い煩いと怒り、憤り、カニが泡を吹くようにつぶやきばかりがいつもある。そういう自分の姿を見ると、「信仰していてなんになるのだろう」「信仰とは難しいな。いつになったら……」と思ってしまう。事実、この記事は少し前から続いていることですが、イスラエルの罪のことです。

「ヘブル人への手紙」3章16章から19節までを朗読。

これはエジプトで奴隷の生涯を送っていたイスラエルの民が、あまりの苦しみのなかから神様を呼び求め、それに答えてモーセという指導者がたてられ、約束の地カナンを目指して旅立ちました。エジプトを脱出しました。それから荒野の旅路をたどって、やがてカナンの地が目前、カデシ・バルネヤという所に来ました。ヨルダン川を渡れば神様の約束の地・乳と蜜の流れる緑豊かな所です。そこへ神様はイエスラエルの民を入れてくださるという約束です。彼らはそれを喜び楽しみとして、その約束を信じて荒野の苦しい旅路をも耐え忍んでやって来たのです。いよいよヨルダン川を渡るだけという所で、神様は一つの試みをなさいました。それはイスラエルの民に「カナンの地を探ってきなさい」と、イスラエルの12部族から一人ずつ代表を選びまして、12人の者が出掛けて行ったのです。カナンの地を40日にわたって偵察(ていさつ)し、帰って来て、イスラエルの人々に報告をしました。そのときに二つの話がありました。一つは良い話、もう一つは悪い話です。良い話は「そこは実り豊かな土地の肥えた所で本当に素晴らしい場所である」と言って、その土地で収穫された物を持って来た。それを見て、彼らは大喜びをしたのです。「よしよし、こんな良い所なら早く行こう」という気持ちになった。ところが、もう一つ話がある。それは「このカナンの地には先住民がいる。しかも彼らは丈(たけ)が高く、強い民で、堅固な町があり、軍隊がある。自分たちはエジプトから出てからズーッと旅ばかりしていますから、敵と戦う道具など何もない。素手で向かわなければならない。だから、自分たちが入って行ったら一たまりもなくやられてしまう。まるで虫けらをふみつぶすように……。しかも彼らは背が高いアナク人の子孫ネピリムたち、巨人族の末えいである。こんな者に太刀打ちできないという話です。しかし、「カナンの地に入ったならば、カナンの地を必ずあなた方に与える」という神様の約束があります。その約束を信じてここまで来たのですが、現実を見たのです。もちろん良い話もあるし、悪い話もある。「さぁ、どうするか」ということになります。「行くべきか、行かざるべきか」。ところが、もう一つは神様の約束、イスラエルの民に対して「あなた方にこのカナンの地を与える」と約束してくださった。その神様を信じるのか、現実に聞いた事柄、見た事柄、それにどう応えるのか? これが信仰の戦い、実にきついところです。よく「信仰は難しいですね」と言われる理由は、まさにそこにあるのです。イスラエルの民はそのときどうしたか。彼らはがっかりしました。神様の約束を信じて、そこは素晴らしい所だとは聞いて来たけれども、現実はそうたやすいものではない。それどころか、もっと悪くなるかもしれない、命を失うかもしれない。それほど厳しい状況がある。だから、その時に神様の御言葉に懸けるのか、それとも自分が見聞きしている事柄に自分を置くのか、この二者択一が絶えず求められます。信仰生活とは、まさにそこです。その戦いを常に戦っていくことです。だから、そのときに問われるのは、信仰の中心をどこに置くかです。自分の業としての信仰、自己中心の信仰、いうならば自分が安心でき、自分が納得し、自分が理解でき、自分が手で触り、自分が何もかも知ったうえで神様を信頼する。あるいは自分は一生懸命に努力する。一生懸命に頑張る。でも、自分は力がないことは重々知っているし、弱い者であることも百も承知、だから神様に助けてもらう、神様にすがる。苦しいときの神頼み、とはまさにそういう状態です。「自分の力では及ばない、自分の手ではどうにもならないから、ひとつ神様お願いします」と言って、神仏にすがるのが多くの信仰のあり方です。

だから、このときイスラエルの民は自分たちの都合のよいように考える。カナンの地に行けばそこは楽園であって、食べる物にも事欠かないし、生活は不自由しない。あるいは何もかも事が順調に進んでいくに違いない。でも、そればかりでないかもしれない、ひょっとしたら心配なことがあるかもしれない。そこは神様がついていてくださるから、そのときは神様に頼めばいいし、という信仰である。そうであるかぎり、どうしても神様のお言葉に信頼するとはいえない。このとき彼らは、「こうなったら、行ったって死ぬんだったら、いっそのこと、もう一度エジプトに帰ろうではないか。エジプトの方が生活は楽だった」と言います。どんなに苦しかったかとっくに忘れているのです。「死ぬぐらいだったら帰ろう」と、モーセやアロンたち指導者を石で殺して、自分たちは別の指導者を立てて帰って行こうじゃないかとなってしまった。そのときに12人の斥候(せっこう)の中のヨシュアとカレブという二人は、民に対して「主にそむいてはなりません」(民数記14:9)と言って、神様の約束は確かなことだから、お言葉を信じて、たとえ命を捨ててもいいからそこへ行こうではないかと勧めます。ヨシュアとカレブの信仰は神様のわざを信じている。神様が働いてくださるのだから大丈夫です、と信じるのか、それとも自分の力と努力でやるけれども足らないところを神様が補(おぎな)ってくださるから大丈夫と信じるのか。これは大きな違いです。

ヨブがそうです。ヨブの信仰がまさにこの二つの戦いだったのです。ヨブは正しい人で、神様もお墨付きを与えるぐらいの立派な信仰者であった。彼は一生懸命に神様を尊び、そして敬(うやま)って、神様に罪を犯さないようにと、犠牲や燔祭もささげて、きちんと神様の前に歩んでいました。それは何のためにか? 自分の生活がちゃんと成りゆくように、家族が罪を犯さない、神様の罰を受けないように、自分のわざで一生懸命に神様を信じていく。ところが、それに対して神様はサタンを用いて試みを与えられました。まず自分の子供や財産を全部取られました。そのときだって彼は「主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)と言って、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」と実に立派なことを言う。ところが、その後、今度は自分の健康を取られます。全身を訳の分からないはれもの、おできで悩まされて、夜、昼となく苦しむ。初めてそのなかにあって、「神様はいったいどういうことをしようとするのか。私のどこがいけなかった、どうしてこうなったんだろうか」と悶々(もんもん)と悩みます。そのとき、友人がきていろいろな忠告もしてくれましたが、彼は彼らの言葉に納得できない。最後はどうなったかというと、神様から「お前は『どうしてだ、何でこうなった、訳が分からん』と言うけれども、じゃお前は何でも知っているか」と言って、次々と問いかけられます。何にも答えられないのです。そのとき初めて彼は「私は誠に無知なこと、愚かなことを申しました。ただ口に手を当てるのみです。もう二度と申しません。あなたはどんなことでもおできになる御方です。わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」(ヨブ記42:2,5)と告白しました。それは神様のわざのなかに自分を置く信仰です。ここに至る戦いが実は苦しい。だから多くの方が「信仰するというのは難しいですね」と言われるその原因は、ここにあるのです。自分の業を信じる信仰なのか、あるいは神様のわざを信じていく信仰なのか。私たちは常にそのところでの戦いがあります。自分本位の信仰から神様を信じる信仰に立つ戦いです。

 マリヤさんがそうです。ある日御使ガブリエルがやって来て「恵まれた女よ、おめでとう」と語りかけられて、彼女はびっくりしました。「いったい何事だろうか」と。そうしましたらとんでもないことを言われる。「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」と。とんでもない話で、彼女は「どうしてそんなことがあり得ましょうか。まだわたしは結婚もしていないのに」と、彼女にとっては到底受け入れがたい事柄、自分の知識を越え、理解を越えたことです。だからといって、彼女は神様を信じていなかったのではない。信仰を持って生活していた。でも、そのときの戦いは大変だったと思います。自分の考えで言うならば、世間体もある、あるいは世の中の様々な仕来りや習慣もある。結婚もしないのに子供をみごもることになったらどうなるだろうか。体面もめんつもつぶれてしまうだろうし、そうなったら大変なことだ。そんな自己中心な思いに囲まれる。そのなかでマリヤさんは悶々(もんもん)としているのです。喜べる状態どころか、早く逃げ出したい思いがしたと思います。でも御使が繰り返し彼女に語りかけて、ついに「神にはなんでもできないことはありません」と言われる。「神様がなさるんだよ。お前じゃないよ」と。私たちはそこに行くまでが苦しい。だから、クリスマス祝会の劇のように、「恵まれた女よ」と言われて、「うれしい」と、一瞬に変わったわけではない。私たちと同じです。そういうとき、いろいろな問題に当たって自分の信仰を試されるといいますか、探られるのです。マリヤさんも自分の信仰を探られました。そして初めて「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」、言い換えると、神様、あなたの思うとおりにしてください、ということです。神様、あなたの御心のままに、と自分を神様のわざに委ねる。これが信仰の難しいと感じられる由縁(ゆえん)です。

 「ヘブル人への手紙」4章2節に、「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」とあります。「彼ら」というのは、先ほど申し上げたように、イスラエルの民、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ろうとしている彼らです。ところが、彼らはそこで神様の約束を信じて神様のわざのなかに自分を置くのか、それとも自分たちの理解するところ、考えるところ、調べてきたところ、いろいろな情報に基いて、神様の思いを限る、神様の導きを拒むか、そこの二つです。そのときイスラエルの民はどうしたかというと、結局、彼らはヨシュアとカレブが「神の側に立とうではないか」と言ったときに、彼らはそれを拒んだのです。それで神様は「イスラエルの民を私は捨てた」とまでおっしゃいました。しかし、モーセがそのとき執り成して、神様の憐れみを求めたのです。その結果、神様は「それでは40年間、更に荒野の旅をしなさい」と。そして神様に背いた人々がみな死に絶えてしまって、次の世代になったときに初めてカナンの地に導き入れてくださったのです。

だから、2節に「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」。そのとおりです。いま私たちにも「きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである」(ルカ2:11)と福音が伝えられている。あなた方の救い主、神様が私たちにくすしく、驚くべきことをしてくださった。力あるわざを私たちに起こしてくださると約束した神様のお言葉、福音を信じるのか、それとも自分の業や自分の計画で、自分の様々な事柄を信じていくのか。私たちはどちらの側に立とうとするのか、これは戦わなければならない、これは信仰生活の大切な事柄です。神の側に立つ信仰、神様の御言葉に望みを置くこと、神様に懸けていくことです。ここに初めて福音を福音として、喜びのおとずれとして受け入れることができるのです。マリヤさんが「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と自分を投げ出していく信仰、死んだ者となったのです。神様の手に、わざのなかに、自分をスッポリ投げ込んだときに、彼女は喜びに変わった。それまで不安と恐れと憤りの中にあった彼女はガラッと変わったのです。「この卑しい女をさえ心にかけてくださいました。力あるかたがわたしに大きな事をしてくださったからです」と喜びました。本当に手のひらを返したというのは、彼女のことです。クルッと変わってしまった。私たちが喜べないでいる。「こんなに信仰しているのに、私はどうしてこんなに喜べないのだろうか」、その原因は何か。それは私たちが神様のわざに自分を懸けないからです。一つ一つどんなことも、大きなことも小さなことも、神様が事をしてくださって、わざを起こしている。私たちはその神様の僕、はしためにすぎない。神様に仕えていく者と認める。

このときイスラエルの民は福音が伝えられたけれども無益であった。「しかし」と2節の後半に「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった」と。私どもも聖書のお言葉をこうやって絶えず、繰り返し聞き、毎日その御言葉に触れていながら、ただそれを聞くだけ、それを知っているだけではなく、自分の生活に結びつけなければなりません。その後に「それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」とあります。「結びつける」とは、いま申し上げたように、神様のわざのなかに自分を置いてしまうことです。神様がいまこのことをしてくださった。「御言葉に約束されたように神様が働いてくださるのだから、私はいま主が求め給うところ、主が『せよ』とおっしゃるところに従います」と、そこで信仰に結びついていく。だから、「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(ピリピ 4:4)とおっしゃる。「そうだ。喜びましょう。主が私と共におってくださるから」。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」(マタイ28:20)と、そのような御言葉はいくらでもポンポン口からついて出るけれども、実際の生活で具体的な問題や事柄が起こったとき、お言葉に結びつかない。そうではなく、その言葉に対して自分を捨てる。自分の思いや感情を捨てて、「主がこうおっしゃっているから、もう神様の手に私は委ねていきます」。そしていま求められていること、「喜べ」と言われるから、「感謝せよ」とおっしゃるから「感謝しようじゃないか」と。「思い煩うな」、「心を騒がすな」とおっしゃる。「神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われるのに、それは知っているけれども、現実の事柄になると「あれはどうしようか」「これはどうしようか」「ああなったらどうしようか」「こうなったらどうしようか」と言う。そこに右往左往している自分がいる。それはみ言葉が身につかないからです。

神様のお言葉を信じて、それを自分の具体的な生活の一つ一つの事柄に結びつけていくこと。主がこうおっしゃってくださるから、信じていきます。きっと神様がこのことに働いてくださる。「万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)と言われるから「大丈夫です」と信じていく。「大丈夫だと言っても、そんな口先ばかりで、いったい何が大丈夫なんだ、具体的に言ってみよ」と言われる。しかし、具体的にどうなるのか私たちには分かりません。「神様がいちばん良いことをしてくださる」という。「良いことって、どんな結果が出てくるか」、そこをちゃんと説明し、理解し、分かるようにならないと信じないとは、自己本位の信仰です。分からなくていい。何であるか分からないけれども、神様が約束してくださっているから、神様は決して悪いことをなさる御方ではない。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」(ヨハネ3:16)とおっしゃる。そのお言葉に対して、「私を愛してくださるのだ」と信じる。「あなた方の天の父は」とまで言われる。神様は私たちのお父さんです。その御言葉に心を委ね、神様が働かれるのだから、それぞれの事にどういう道をとってくださるか分からない。私たちは分からないけれども、いま目の前のこの事は神様の手に握られていること。そして神様がわざをしてくださるのだから、私が今日すべきことは何でしょうか。先のことは分かりませんから、どうとも言えません。ただ今日、一日一日私どもは主に従う僕となっていく。「わたしは主のはしためです」と。神様に仕える一日一日を過ごす以外にない。そういう意味では、いうならば、クリスチャンはその日暮らし。ですから、先のことは分かりません。

 間もなく今年も終わります。するとつい、来年はどうなるだろうかと思ってしまいます。それこそ来年のことなんて分かりません。今年だってそうでしょう。年頭に、今年はきっとこうなるに違いない、自分はこういう病気をして、それが何日間ぐらいで治って、その次はこうなって、ああなってと、誰も知らないままに来た。私もそうであります。今年の4月に狭心症で入院して、心臓にステントを入れるなんて思いもしません。もちろん願いもしません。でも神様がそのことをしてくださった。いろいろなことが、この1年もありましたが、どれ一つとして自分で考えて、自分で計画して、自分の思ったようにというのは、何にもありません。あるのはただ神様の御業、神様のわざを信じてきたのです。神様が働いておられる。神様が今このことを起こしていらっしゃると信じて、神様が「我は全能のなり汝わが前に行(あゆ)みて完全(まった)かれ」(創世記17:1文語訳)とおっしゃる。主の全能の力を信じて、それにすがって従っていくことであります。

来る1年もまたいろいろなことがあるでしょうが、まず信仰に立って行こうではありませんか。神様の約束のお言葉、福音を聞いていながら、それを聞き流さない。2節に「というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである」。伝えられているのです。「しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった」。「それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである」。「結びつけられなかったから」無益であるのです。これは誠に惜しい、もったいない話です。

 一つ一つお言葉を握って、御言葉に私たちは結びついていきたい。先だっての一年の感謝会で、それぞれにこの年、この御言葉で励まされ、慰められ、力づけられ、信仰に立って歩ませていただいた証詞を聞かせていただきましたが、まさにそれが私たちの福音に立つ生き方です。来たります新しい年、御言葉を握って立ち、御言葉を踏み生きる者となりたい。それを自分の生活の具体的な事柄のなかに体験して行きたいと思います。マリヤさんのように「お言葉どおりこの身に成りますように」、神様、あなたのお言葉を信じますと。そしてその御言葉の大きな力と慰めと望みを体験して、そのことを証詞する者となりたい、喜ぶ者となりたいと思います。

 ここにありますように、イスラエルの民の失敗を悪しき例として、それに倣(なら)わないで、きちんとマリヤさんのように主の御言葉に自分を懸けていくこと。その一切を神様のわざのなかに自分を置いて行こうではありませんか。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。