いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月14日 日々の聖言

2014年09月14日 | 日々の聖言

「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。

わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」イザヤ43:19 


人が考えることは限りがあります。新しいと言われることでも、同じ事が他にあったり、

過去にあったりします。しかし、神様の業は人の知恵・知識を越えたものです。しかも、

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聖書からのメッセージ(321)「年中クリスマス」

2014年09月14日 | 聖書からのメッセージ
「ヨハネによる福音書」1章1節から13節までを朗読。

4節5節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」とあります。

今日からがアドベント、待降節という季節を迎えることになりました。アドベントとは「待降」、イエス様の御降誕を待ち望む期間です。「でもイエス様はとっくの昔に生まれたじゃないか。それを今更何をするんだ」と思いますが、救い主である主イエス・キリストの御降誕がどういうことであったか、それが自分にとってどういう意味があり、私にどのような力、作用を及ぼしているか、つぶさに思い返す恵みの時です。確かにイエス様は2千年前にベツレヘムの馬小屋に生まれてくださいました。しかし、それは語弊(ごへい)があるかもしれませんが、実は一つのモデルです。イエス様が私たち一人一人の心の内に主が生まれてくださらなければ、何も役に立たないのです。

歴史をひも解いて、古代の日本の歴史や西洋史を読みますと、この時代にこういう国があってそういう文明が発達したことを知ります。エジプトという国があります。昔栄えていたパロ王様、何々という王様がいることを知ります。発掘された様々な資料からその王様がどういう生活をしていたか、どういう力を振るっていたかをつぶさに知ることができます。しかし、どんなに過去をほじくって、考古学でいくら研究してみても、そのことと今、現代を生きている私とは関係がありません。知識としての楽しみ、「ああ、そういうことか。知らなかった。なるほどね」という、そういう発見の面白さはあります。しかし、そのことが自分の生活、今生きている家庭でのこのこと、いろいろな問題や悩みと結びついていません。それはそれ、これはこれ、過去のものは過去という受け止め方をしています。

ともすると、イエス様の御降誕をそういう形で受け止めている。これは世間一般のクリスマス、イエス様の御降誕に対する一つの姿勢、あり方ではないでしょうか。世間でもこれからクリスマスシーズンを迎え、クリスマスセールも始まりますし、いろいろなことでクリスマスにかこつけて行事が行われます。では、イエス様がお生まれになったことと、今あなたの現実の生活、今日明日の生活のなかで、その主がどのようにかかわっているか、関係しているのかとは一切問われません。世間一般のクリスマスの考え方は、いうならば、過去の一つの出来事を記念して、お祭りをする。あるいはそれにかこつけて自分たちの今を楽しもうじゃないかというだけのことです。ところが、私たちにとってはそうではありません。イエス・キリストは確かに2千年前にベツレヘムの馬小屋に生まれてくださいました。そして、三十数年の地上のご生涯を終わって天にお帰りになりました。それを過去の一つの出来事として見るだけでしたら、それでおしまいです。しかし、そうであったら私たちがいくらイエス様を信じても何の役にも立ちません。イエス様が救い主としてこの世に来てくださった。この世に生まれてくださった救い主が今の私の生活のなかにおられるのか。また、自分の生活のなかにイエス様を迎えることです。

ヨセフとマリヤがベツレヘムにきたとき、宿屋がいっぱいでした。「客間には彼らのいる余地がなかった」(ルカ 2:7)と語られています。いうならば、イエス様を受け入れる場所がなかった。そして、とうとう馬小屋に生まれた、という話になっています。馬小屋であったか、どこであったか分かりませんが、どこであっても構いませんが、大切なのはイエス様がお生まれになったとき、イエス様を迎える人がいなかったことです。皆忙しくて、心にいろいろなものが詰まっていて、イエス様を迎える場所がない。そうやって外に追い出している。これはイエス様がお生まれになった二千年前のことではなく、今もいろいろな思い煩いや様々な思いが心にいっぱいになっている。イエス様はいらっしゃらない。どこにお生まれになったのでしょうか? まさにイエス様を私たちの内に迎えること、これがクリスマスです。イエス様が神の位を捨て人となって、肉体をとって宿ってくださった。その宿ってくださった場所は、実は私であり、皆さんお一人お一人です。神様はひとり子イエス・キリストを救い主として送ってくださった。だから、3人の博士が、羊飼いたちがイエス様の前にひれ伏して礼拝したように、私たちもまたいま置かれている生活のいろいろな問題や事柄があるなかで、私の救い主としてイエス様を受け入れること。これがクリスマスです。主を主として、神を神として、私たちの生活の中心に置いていくこと。「わたしが主である」とおっしゃる神様、また救い主となってくださった御方が、私たちの生活の心配や思い煩いや不安や恐れや悲しみや様々なことから救ってくださると言われる。ところが、そのことを忘れて、「こんな問題が起こったから、あの人に頼もう」「この悩みがあったから、こうしよう」「このことはこうしよう」と、そっちにばかり行って、イエス様を迎える場所がない。イエス様がここにいますと、その御方の前に私たちはへりくだって、謙そんになって、主を礼拝しなければ問題は解決しない。なぜならば、救い主によらなければ私たちは救われないのです。

イエス様がいつお生まれになったか、いろいろな議論があります。12月25日はイエス様の御降誕を記念する日だといって祝いますが、大切なのは過去ではなくて今、生きている私たち一人一人の人生のなかで、イエス様をどこに置いているかが大切です。イエス様を「主よ、どうぞ、ここに」と、心の中心に、思いの真ん中に常にイエス様を置いていくこと。これがクリスマスです。だから、年に一度だけではありません。クリスチャンにとって毎日、毎日問われていることであり、また毎日が実はクリスマスなのです。

 昔は、12月初めのころ、アドベントのころからしかクリスマスのいろいろな用品とか、デコレーションとか飾りとか、そういうものが手に入らなかったのです。ところが、最近「年中クリスマス」というお店があるのです。いつ行っても、サンタクロースが飾ってあったり、イルミネーションが売っていたり、クリスマスツリーのアーティフィシャルなものや、模造品、人工的なものが幾つも並んで、春であろうと、夏であろうと買える店があります。私は「うまいところに目を付けたな」と思いましたが、でもそのネーミング「年中クリスマス」というのは、実は私たちの専売特許ですよ。私たちこそ、毎日がクリスマスです。ところが、私たちはそれを忘れて、イエス様抜きで生きている。そして年に一度12月近くになると「そうか。クリスマス。イエス様がお生まれになったのだ」と言ってお祝いをしますが、お祝いは外側のことであって、自分に、心に主を迎えることをしない。

だから、アドベントという期間はもう一度、自分の生活、心の中にイエス様が救い主となってくださったかどうかを検証する。日々の生活がイエス様、救い主を中心にして回っているか、動いているかを点検し、主の御降誕を自(みずか)らの救いとしてはっきり確信を得るための期間です。だから、アドベントという名前は聞いているけれども、その間は何をするのか、案外と知らないでいます。私たちはこの期間、主の御降誕が自分にとってどのような意味があり、イエス様とどのようにかかわっているのか。イエス様をどういう御方と信じているのか。その思いを新しくして、イエス様をお迎えする。心に信じる者と変えられることなのです。

4節以下に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」とあります。この章は「初めに言(ことば)があった」という一節で始まりますが、ここで言う「言(ことば)」とは、主イエス・キリストご自身のことです。だから「初めに言(ことば)があった」は、「初めにイエス様がおられて」、そして「言(ことば)は神と共にあった」とは、「イエス様は神と共にい給うた御方」。そして「言(ことば)は神であった」とあります。「イエス様は神でいらっしゃった」。だから「言(ことば)」という所を「主イエス・キリスト」と置き換えて読んでいただいたらよく分かります。「この言(ことば)は」と、2節に「この主イエス・キリストは初めに神と共にあった」「すべてのものは、これによってできた」と。いうならば、イエス様は天地万物の創造のときから、すべての何にもないときに「ただ神のみいました」と創世記の1章1節に語られている。「元初(はじ)めに天地を創造(つくり)たまへり」(文語訳)と。天と地が創られる前に神様がおられた。そのおられた神様は、ひとり子である御子主イエス・キリスト、また聖霊なる神、そして天地万物、全能の神でいらっしゃる御方、三位一体の神です。だから、イエス様も天地万物が創られる一つ一つの御業を共に見ておられたことが箴言のほうに語られています(8:22~31)。だから、イエス様は神でいらっしゃった。1節の後半に「言(ことば)は神であった」と「イエス・キリストは神だ」と宣言されているのです。そして「この言(ことば)は初めに神と共にあった。3 すべてのものは、これによってできた」。だから、神様がすべてのものをお創りになった。いうならば、神の位にい給うた神ご自身、神の御子でいらっしゃる御方、主イエス・キリストがそこに立ち会って、その事の一つ一つにかかわっておられた。だから、私たちが造られるとき、イエス様もすべて知っておられる。父なる神様も私たちのことを知り尽くしておられる。だから、3節の後半に「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とあります。どれ一つキリストによらないで創られたものはなかった。いうならば、神によって創られなかったものはなかった。4節に「この言(ことば)に命があった」と、主イエス・キリストに命があった、ということでもあります。「そしてこの命は人の光」、主イエス・キリストは私たちの命の光となってくださる。そして「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」。では、なぜヨハネは「主イエス・キリスト」と書かないで、「言(ことば)」と書いたのでしょうか? 「初めに言(ことば)があった」と、そんなややこしいことを言わないで「初めに主イエス・キリストがおられた」、「主イエス・キリストは神と共におられた」といえばいいじゃないかと。ある方は個人訳の聖書ではそういう訳し方をしている。主イエス・キリストを信じるといいますが、私たちはイエス様を見たことはありません。イエス様に触れたこともない、イエス様の声を聞いたこともない。イエス様からメールでももらったこともないでしょう。どこにいらっしゃるか分からない。イエス様を信じるとは、何か漠然(ばくぜん)としていてつかみ所がない。死んだ息子のことを信じるとか、あるいは親のことを信じるとか、一度も会ったことのないいとこが北海道にいるけれども、年賀状がいつも来ているから、「あいつは元気にしているな」と信じている。あの人がいると信じている。いろいろな人を信じる、あるものを信じていくとき、手掛かりというものがあります。では、イエス様を信じる手掛かりは何か? それはイエス様が語って残してくださった聖書の御言葉です。だから1節に「初めに言(ことば)があった」と語られているのです。私たちがイエス様を知るのは、イエス様が何かしてくださったとか、イエス様の姿かたち、まぼろしを見たとか、夢うつつにイエス様が私の枕辺(まくらべ)に立ってくれたから信じる、ということとは違います。皆さんがいまイエス・キリストを信じるに至った最大のものは何であったか。確かに教会に来てあの人が勧めてくれたから、親友が説得してくれたから、「まぁ、そういうもんかな、取りあえず信じておこう」と信じた人もいるかもしれませんが、私たちが主イエス・キリストを信じたいちばんの手掛かり、根拠、それは聖書の御言葉です。聖書の御言葉を信じて、初めて主イエス・キリストを信じるのです。いうならばイエス様のお語りになった御言葉を信じることが、主イエス・キリストを信じることです。だから、イエス様がどのような御方であるかを知るには、いろいろな聖書を研究した解説した本を読むのではなくて、何よりも聖書の御言葉を信じて、その御言葉に懸ける、自分を委ねていく。これがイエス・キリストを知るただ一つの道です。それ以外にはありません。「イエス様って、こんな人だ」とか、「こんな御方だった」「イエス様はこのような力のある御方、愛のある御方。イエス様はこんな御方ですよ」と、人からいくら説明を聞いてみても、「じゃ、信じましょう」ということにはなりません。私たちにとって大切なのはイエス様の約束のお言葉、イエス様が語ってくださったお言葉の一つ一つを自分の生活のいろいろな問題や事柄があるときに、その御言葉にしっかりとより頼んでいく。イエス様が語ってくださった御言葉は、新約の四福音書の中にたくさん語られていますが、その四つの福音書のことをいっているのではなくて、「主は神なる御方」で神様が語ってくださったお言葉がすべて主イエス・キリストの御言葉でもあるわけです。だから、この聖書、創世記から黙示録に至るまでの全巻を通して、これは神様のお言葉であると同時に、キリストの言葉です。だから、聖書のお言葉を心に信じて、いま目の前にある問題や困難のなかで、悲しい出来事やつらいことや、怒り憤りがあるなかで、お言葉に頼る。いろいろな悩みや問題が目の前にありますと、「ああなったら、どうしようか」「こうなったら、どうしようか」「こういうことになるかもしれない、ああなるかもしれない」といろいろなことを想像する。人の悩みとは、いま目の前の事態よりもそれが引き起こしてくるであろう、まだ見もしない、成りもしない、有りもしない先のことを思い煩う。そのときに、その事を導いておられるのはあの人でも、この人でも、自分でもない。神様がおられること、神様が何と約束してくださっていらっしゃるか、聖書の御言葉の中に自分の望みを見出す。あるいは確信を与えられることが大切なのです。これが主イエス・キリストを私たちの心に迎えることであります。

私自身、この一年を振り返ってみましてもいろいろなことがありました。その事のあるごとに必ず御言葉が支えてくださる。また進むべき道、思う心の道筋をきちんと定めてくださったことを、今改めて深く思います。ある問題に当たったきに、果たしてそれがどうなるかこうなるか分からない。想像すれば、考えれば、いろいろと不安と心配があったとき、祈っていました。そのとき「この事は主から出たことですから、わたしどもはあなたによしあしを言うことができません」(創世 24:50)と、これは旧約のお言葉でありますが、イサクのお嫁さんを探しに来たとき、リベカの家族が語った言葉ですが、その御言葉が心にとどまりました。そして、「心配だな」と思ったときに、「この事は主から出たことです」と、御言葉に立ち返る。そうすると「そうでした。心配する必要はなかったのですね。神様がこのことを導いてくださるから大丈夫です」と、心が神様のほうに向く。その問題が解決するまで何度となく一つのお言葉が常に心から離れない。皆さんもそういう体験をなさるに違いない。まさに、そこにキリストがいらっしゃるのです。それを信じていくところにキリストを信じる生活が具体化していくのです。御言葉がない生活、聖書のお言葉から離れて人の思いだとか、世間の人の言葉だとか、いろいろなものばかりに自分の心が占領されて、「客間には彼らのいる余地がない」。そういう生活をしていますならば望みを得ることができません。喜びも感謝も湧いてきません。しかし、そういう悩みの中で心がいっぱい思い煩いで満ちあふれているとき、少し場所を作ってキリストの思いを受けいれる。言い換えると御言葉を心に抱いていきますと、それまで力がなく、望みなく、失望落胆していたところに、御言葉を通して光が差してくるのです。

4節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」。お先真っ暗、あれも駄目、これも駄目、何をしても、これはちょっと無理だよ。もうあきらめるか、というところでも、もう一度神様の御言葉に私たちの思いが一つになると、そこから光が差してくる。私たちに望みを与えてくれます。感謝する思いが生まれてきます。神様の霊が御言葉を通して、いうならば、キリストの霊が今度は具体的に新しい思いを与え、私たちの心を導いて今まで自分では思いもしない、考えもしなかったところへと道を開いてくださる。この一年を振り返ると、いろいろなことを通して、そのとおりだったと感謝です。具体的なことはいくらでもありますが、時間がありませんからお話しすることができませんけれども、あのこと、このことと、いろいろなことがあります。しかし、その度ごとに「この言(ことば)に命があった」と実感させられました。イエス様のお言葉、いうならば、イエス様ご自身に私たちが結びつくこと、お言葉を通してイエス様の命をいただく。これがクリスマスです。

 「ヨハネによる福音書」6章60節から65節までを朗読。

 63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」とあります。キリストのお言葉こそが私たちの命であり、神様と私たちを結びつける霊が私たちの内に宿ってくださる。御霊、聖霊、神の霊によって私たちは神様との交わりに入れていただくことができるのです。だから、悩みのなか、困難のなか、思い煩いに満ちたとき、私たちにとって唯一のより所は、人の力でもなければ、友人知人のアドバイスによるのでもなくて、実は聖書のお言葉なのです。一つ一つのお言葉にしっかりと根差していくとき、そこから光が差してくる。そこから私たちに力が与えられる。命が与えられる。これは確かであります。だから、何か事があったとき、思い煩いいろいろな思い掛けない出来事に出会ったときに、何をするか? それはまず主に立ち返ること。「神に帰れ」と繰り返し勧められています。神様に立ち返って、神の御言葉、キリストのお言葉をしっかりと心にいただくこと。今この問題を通して、神様は私に何を語ってくださるのだろうか。祈って、「主のお言葉をください」と求めていきますとき、私たちが忘れていたお言葉を神様が思い起こさせて、神様の臨在、神様がそこにいます、と実感することができます。お言葉を握って立っていくならば、問題がどう変化しようと、どういう事態のなかに置かれようと、「大丈夫です。主がこう約束してくださいましたから」と、主のお言葉にのみ信頼していく。そのときに目の前の問題が何の変化もない、むしろだんだんと悪くなっていくように見えたとしても、トコトン主のお言葉に立っていくのです。これが大きな力です。

 今年一つのことがあって「どうなるだろうか」と不安になって思い煩ったことがありましたが、そのときに「自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ」(箴言3:5,6)とのお言葉が絶えず心にありました。我が家は私と家内と二人っきりですから、二人だけだったら何の問題もないのですが、二人だけではないのです。あの人、この人、この人、あの人と我が家の子供たちがたくさんおりまして、その子供たちがあちらで何かしてくれる、こちらで何かしてくれる。いろいろな問題を起こしてくれますから、その度にハラハラドキドキする。これがまだ自分の子、血を分けた子ならばけ飛ばしてでも何をしてでも何とかなるのでしょうが、そうではなくて、主にあって神様が送ってくださった人たちですから、神様の許しがなければ私は手が出ないのです。それで主の御心を求めます。でも現実のいろいろなことを見ると、その先、その次はどうなるだろうか、こうなるだろうか、いろいろと考えるのです。そうすると「これは無理じゃない」。自分の年齢も考える。「もう67歳にもなる、あと10年で77歳、これはもう無理だよ」と。これは自分の知識です。皆さんが心配するときは、大抵自分の知識に頼っているでしょう。「ああなったら、もう駄目だし、こうなったらこのほかには道がないし、お金はないし、時間はないし、健康はないし、あれもないし、これもない。こうなったらもう仕方がない。ああ、これはだめだなぁ」とため息が出るでしょう。そのときに「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。6 すべての道で主を認めよ」、そのとき「そうでした。主よ、いまこの子がこういう問題のなかにありますが、私が考えたら到底望みがありません。しかし、主よ『すべての道で主を認めよ』とおっしゃいます。この不幸と思われる、この悲しみと思われる出来事を起こしていらっしゃるのも、主よ、あなたです」と、御言葉に立ち返る。そして「神様、あなたの御手に委ねます」と、心を定める。そのときの安心といいますか、喜びは、言葉に言い様がないのです。「これで大丈夫」。大丈夫といっても、目の前のことは何も変わりません。しかし、もう大丈夫なのです。神様が握っていらっしゃるのですから。あの人がこうなるに違いない、こうやってばら色に変わるに違いない、と信じるのではなくて、神様を信じるのです。だから、イエス様がおっしゃるように、「を信ぜよ」(マルコ 11:22文語訳)と、この一言に尽きます。神を信じるとは、御言葉を信じるのです。皆さんに与えられた一つ一つのお言葉を「そうです」と。「そうだ。すべての道で主を認めよ、すべての事を神様が支配していらっしゃるのだから大丈夫」と思った途端、私が「この道は絶対危ないぞ」と思ったけれども、「いや、ひょっとしたら、神様はそれも『いい』とおっしゃるのかもしれない」。行き詰って転んでしまって、その子が痛い思いをしても、それも神様がその先を備えられることがあるのだったら、まぁ、いいじゃないか」と、こちらの心が豊かに広くなります。懐が深くなっていきます。ところが、そこにいかないと非常に狭い考えにとらわれて、そこから一分一厘離れたら、もう世は終わりだ、と言わんばかりに闇の中に入るのです。

 「ヨハネによる福音書」1章4節に「この言(ことば)に命があった。そしてこの命は人の光であった」。私たちの希望の光は事情や事柄ではなく、御言葉を信じて心を明け渡していくとき、そこから必ず光が差してくる。私たちの闇の中に取り込まれていた心が、輝いてきます。闇は消え去っていく。その後にありますように「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」と。どんな小さなろうそくの火であろうと、線香の火であろうと、真っ暗闇にポッと照らしてご覧なさい。どんな漆黒(しっこく)の闇でも、闇が消えてほのかな明かりが差し込んできます。ましてや御言葉の光が放たれると、心の闇を取り除いて、希望を与え、平安を与え、喜びを与え、望みに満たしてくださいます。

 この御言葉の力を味わっていきたい。そして、御言葉を心に素直に受け入れるところにクリスマスの不思議な大きな恵みが注がれてくるのです。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。