いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月23日 日々の聖言

2014年09月23日 | 日々の聖言

「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。

たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」ガラテヤ6:9


私達はせっかちですから、はやく結論を得ようと焦ります。また「善事」を行うと、

すぐに報いを求め、期待します。応えられないと、なんだか自分が損をしたよう

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聖書からのメッセージ(330)「キリスト命」

2014年09月23日 | 聖書からのメッセージ
 「テモテへの第二の手紙」2章8節から13節までを朗読。

 8節「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。

 福音という言葉はキリスト教ばかりでなく、世間一般でも「よい知らせ」「グッド・ニュース」という意味でよく耳にする言葉でもあります。難病の人のための新薬が開発されたなどというニュースが伝わりますと、“福音”という言葉を使います。その人にとって幸いなおとずれ、知らせ、ニュースということです。では、私たちにとって何が福音なのか? 自分の生活を省(かえり)みて、あそこが足らない、ここが不足している、あるいはこういう悩みがある、困難がある、それが解決すると、「これは福音だ」と思います。先ほど申し上げたように、難病で現代の医学では治療が困難といわれる病気に解決が与えられるならば、病気の人にとって、大きな喜びであり、福音であることは確かです。では、それですべての問題が解決するかというと、必ずしもそうとは限りません。確かに、その一つの問題は解決するでしょうが、人生には、経験しているように、その一つだけがすべてではない。日々の生活は多岐にわたって、いろいろな問題や悩みのなかに置かれています。すべてのことを貫いて解決できる福音、「これは解決しましたよ」と宣言されるものは何か? これが本当の意味の救いではないでしょうか。

その救いは何か。ここに「これがわたしの福音である」と語られています。この記事はテモテという弟子にパウロが語ったものですから、「わたしの福音」とは「パウロの福音だろう」と思います。しかし、パウロのみならず、実は私たちにとっての「よきおとずれ」です。それは「イエス・キリスト」であると語られています。イエス様がよきおとずれです。救いとはイエス様が何かをしてくれることだと考えます。聖書には、イエス様が私たちの罪のあがないとなって十字架に命を捨ててくださったとあります。だから「神様がしてくださった」、「してもらう」ことに期待します。「神様は私に何をしてくださる?」「どんなことをしてくださるだろうか」と私たちは願います。確かに、神様は私たちにいろいろな良いことをしてくださる。願ってもいないような、思ってもいないような大きな喜びを与えてくださる。実は、その究極のものはイエス・キリストを私たちに与えてくださったことです。イエス様を私たちのものとする。

「マルコによる福音書」10章17節から22節までを朗読。

ある人がイエス様の所へ来まして、「永遠の生命(せいめい)を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。そこでイエス様は「いましめを守りなさい」と勧めたところ、彼は「それらの事はみな、小さい時から守っております」という。実に感心な人物でした。イエス様はそのことに大変感服しました。彼の素晴らしさを認めましたが、「あなたに足りないことが一つある」と言われた。続けて「持っているものをみな売り払って、そして、わたしに従ってきなさい」と言われました。ここで大切なことは「永遠の生命とは何か?」です。「永遠の生命」とはイエス・キリストそのものです。だから、ここで「わたしに従ってきなさい」とイエス様は言われましたが、「わたしに従う」とは、取りも直さず「わたしが永遠の生命なのだから、わたしと共にいなさい。わたしに従ってきなさい」と。言い換えると「わたしの行く所どこにでもあなたがおればいいのだ」ということです。イエス様に結びつくこと、これが「永遠の生命」です。それ以外にはありません。「いや、永遠の生命って、死んでから先、天国に入れてもらうのが永遠の生命だろう」と思いがちです。もちろん、それも間違いではありませんが、それはイエス様が私たちのいのちとなってくださるから、そうなるのであり、それは結果です。私たちが生きていようと死んでからの先であろうと、常にイエス様が私の永遠の生命なのです。私たちのいのちにイエス様がなってくださった。これが私たちの信ずべき救いであります。だから、「永遠の生命って何ですか?」と問われると、聖書には「神を知ることと神様がつかわされた御子イエス・キリストを知ることである」(ヨハネ17:3)と語られていますが、もっと分かりやすくいうならば、イエス様を私たちの心に信じること、受け入れること、イエス様に私たちが結びつくこと、これが永遠の生命です。

「永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」と尋ねた人は、イエス様からもらうものがいのち、イエス様の指示に従って、イエス様の与えてくださる何かが永遠の生命に違いない、と思った。まさか、イエス様ご自身が永遠の生命そのものであるとは、気がつかなかった。だから、イエス様がここで「あなたの持っているものをみな売り払って」と言われますが、なぜそんなことをしなければいけないかというと、イエス様を私たちの内に持つためには、まず自分というものがあるかぎり、イエス様に従えないからです。だから、「ヨハネによる福音書」に「もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう」(12:26)と語っています。「わたしが来るところにあなたが来たら、わたしと一緒におられますよ」と。イエス様の行く所、どこへでも付いて行く。ここに永遠の生命に結びついて生きる秘けつがあります。ところが、自分の考えを持ち、自分の計画があり、自分のするべきことがあり、この世の中で自分のものがたくさんありますと、イエス様が求められる所へ付いて行けない。付いて行くためには身軽にならなければ、人の後ろを付いて行くのはなかなか難しい。

チョットの間は付いていきますが、しばらくすると、「どうしてこんなことを……。何でこっちの道を行くのだろうか」とか、時にはほかの人に付いて行ってしまう。車で知らない所へ行くとき、地理の分かった人に案内してもらいます。「私が先導しますから付いて来てください」と。その人の車について走って行きます。全く未知の所ならば、知らないから謙そんになって見失うまいと一生懸命に付いて行きますが、少しでも知った所だと、「この道だったらこっちへ行けばいいのに、どうしてあっちへ行くのだろう?付いて来いというけれども、これは遠回りだよ」と、だんだん苛立(いらだ)ってきます。遠回りに見えても、何であろうと「付いて来なさい」と言うから、「はい」と、黙って付いて行くのは、余程円満な人間にならないとできません。それがここでいうところの、持ち物を売り払い、空っぽになることです。自分をむなしくすること。そうしないとイエス様と一緒にいることができない。イエス様が行く所、どんな所へもついて行く。イエス様は十字架の道すらも歩まれました。イエス様に付いて行くのだったら、十字架にまでも一緒に行かないと途中ではぐれてしまう。「イエス様、そっちへは結構です。お独りでどうぞ」と。それでは永遠の生命の生涯を自分のものとすることはできません。だから、ここでイエス様が「あなたの持っているものをみな売り払って、そしてわたしに従いなさい」とおっしゃったのです。

ところが、この人は22節にありますように「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」と。「ああ、これはもうできない」と思ったのです。そうやってイエス様から遠ざかってしまう、言い換えると永遠のいのちを失ってしまうのです。私たちにとってイエス様が私たちの内に宿っていのちとなってくださることが、神様の私たちに与えてくださった大きな恵みなのです。これを抜きにして、私たちが神様から頂いた大切なものは、ほかにありません。いうならば、イエス様からいのちを頂くのです。

「ローマ人への手紙」6章4節から6節の前半までを朗読。

4節に「わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである」とあります。イエス様の救いにあずかるとは、イエス・キリストを信じて、イエス様を私の救い主、永遠のいのち、私のいのちですと信じることです。そのことを言い表すといいますか、そのように信じています、と証詞したのがバプテスマです。これまでの私、「自分が、自分が」と、この世で、あの富める青年のように財産がたくさんあった。目に見える財産はありませんが、心に「自分」という大きな、大きな宝を持っていた。「私が!」と。そういうすべてをキリストと共に葬ったのです。ここにありますように、イエス様の十字架に「共に葬られた」。イエス様と一緒になって死んだ者となった。その後に「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」。「新しいいのちに生きる」こと、これがキリストを私たちの内にいのちとして頂いていくことです。イエス様が私たちの内に宿ってくださる。キリストが、よみがえった主が私たちの内にあっていのちとなってくださる。だから、これは私たちにとっていちばん大切なものです。よく子供たちでも「何がいちばん大切か」と聞くと、「いのち」といいます。そういうときの「命」は肉体の命です。私たちにとって命とは、確かに肉体の命もそうでしょうが、何よりもキリストが私のいのちとなっていることです。これが大切な恵みであり、また失うことのできないものであります。いのちですから、これをいちばん大切にしなければいけない。どうでしょうか?「あなたにとっていちばん大切なものは何ですか?」と問われて、「あの首飾りかな、あれかな…、これかな…」と思いめぐらしますが、「あなたにとっていちばん大切なものは何ですか?」と問われて、「キリストです」と答えることができるなら、これほど幸いな人はいません。

「わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」と4節の終わりにあります。5節に「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら」と。いうならば、イエス様が十字架に死んで葬られなさったように、私というものはすでに死んだ者なのだ。イエス様と一緒に死んでいる。その後に「さらに、彼の復活の様にもひとしく」、そうやって死んだ者となれば、今度は死の中からよみがえらされたイエス様、復活なさったイエス様と同じようによみがえり、イエス様に結びついて生きる新しいいのちの生涯に変わっていく。これが私たちの救いです。これまでの世にある、肉に生きてきた私たちの日々の生活の一切を捨てて、イエス様が永遠の生命を求めた人に言われたように「自分の持っている物をみな売り払って貧しい人に施す」のは、まさにイエス様と一緒に十字架に死ぬことです。死んだ者となりきって生きるならば、今度は私たちも新しいいのち、キリストと結びついて、キリストと一体となって生きる生涯に造り替えてくださる。いま私たちはその中に置かれている。このことを絶えず自覚していただきたい。「なるほど、そういうこと。分かった、分かった。はい、そのことはそれでおしまい。で……」というように、これを脇に置くからいけない。「私はもう死んだもので、イエス様が私のいのちなのだ」と、このことを信じて、日々の生活の一つ一つのなかに死んで生かされる喜びを味わうのです。キリストと共に絶えず死ななければ、キリストに生きることはできません。何十年か前にあのバプテスマを受けたとき、あのとき死んで今は古い自分が生き返って生きているから、いっこうに変わらない。バプテスマは確かに一回限りのことですが、それは私たちの信仰の証詞であって、いつもこういう状態ですよ、と語ったのです。その後、実際にそうでなければ、その証詞は役に立ちません。だから、私たちは常に絶えず死ぬのです。だからパウロは「わたしは日々に死んでいる」(Ⅰコリント 15:31)と語っています。私どもは毎日死ぬのです。朝起きて、「元気だ。生きている」と思ったら駄目です。「死んだのだ」と。死んで、今度はキリストが私のなかで生きる。イエス様によって生かされている自分、イエス様が私のいのちだと。これが大切なことです。これを絶えず自覚して、繰り返し、イエス様に結びつく訓練をしていかなければ、身につきません。ジッとしていて、黙っていてそうならないのです。だから、常に訓練、神様が鍛錬してくださる。試練のなかに置いてくださるのはそのためです。私たちがキリストに結びつくためです。どんなときにもこのキリストと共に生きている自分であること。いやキリストのいのちによって生かされている。

8節に「もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる」。常にキリストと共に生きること、これを自分自身の大切な事柄として絶えず自覚していきたいと思うのです。今日も自分が生きているのではなくて、キリストが私を生かしてくださっている。だから、そのイエス様が私のいのちとなって、主となってくださっている。このことを日々の生活のいろいろなことのなかで確認していきたいと思います。そうしていきますと、私たちが変わるのです。私たちの生活、考えること、言うこと、成すことの一つ一つが変わっていきます、確実に。十年一日がごとく何も変わらないのは、イエス様と共に生きようとしないからです。私たちはイエス様と共に生きるのだと。いや、共に生きるどころではない、私は死んでいるわけですから、共に生きるなどというと、私もいのちがあるから、一緒になって一つになろうか、という話になりやすい。こちらはゼロですから、イエス様が100パーセント になってくださって、私たちの内に宿ってくださる。よみがえりのいのちをもって、私たちを生きる者としてくださる。だから、どんなことでもイエス様が私の主であり、いのちであり、主によって生かされている自分である。このことがイエス様と一つになることです。

それは一つのものの考え方というような話ではない。実際に生活のなかで「そうだ。私はイエス様によって生かされている。いま生きているのは私ではないのだよ」と自分に言い聞かせていく。そうすると、今まで腹が立っていたこととか、どうしてこうなのだろうと、疑問に思うことや、人生の不可解なことの一つ一つが気にならなくなる。それどころか、一つ一つの事柄に今まで見えなかったものが見えるようになってくる。「ここに神様がこんな事を計画しているのだ」、「神様はこのように私を恵んでくださっているのか」と、新しい発見、毎日がそういう恵みを喜び感謝する者へと変えられていく。だから、イエス様を私たちの内に今も生き働いてくださる永遠のいのちであると絶えず自覚していく、覚えていくこと。そのことを、事ある度ごとに自分自身に問うていく。いま私はどこに立っているのだろうか? 何がいま私の主になっているのだろうか? 私は今ここでこうしようとしているが、これはイエス様が喜ぶことだろうか?イエス様がこうすることを見ているけれども、どのように見ていらっしゃるだろうかと、常にイエス様に思いを向けていく。そうすると今までの世界が変わっていく。これまでは息子や娘や主人や自分のことばかりを見ていて、どうなのか、ああなのか、こうなのか、周囲のことばかりが気になって仕方がなかった。しかし、常に「イエス様は?」というところに、私たちがイエス様に結びつくことを努めていくと、人のことを気にしなくて済む。そればかりか、それまで思いもしない、願いもしない、考えもしなかった事態や事柄、そういうものを安心して、平穏に受け止めることができる。うろたえなくなる。焦(あせ)ることがなくなる。新しいいのちに生きるとは、そういう恵みなのです。ですから、私たちはいつも私のいのちは誰かを覚えておく。

「ヨハネの第一の手紙」4章9節を朗読。

ここに「神はそのひとり子を世につかわし」、「彼によってわたしたちを生きるようにして下さった」とあります。「彼によって」と、イエス様が私たちのいのちとなってくださった、ということです。「彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」。私たち死んだ者が生きる者と変えられ、新しいいのちを神様が送ってくださった。それこそがイエス様ご自身です。罪の古い肉に生きておった私たち、この世にあって望みなく喜びなく、失望落胆、憤りのなか、生まれながらの怒りの子、神様の怒りを受けるべく定められた私たちを救い出して、新しいいのち、キリスト、永遠のいのちに結びつけてくださった。イエス・キリストが私のいのちなのだ、そして、そのいのちが今も私たちの中に宿ってくださっている。神様がイエス・キリストを死からよみがえらせてくださったのは、私たち一人一人の内にキリストが住んでくださるためです。だから、イエス・キリストが私と共におられるのだということを決して忘れてはならない。

「テモテへの第一の手紙2章8節」に「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」。「死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思う」、「いつも思う」とは、その御方が絶えず私たちの内に宿ってくださっておられる。イエス様が私のいのちなのだから、このいのちに結びつくこと。イエス様は「 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とおっしゃった。イエス様に結びつくことです。聖書を読むと、このことが手を変え、品を変え、言葉を変えながら、繰り返し、繰り返し語られています。イエス様に結びつく、イエス様がいのちでそれ以外にいのちがない、と何度語っているか分かりません。聖書はそのために書かれたようなものであります。私たちの日々の生活のなかでいちばん大切なものは何か。それはイエス様です。イエス様が私たちの内に宿ってくださっている。だから常にそのイエス様と共にいること、これを私たちが求めていく。これが生きることです。「いつも思う」とは、まさにそこです。イエス様と共に、どんなこともイエス様と一緒なのだと自覚していくこと。イエス様が行く所に私も行くし、イエス様が嫌がること、イエス様が願わないことはしない。イエス様が喜ぶところに従う。朝から晩までイエス様、イエス様、イエス様という生き方、これが私たちの福音です。そうするとき、喜びに満ちて望みがわいてくる、力が与えられるのです。だから、いつでもどんなときでも「イエス・キリストをいつも思う」のです。

「ヘブル人への手紙」12章1,2節を朗読。

2節に「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」とあります。また、ここに「参加すべき競争、走るべき道のりを走ろう」と勧められています。これは人生、地上の旅路を、神様に与えられた目的に向かって使命を果たすために地上の旅路を走りぬいていく。そのためにいちばん大切なことは何か。私たちと共にいてくださる信仰の導き手であり、またその完成者である御方。私たちに信仰を与えて、それを導いて完成に至らせてくださるイエス・キリストを絶えず仰ぎつつ生きる。2節の「イエスを仰ぎ見つつ、走る」とは、パウロがそういうように「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」とのことです。いつもイエス様を仰ぎ見ていく。いま共にいるイエス様がこのことをご存知だし、イエス様がここで何をせよとおっしゃるか、主の御思いを求めていく。主の御心に私は従おうと、主を仰ぎ見ていく。イエス様を見ておくことです。この年頭から与えられたみことば、「あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい」(ローマ13:14)とは、まさにそのことなのです。イエス様をいつも心に覚えて、主がなさるわざのなかに自分も従って行く。そこがたとえ苦しいことであり、困難なところであるとも、そこに主が共にいらっしゃる。このことを絶えず覚えていきたい。ことがある度ごとに、死んだ者となって、キリストに結びついて、イエス様の復活に等しくせられるように、キリストと共に生きる者となる。そのために絶えず主を思う。「イエス・キリストを、いつも思っていなさい」とおっしゃる。日々にキリストと共に死んだ者となって、よみがえってくださったイエス様に結びつき、今日の一つ一つの業も主が喜んでくださるように、イエス様が求めているところに何としても従いたい、と求めていくことです。その心を常に養っていきたい。

それは客観的に第三者が証明するわけにいかないのです。「私はイエス様と一緒にいるように見えますか?」と、時に聞かれますが、聞かれますと、あまりそのようには見えないことが多々あります。これは外側に現れたことでは判断できない。大切なのはご本人が、いま私はイエス様と共におるのだ、と信じるのか信じないのかです。だから、たとえやっていることやしていることをほかの人が見たら、「何や、あんなことをして」と思われるかもしれないけれども、その人自身が「私はいまイエス様と共に生きている」と信仰を持って、信じて歩んでいるならば、それがすべてです。それを良いとか、悪いとか、他人が口を挟むのは、神様をないがしろにする罪を犯すことです。人は何も言えません。大切なのはあなたが「イエス様は私のいのちだ」と信じているかどうか。そして、日々の生活のいろいろな業のなかに、今も生きていらっしゃるイエス様に私は従っているのだと、はっきり神様の前に告白できる生き方をしていきたい。それが欠けていると、「どう思う。私、これでいいかしら」と、他人から「よし」と言われないと落ち着かないという状態になります。それは間違いであります。神様は一人一人に導いておられることがありますから、その問題、与えられた事のなかで、神様と密着して、イエス・キリストと一つとなって、「今日も私はあなたと共に生きることができました」と、自分自身が喜んで神様を褒めたたえることができるならば、これほど大きな恵みはありません。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ」、絶えず主を見上げて、主が喜び給う道を、主が歩み給うた道の一つ一つのなかに自分を見出していきたいと思う。パウロは「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」(ピリピ3:9)と語っています。イエス様のご生涯と自分の生涯がぴったり重なり合うような生き方、そこにまでしっかりとイエスを仰ぎ見つつ、いつも思っていなさいと。

 「テモテの第二の手紙」2章の8節に、「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」。私たちは遣わされたところ、置かれたところ、与えられる問題や事柄、いろいろななかに置かれますが、そこで主に仕えていく者、イエス様を思って、イエス様のいのちに結び付いていく者となりましょう。

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。