いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月28日 日々の聖言

2014年09月28日 | 日々の聖言

「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、

それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、

の言葉を聞くことのききんである。」アモス8:11 



人の心から、神様を畏れ、かしこみ、尊ぶ、謙遜な思いが消えて、神様の言葉を

求めなくなる時代を預言したみことばです。それはまさに今の日本であり、世界で

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聖書からのメッセージ(335)「旗色を鮮明に」

2014年09月28日 | 聖書からのメッセージ
 「ヨハネの黙示録」3章14節から22節までを朗読。

 20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。

 「黙示録」の1章から3章にわたって、アジアにある諸教会、7つの教会に神様が抱いておられる御思いを書き送った手紙、警告、励ましが語られています。同時にいま救いにあずかって神様を信じて生きている私たちに対する励まし、警告、勧めでもあります。そこには厳しくしかられているものもあり、大変賞賛されているものもあります。しかし、私たちに対する神様の深い願い、御心が語られていることは確かであります。14節以下にありますラオデキヤの教会は可もなく不可もないところです。15節に「わたしはあなたのわざを知っている」と記されています。言い換えると、生き方、あり方、その信仰状態をよく知っている、と言われる。「あなたは冷たくもなく、熱くもない」とあります。やるべきことはきちんと守ってやっている。といって、格別そのことに熱心というわけでもない。どこが悪いと言って、殊更悪い所もない。そのように言われると自分のことのように思う。私たちもどちらかというと、そこそこに神様とお付き合いをしている。「そこまでかぶれなくても、そんなにキリスト、キリストというほどのことでもないだろう」、と言って離れるわけでもいかない。付かず離れず、ある距離を保ちながら、上手にやっている。このラオデキヤの教会はまさにそうなのです。神様を離れたわけでもない、くっつくわけでもない。だから「冷たくもなく、熱くもない」と。ところがそれに対して神様の御思いは、15節「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」。「態度をはっきりさせなさい」と。“旗色鮮明„という言葉がありますが、「いったいあなたはどちらに付いているのか」。神様の側に付くのか、それともこの世に付くのか?常にこの二つの間に立たせられています。この世に付く思い、肉の思い。世間の習慣や仕来りや、この世の善しあし、様々な価値観など、そういう考え方に倣(なら)おうとするのか、それとも聖書の御言葉を通して語られている神様の御思いに自分が徹底して従おうとするのか、二つに一つです。しかし、私どもは二つの間のグレーゾーンといいますか、加減のちょうどいい温度の所、自分にとって気持ちのいい所にとどまっている状態です。それでは神様が納得しない、神様は「惜しい」と思われる。神様の御思いは「もっと熱心になってほしい」、熱く真剣にわたしを、神様を求めてほしい、というのがラオデキヤに対する御思いであります。

 16節に「このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので」、とおっしゃいます。本当にそういう半温半冷といいますか、中途半端な状態に置かれている。これは誠に生ぬるい、だから「あなたを口から吐き出そう」とおっしゃる。せっかく神様の救いにあずかって、神様は私たちを恵みたい、祝福しようとしてくださるのに、私たちはいよいよというときにちょろっと外れる、神様の前からずれてしまう。といって大きくずれることはしない。近い所でとどまる。そういうことをしているのが私たちの現実です。

17節に「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが」とあります。確かにそうです。私どもがいろいろな問題に、悩みに遭い、様々な苦しい境遇のなかから、イエス様に出会って、救いにあずかり、祈って御言葉にすがって導かれています。神様は祈りに答えていろいろなことを恵んでくださり、思うよりも願うよりも素晴らしい結果を与えてくださる。そうすると、私たちの心は「まぁ、こんなものか」と、「これでいい。安心した」と言って、神様を求める心が薄らいでくる。求めないわけではない。別に集会や礼拝をおろそかにするわけでもなければ、日々の祈りを欠かすわけではない。しかし、そこに心がない、熱い思いが消えてしまう。これは私たちがいつも警戒しなければならない事柄であります。初めの思いから私たちが離れていく。

 「ヨハネの黙示録」2章1節から5節の前半までを朗読。

 これはエペソの教会にあてられた神様の御思いであります。ここにも同じく「わざと労苦と忍耐とを知っている」とあります。神様に忠実に仕える教会でありました。確かに見たところはきちんとそつなく、日々を過ごしているのですが、その心が初めの熱い思い、神様に対する切なる思いが消えてしまっている。そのことを指摘(してき)されているのです。4節に「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」と。私たちはいろいろなことに「慣れる」。慣れることも必要なことです。日常生活のなかでいろいろなことを自分が身につけてくる。それになじんでくる。そしてそれを自分のものとしてしまうことは、必要な能力であり、また資質だと思います。だからといって、信仰においても、神様を求めること、神様の恵み、神様のご愛に感じる心すらも慣れてしまう。これは非常に危険なことです。なぜならば“慣れ侮(あなど)る„という言葉がありますが、慣れ親しんでくる、分かってくると「そんなものか」「分かった、分かった」と、右から左へ抜けてしまうといいますか、軽くあしらうようになってしまう。これは私たちの最も警戒すべき事柄であります。私どもが初めてイエス様の救いにあずかったとき、主の十字架のいさおしによって、あがないにあずかり、こんな者が罪を赦されて神の子とされたという、大きな喜びを感じました。何年前のことであるか分かりません。ある方にとっては30年前、50年前と、半世紀以上昔、振り返ってみると思い出せないくらいのはるか昔になってしまった。日々絶えず福音に触れておりますから、当たり前という感じになってくる。そのうち「またそのことか」と思うようになる。イエス様の十字架のあがない、ひとり子を賜ったほどの愛を感じる心が消えていく。忘れたわけではない、知ってはいるが、それを昨日、今日のごとくに新鮮に、フレッシュに感じることが乏しくなってくる。これは私たちにとって非常に危険な状態です。ですから、エペソの教会に対してこのように厳しい言葉で語っておられるのです。4節「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。私たちも常に自分をリセットするといいますか、もう一度、今の自分を捨てて原点に帰る、救いにあずかった初めの喜び、神様のご愛の大きさ深さに感じる心を取り戻していきたい。今に至るまで神様が私たちをどんなに顧(かえり)みてくださったかを、もう一度よくよく振り返ることが大切です。過去のことを過ぎ去ったことで遠い昔のことのように思いますが、もう一度それを思い返す。いろいろなことを考え直してみると、「こんなときがあった。こういうなかを通ってきた。そのときの自分の思っていた心、感じていた感情……」そういうものがよみがえってくる。そこでもう一度「本当に『今の如(ごと)くなるは、の恩恵(めぐみ)に由(よ)るなり』」。神様の恵みによって今、今日ここに自分が置かれているのだと、改めてフレッシュに、新鮮な感動をもって受け止める。

「使徒行伝」を読みますと、パウロという人のことが語られていますが、彼は事あるたびごとに同じ話をしています。自分がどうやってイエス様の救いにあずかったか。ダマスコへ行く途中で、天から激しい物音と目のくらむような光に包まれて、地面にたたきのめされた。そのときよみがえった主のみ声を聞いた。その事態を新鮮な思いで繰り返して「使徒行伝」に語っています。それ以外になかったわけではありません。実はそうやって自分がどんな所から救い出されたか、どういう状態にあった者であるか、今ある恵みがどんなものであるか、自分の過去を追体験する、もう一度体験することを通して確認し、リフレッシュしていくのです。これは私たちの生活でも大切なことであります。すべての事が順調に行き、願ったりかなったり、「取りあえず今のところはお祈りする課題もないしなぁ」と言うぐらいでしょう。あえて言えばあれもある、これもあるけれども、それは取りあえず……と、そういう思いのときにもう一度、「あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ」(イザヤ51:1)と語られているように、私たちがどんななかからいま神様の憐(あわれ)れみにあずかったか、私たちが今に至るまでのいろいろな事柄を通して、神様が憐れんでくださった恵みと、そんな神様のご愛の取り扱いを受ける値打ちも資格もない者であることを改めて感謝するとき、パウロが「今の如(ごと)くなるは、の恩恵(めぐみ)に由るなり」(Ⅰコリント15:10文語訳)と言ったとおりです。今日、私があるのは、ただ一重に神様の恵みによるのです、と新しい喜び、感謝が心にわいてきます。エペソの教会に神様が求められたのは、まさにそのことです。5節に「そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し」とあるように、自(みずか)らの救われる前、まだイエス様のことを知らなかったときから、イエス様を知り、その後の日々の生活と今に至るまでのことをよくよく思い返すこと、そしてそこから神様のご愛と恵みを新鮮に受け止めること、これが「悔い改めて初めのわざを行う」ことです。そのことを神様は求めておられるのです。

 「黙示録」3章のラオデキヤの教会にもやはり同じように神様は願っておられるのです。17節「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない」と。本当にそのとおりであります。「自分はもうこれでいい」、あるいは「まぁ、これでよしとするか」と思って、「私は大丈夫、私はもう結構です」と言っているが、実はあなたが惨(みじ)めな者、あわれむべき者なのだ。もう一度自分の状態、今ある自分の心の状態をよくよく探ってみなさい、と神様は勧めています。18節に「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣(ころも)を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」と。「火で精錬された金」とは神様の霊、御霊、聖霊をしっかりと内に頂く者となりなさい、ということです。それから「白い衣を買う」というのは、十字架のいさおし、イエス様の十字架をしっかり自分のものとして、十字架に流された血潮によって洗われた白い衣、汚れなき衣を身にまといなさい、ということです。「見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい」、これは聖書のお言葉です。「聖言(みことば)うち披(ひら)くれば光を放ちて、愚かなる者を慧(さと)からしむ」(詩篇119:130文語訳)と語られていますが、御言葉によって目を開かれる。いろいろな物事の真相といいますか、背後にある深い隠れた意味を照らし出すのは御言葉であります。だから、御霊に満たされ、主の十字架のいさおしを信じて、今日も主によって赦(ゆる)された者であることを、十字架の血潮に潔(きよ)められ、御言葉にしっかりと立って歩むこと、これが神様の私どもに求めておられる事です。

更に続いて19節「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」。「この人は……」と期待している人、将来を嘱望(しょくぼう)されている人に対しては厳しくなります。甘やかして放ったらかしにすることはその人に期待していないからです。あまり望みを持たない場合は放っとけばいいのです。子供に対しても親が口やかましくなるのもそうです。子供を愛するからこそ、何とか社会に出て恥ずかしくないように、きちんと自らを処(しょ)することができるようにと願いますから、親は大いなる期待を持って訓練します。また、企業でもそうですが、将来性のある人物については、仕事を任せると同時に要求もきつくなります。でも能力を見て、「これはそこそこだな」、「これは期待できん」と思う者に対しては、あまり強い要求はしないでしょうし、そこそこにやっていくことになります。神様は私たちに対して期待が大きいのです。だから、19節に「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲(こ)らしめたりする」と。神様はいろいろな悩みをお与えになる、いろいろな問題を起こさせられるのは、私たちを愛しているからこそであり、その問題や事柄を通して私たちを新しくしようとしてくださる。さらに、もっと願っておられることがある。

20節です。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。神様が私たちに切に願っていることは何か? 私たちが独り立ちして、神様も必要がない、神様に頼らなくてもやっていける人間になることではありません。それは、私たちに不可能なことです。なぜなら、私たちは被造物にすぎませんから、私たちには能力がありません。私たちの力は限られて小さなものです。だから、私たちが神様につながることによって、神様と共にあることによって、弱い限られた知恵や力しかない私たちを通して神様のわざ、神様の力があらわされることを願っている。「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」というのは、人の努力や熱心さの程度を言っていることではありません。「私は生ぬるいからいかんな、これから頑張ろう、努力しなきゃ」と決心することを神様は勧めているのではありません。「冷たいか熱いか」ということの意味は、神様により一層近づく者、いよいよ深く神様と結びつくこと、このことの「冷たいか熱いか」です。神様を知ってはいるが、神様と遠く隔(へだ)たっている。距離を置いた神様とのお付き合いではなく、もっと密接な神様との交わり、このことを求めておられるのです。というのは、それが私たちにとって幸せな生き方だからです。というのは、神様が人を最初に造られたとき、人は「神と共にあった」のです。エデンの園で、神様と人とは密接な隔(へだ)てのない交わり、裸の付き合いでありました。神様と人との間には何一つ隔てるものがない、妨(さまた)げるもののない交わりに置かれていたのです。ところが、神様と人との間に罪の隔ての幕が出来てしまって、人と神様とが遠く離れてしまった。これが私たちの不幸の極(きわ)みであります。私たちをエデンの園の最初の恵みのなかに引き返らせるためにひとり子イエス様をこの世に遣(つか)わしてくださった。それは私たちを神様と隔てのない関係、密接な交わりのなかに置くためです。それによって私たちが造られた人としての幸いな生涯を全うする、そればかりでなく永遠の命に、私たちの地上の人生が終わっておしまいではなく、更に永遠の御国の生涯まで私たちを引き入れてくださるために、ひとり子イエス様を遣(つか)わしてくださった。私たちがどれだけ神様との距離を縮められるか、これが求められていることです。神様と私たちが全く一つになる。これが最高の恵みであります。ここで「むしろ、冷たいか熱いかであってほしい」と言われているのは「神様と私たちとの関係がどれほど近づいているか?」ということです。「熱く」というのは、密接になること、神様と隔てのない関係を作り出していくことです。20節に「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」とあります。イエス様が戸の外に立って、私たちの内に入りたいと願っているのです。神様はいろいろな問題や悩みや困難を置かれますが、それはその事柄を通して、神様とより一層密接につながるための恵みのときなのです。だから、私たちを懲(こ)らしめたりしかったりしてくださるのは、神様が戸の外に立って、扉をノックしているときです。思いがけない問題や悩みや困難やいろいろな事のなかに置かれると、すぐにうろたえます。「どうしようか、右にしようか、左にしようか」と。そのとき、神様が私たちにもっと近づきたいと願っているときです。だから、私たちはまずそこに目を留めていくことです。

先日もある方からお手紙をもらいました。毎月、説教プリントを読んでおられて、御言葉を通して励まされていることを感謝し、証詞してくださったのです。ご高齢ですが、独り暮らしをしています。朝起きると体にどうも違和感を覚える。ひざが痛い。「これは困ったな、独り暮らしをしているけれども、またこれで大変なことになって人手を煩(わずら)わせるのではないだろうか」と、一瞬心にフッと不安がわいてきた。「どうしようか!病院にいくべきだろうか。どうしようか」と。そのとき、前の日の夜に読んでいた説教プリントで、「床を取りあげ、そして歩きなさい」(ヨハネ5:8)とのメッセージのお言葉が心に差し込んできた。「そうだ。これは神様がいま私を求めておられるときだ。治療することも必要だが、いま私がすべきことは神様に信頼し、ここで神様の力を頂くことに尽きる」と。その方は御言葉を通して教えられたのです。それで「治療に行くこともいいけれども、まず祈ろう」と、お祈りをしているうちに、いろいろなことが思い返された。どうも、このところ我がままな、自分勝手な生活ぶりで食べることが増えてきた。そのために体重も増えた。どうも神様が私に警告してくださったに違いない。だから、その日は動けないと思ったから、寝たままほとんど絶食状態で過ごしたそうです。翌日、目が覚めたらその分軽くなって前の日痛かった足がすっかり腫(は)れが引いてしまった。それで思いがけず動けるようになった。そのことを通して神様は私にこのことを体験させるために事を起してくださったと知ったのです。近くに娘さんが住んでいるので、しばらくしてそのことを話したら、「どうしてすぐに電話しないのよ!」と言われたが、「確かにすぐに電話すれば簡単なことかもしれないけれども、ひざが痛んだ事を通して、実は神様が私を求めてくださった。それでうれしくてこのことを先生にお話したいと思って手紙を書きました」と。今まで書いたことのない手紙を一生懸命に書いてくださったのです。神様は私たちのそばにおりたい、できるだけ近くにおりたい、これが切なる願い。実は、それが私たちにとっても誠に幸いな恵みなのです。姉は「医者に行くことも、何かの治療を受けることも自分は必要ならば喜んで受けたいと思いますが、今日の問題については、そのように神様が導いておられる確信が得られませんでした。ですから、神様を待ち望んできた結果、このように神様が答えてくださったのだと思います」と。いつも神様は私のそばに近づいてくださるのです。

20節にありますように、「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」と。いろいろなことを通して、私たちに心を開いて、神様を、主を迎え入れるようにと求めておられるのです。それは具体的な生活のいろいろな事を通してであります。いつも主がどこにいらっしゃるか、私たちの心の外に置いているならば、早くその御方と交わりを持つこと、そこに主を迎えることです。だから、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」と、戸を開けることを、私たちの側から主を求めることが大切であります。神様は無理やりその扉をけ飛ばして打ち破ってでも入って来ようという御方ではありません。主が求めておられるとき、「ここは主が私に扉を開いて近づくように語りかけてくださっている」ことを知っておきたいと思います。ともすると、私たちが受ける問題や悩みを早く解決しよう、何とか取り除こう、どうやったらいいか、と問題を解決することだけに一生懸命になる。そうではなくて、神様がいま私に求めておられることがあり、神様がもっと私のそばに近づきたいと願ってくださるのです。20節の後半に「わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。食を共にすることはいちばん密接な交わりの一つです。“食して交わる„といいます。ですから、親しくなると「一緒に食事でもしようか」という話になるでしょう。食事を共にすると、相手との心の壁が消えます。食事を通して交わることによって、普段と違う関係が出来ます。だから、イエス様が私たちに求めているのは、まさにそこです。いろいろな問題や悩みや困難があるけれども、そこを通して私たちに近づきたい、と願っている。だから、まず心の扉を開くことです。私たちはいつも神様に心を開いているようですが、扉が閉まりかかっている。そこで戸を開いて、「主よ、どうぞ、私の内に……」と心を主に向ける。主が私と共にいてくださるその恵みを得ようではありませんか。いま主が望んでいることは、私たちの内に入って共に食事をすること。もっと、もっと親しくなりたい。神様は私たちと共にあって、朝起きてから夜寝るまで、寝ている間もそうでありますが、常に主が私と共におられる。主の臨在と共に生きる生活にもっと深く入りたい。またその中に取り込んでくださるために、いろいろな事態や事柄があるのです。

いま何か問題があるならば、悩みがあるならば、そのなかでもっと深く主を知ろうではないですか。主のみ声を聞き、主の臨在にふれるものとなりたいと思います。主がここにいます、ということをはっきりと体験していきたい。そして、その問題や事柄を通して、主の御思いをいよいよ深く味合おうではありませんか。そうすることによって、私たちの魂がいよいよ力づけられ、成長していくのです。

20節「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」。いま主が私たちを求めておってくださる。近づこうとしてくださる。もっとそばにおりたい、もっと親しくなりたいと願っていらっしゃるのです。「まぁ、そこまであんまり近づいてもらったら困るな」と、日本の神様は大体そういうものです。できるだけ普段は目にとまらないように、神棚に上の方に祭(まつ)る。用事のあるときだけと、自分の世界と神様を分けて考える。ところが、聖書が語っている神様は常に私たちと共におりたいと。常時です。朝から晩までズーッと神と共にあることを願っている。だから、事あるたびごとにいつも主を心に置いていこうではありませんか。ともすると自分のしたいことがあると、「ここは神様、チョットよそを向いておいてほしい」、「神様、ここはよそへ行っていてほしい。私がするから」と。それでは神様が悲しまれるに違いない。

いつもどんなときにも主が私たちと共におりたい。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている」とおっしゃいます。「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら」、主のみ声を聞くことです。主が求めておられることを知って、その声に応(こた)えて、戸を開いて主を迎えていきたい。朝から晩までどんなことのなかにも、常に主を心に置いていきたいと思う。「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」(Ⅱテモテ 2:8)とパウロは言いました。まさに主が私と共に食事をする。密接な交わり、掛け替えのない交わりを主が求めておられるとき、私たちも心を開いて主を迎え、主と共に生きようではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。