いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

9月11日 日々の聖言

2014年09月11日 | 日々の聖言

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」 詩篇119:71 



試練といわれる苦しみに会うことは辛いことです。その中を通っているとき、これが永遠に

続くように思われます。また、貴重な人生の時を無駄にしているむなしさを感じます。しかし、

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聖書からのメッセージ(318)「神への献げ物」

2014年09月11日 | 聖書からのメッセージ
 「詩篇」51篇1節から19節までを朗読。

 17節「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。

 イスラエル王国の王にまでなったダビデは、そもそも羊飼いとして実に平凡で、ありふれた人生を生きていた人物であります。エッサイという羊飼いの八人の子供たちの末っ子でした。ダビデは家族からも大切にされたとは思われません。末っ子ですから親から可愛がられたかもしれませんが、やはり何といっても立派な長男がいたわけですから、そのまま生きていけば何の特徴もない、平々凡々とした、その時代の人としては普通の人生だったと思います。羊飼いとして生涯を終わったに違いありません。ところが、まさに神様のご計画と御業であったと思いますが、あるとき、突然のごとく祭司サムエルがやって来ました。しかもサムエルは次なる王様となる人を選ぶ、という重大な使命を神様から与えられて来たのです。その当時はまだサウルが王様として国を治めていましたから、次なる王様を決めることは、謀反(むほん)をおこすことであり、反逆罪です。だから、祭司サムエルも身の危険を感じました。彼はひそかに別の理由を付けてやって来たのです。神様が導かれて来たところがエッサイの家でした。そこで息子たち一人一人と面接試験をするのです。長男から始めました。長男は見事な人物で、体格もよく、見栄えも良くて、賢そうであって、これは王にふさわしい、という風ぼうをしていたようです。だからサムエルは一目見まして、「神様、この人でしょう」と言ったところが、神様は「違う」と言われる。「では、次なる人」と、二番目、三番目と一人一人神様の前にその導きを求めて祈ったのですが、どれも拒まれる。とうとういなくなりまして、お父さんのエッサイに「もう、息子はいないか」と訊(き)いたら「そういえばおりました」と。「いま野で羊の番をしております」「早く呼んできなさい」ということで、急いで呼んで来たのがダビデだったのです。「これがその人物でしょうか」と祈ったところ、神様は「これがその人だ。彼に油を注げ」と。「油を注ぐ」とは、祭司が聖別した油をその人に注ぐことによって、神様が新しい使命に就かせてくださる。職に任ずる(任職)、そういう主旨のわざ、事柄です。祭司は急いで油を注いで、祝福して、サッサと帰って行く。そんな所に長居して王様に知られてしまったら、大変なことになりますから、逃げるのです。選ばれたダビデはほかの兄弟より劣っていたかというと、そうでもありません。「サムエル記」を読みますと、彼もなかなかの人物で好青年であったようであります。彼はこうして次なる王様の候補になったのです。しかし、次の日から王の位に就いたわけではありません。既に立てられているサウル王様がいますから、彼は次なる王様という約束を受けたのですが、現実はまだそうならない。恐らく相変わらず羊飼いをしていたと思います。やがていろいろなことで王様に仕えるようにもなりました。そのうちにだんだんとダビデが次なる王様ではないか、といううわさが国中に広がりまして、サウル王様はご機嫌が悪くなる。どうも自分の地位を狙っているやつがいる。それがダビデではないかと疑い深くなり、ダビデは命を狙われる境遇に置かれました。ユダの荒野を次から次へと休む間なく逃げ回らなければならない事態に陥(おちい)っていきます。たった一度神様から選ばれて油を注がれ、次なる王様だ、といわれたから、ただそれだけのゆえに彼は身の置き所がなくなる。身の危険を日々感じて生きなければならない不幸な目に遭うのです。こういう状態を幸せとはいえないでしょう。「王様になるのだから、たいしたものじゃないか。位人臣(じんしん)を極めて出世頭だよ」と。皆さん、どうですか? もし皆さんがそんなになったら、「いや、私は今の生活で結構、この小さなアパート一つで結構です。宮殿になんか住まなくてもいい。山海の珍味なんか食べなくてもいい。そのうち肥満で死ぬに違いないから、選ばないでください」と言いたい。最近いろいろなことでそのことをしみじみと教えられますが、神様は神様のご計画に従って私たちをこの地上に置いているのです。自分の願いを、夢を実現し、自分のちっぽけな頭で考えた幸せを得るために命が与えられているのではないのです。神様はご自分のご計画に従って私たちに一つの人生を歩ませようとしている。だから、私たちの人生でいろいろと思いがけないことが起こってくるのです。自分の計画であれば今ごろこうなっているに違いない、ああなっているに違いない。しかしそれがひっくり返ってとんでもない「今」を自分は過ごしている。「幸いだ」と言う人もいるかもしれない。あるいは予定と違って、「とんでもない」不幸な目に遭っていると嘆く人もいるかもしれないが、いずれにしてもそこには神様のご計画がある。だから、ダビデは本来だったら野にあって牧歌的といいますか、のどかな羊飼いとしての生涯をズーッと生きてきたはずです。それがある日突然降ってわいた出来事によって、波乱万丈の生涯へ引き入れられてしまう。やがてサウル王様が亡くなった後に王の位に就くことになりました。だからといって、宮殿に住んで多くの人々にかしずかれて、世話を受けながら……、などという生活は、考えてみたら、これが彼にとって幸せな人生であったとは思えません。彼にはそんな野望があったわけでもない。また野心家でもありません。押し付けられた人生を生きたようなものです。もし皆さんが自分の人生を振り返って「私の人生、いったい何だったのだろうか。私は押し付けられて、主人から言われて……、子供たちからも引き回されて、私の人生、いったい何だったのだろうか」と嘆いているとしたら、そのときこそ、まさに神様が私をそのなかに引き入れて、自分の願い、思いとは違うけれども、そのような人生を生きるように導かれたのです。ダビデの生涯も自分で求めたのではない、いろいろな戦いと悩みの連続です。

聖書に記されている人物はみなそうです。アブラハムだって本来イスラエルの祖、神の民の父祖となるなんて、自分では考えもしない。自分には子供がいなかったし、お父さんについてカルデヤのウルからカナンの地に移住しようとハランまできたが、そこでお父さんは死んでしまった。ハランにいたとき、突然神様がアブラハムに声を掛けて、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」(創世 12:1)と言われ、この一言で彼の人生が180度変わる。モーセもそうでしょう。モーセは生まれたとき、本来殺されるはずのところをなんとか助かって、運良くといいますか、幸いにパロ王様の娘に拾われて、パロの宮殿で生活するようになりました。やがて長じて自分の出生の秘密を知り、自分の民族がイスラエルであることを知って、なんとかイスラエルの人々を助けようと思う。ところが、誰もそれを信頼してくれない。失意のどん底で、彼は急いでミデアンの地へ逃げ出します。そこでエテロという祭司の娘と結婚をし、40年間羊飼いとして過ごしました。実にのどかな、幸いで平穏な年月を過ごします。80歳になったとき、羊を追いながらホレブの山にいきました。しばが燃えている。その地方は乾燥地帯ですから、野火といいますか、自然発火による火災があるのはあまり珍しいことではなかったと思います。大抵はパーッと燃えて、サーッと消えておしまい。ところが、彼が見たそのしばは燃え尽きない。「何だろうか?」と思ったのが運の尽きです。近寄って行ったのです。そして「何事かしら」と思ったときに、神様から声が掛けられる。「モーセよ」と、そして「お前はこれからエジプトの奴隷であるイスラエル人を救いなさい」。彼はそこで人生が180度変わる。80歳から120歳までの40年間の彼は神様に引き回されて塗炭の苦しみのなかを通るのです。「出エジプト記」の記事を読んでご覧なさい。次から次へと難題が降りかかってくる。それに比べたら、皆さんの人生は天国ですよ。そう思いませんか。神様はどういう道へ導かれるか、私たちは分かりません。一つのことをきっかけに人生が変わっていく。すべての人にあてはまります。預言者イザヤでもそうですし、エレミヤでもそうです。

新約の時代に入りまして、ペテロの生涯を思うとき、まさにそのとおりです。ペテロはガリラヤ湖畔で先祖代々漁師だったのです。そのままガリラヤに住んでおれば死ぬまで漁師だった。家族に囲まれて、恐らく孫ができたかもしれない。やがて家族に看取(みと)られて、生涯を終わったかもしれない。しかし、ある日突然イエス様に出会う。そしてその人生がひっくり返る。ガリラヤからエルサレムまでやって来て、イエス様が亡くなった後に聖霊が彼に臨(のぞ)んで、ついにはローマにまで引っ張られて行って、殉教(じゅんきょう)するのです。あのガリラヤの寒村に住む小さな存在であったペテロが、この大きなイエス様の救いのわざの一つとして用いられるのです。ペテロが生まれたとき、そんな計画はなかった、と思います。幾つぐらいになったら、ひとつこの家を出て、自分はイエス・キリストの福音を伝えよう、伝道者になろう、なんてそんな計画は何もない。みなそうです、聖書にいわれている人々は。私たちもそうなのです。イエス様に出会うことによって、人生が変っていきます。

今読みましたダビデもそうでありました。ダビデは王の位に就いたのですが、神様はダビデを祝福してくださって、いろいろな戦いの連続でしたが、次から次へと勝利を与えてくださいました。やがて国は安泰といいますか、平和な時代に入りました。そのとき心に隙ができるのです。というか、私たちもそうなのですが、常にサタンが働くのです。それは私たちの心を神様から引き離そうとする力です。その悪の力が彼を大きな失敗に導きます。

「サムエル記下」12章7節から15節までを朗読。

まだペリシテ人との戦いはありましたが、国が落ち着いて、優秀な部下たちが戦いに出ていて、王様は宮殿で留守番役で、のんびりとしておったのです。そのときに一人の女性を見初(みそ)めて、その女性を自分の妻にしようとします。ところがその人にはウリヤというご主人がいました。王様は自分の権限でそのご主人を戦いの激しい所へやり、殺してしまうのです。そして、その奥さんを自分のものにしてしまう。それを神様はとがめて、預言者ナタンを遣(つか)わすのです。ナタンはたとえ話を語りました。「金持ちがいて、たくさんの羊を持っていた。一方、隣にはたった一匹の羊を持つ貧しい家があった。金持ちの所へお客が来たので料理をしようと、隣の貧しい人のたった一匹の羊、家族のようにしている羊を取って来て料理をした。こんなことを許せるか?」と尋ねた。ダビデは「そんなやつは即刻死刑だ」と言った。そのときにナタンが、7節に「ナタンはダビデに言った、『あなたがその人です』」。「あなたがその人です」と。ダビデは「それは死刑だ」と言ったのですが、「死刑になるべき者は、実はあなたですよ」とはっきりした指摘したのです。ナタンは神様から遣わされて、「お前のしていることが悪かった」と言っていることですが、実はその事の背後に、「あなたが神様を恐れない」という罪を示したのです。7節後半以下に、「わたしはあなたに油を注いでイスラエルの王とし、あなたをサウルの手から救いだし、8 あなたに主人の家を与え、主人の妻たちをあなたのふところに与え、またイスラエルとユダの家をあなたに与えた」。その後に「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」。ここです。「あなたが必要であるならば、どうしてわたしに求めなかったのか」と。自分の力で、自分の才覚で、それを取ろうとしたことは、取りも直さず神様をないがしろにしたのです。「神様がこれまで恵んでくださったじゃないか。お前を羊飼いの家から引っ張り出してきて、王の位に立て、住む場所も必要な物もありとあらゆるものを有り余るほど与えたではないか。誰がそのことをしたのか?」と問われた。「わたしがそこまでお前を恵んだのだし、そうでありながら自分が欲しいからと言って、勝手に自分の力でやってしまう。わたしになぜ言わないのだ」と。だから8節に「もし少なかったならば」、まだ何か足らないことがあるのだったら、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。なぜわたしに言わないのだと。

これは実は私たちの罪でもあります。「いや、私はそんな人を殺すなんてしませんよ」と、思うかもしれませんが、しかし神様が今、この恵みのなかに、今日も生きる命を与え、健康を与え、食べるもの、着る物、住む所を与え、すべてのものを満たしてくださっているのですが、どれほど満足しているでしょうか。「まだあれも足らない。もっとこうなってほしい。もっとあのように……」と不足をつぶやき、自分の知恵を働かせて、あちらに走ってみたりこちらに走り、これを求めたりあれを求めたりしている。そこには神様に求める思いがない。もし足らないことがあるんだったら、「神様、どうぞ、満たしてください。神様、あなたの恵みを注いでください」と、神に求めなさい。ところが「神様に求めても、いつになるやら分からないから、手堅いところで、自分でやっておこう。私の知恵でやっておきましょう」となるから、神様は「どうしてわたしに言わないのか」と。したことが大きいとか小さいとかの問題じゃないのです。神様は私たちをあわれんでくださって、次から次へと願うところ求めるところ、それ以上の思いもかけない願いもしないほどの豊かな恵みをもって私たちを満たしてくださる。初めは感謝します。「有難い、感謝、感謝」と。ところがその感謝が、一日一回が二日に一回、月に一回、年に一回、一年の感謝会に一回あればいいと、だんだんそうなってくる。そして、あれが不足、これが足らない。じゃ、ああしようか、こうしようか。こうしたらいいに違いない、ああしたらいいに違いない。そこには神様を求める思いがない。神様が恵んでくださるに違いないと、神様に期待するどころか、自分の知恵と自分の計画と自分の何かで満たそうと、自分の欲望を自分の願いをやり遂げようとするところに神様を押しのける。ここに罪があることを私たちは知るべきです。

ここでナタンが8節の後半以下に、「もし少なかったならば、わたしはもっと多くのものをあなたに増し加えたであろう。9 どうしてあなたは主の言葉を軽んじ、その目の前に悪事をおこなったのですか」と詰問しています。本当にそうです。私どもはいつも神様に背(そむ)きやすい、それはサタンの力でもあります。私たちにいつも働いて、神様に求めようとする、神様の前に近づこうとする者を妨(さまた)げるのです。調子が良くなると心に隙ができてくる。そのとき、サタンがスーッと入ってきて「そうだ、そうだ、そこまで頑張ったんだから、お前がこうしたらいいよ」とか、何か調子のいいことを言ってくる。そうすると「やっぱりそうだ、これも神様の導きかもしれない」などと、勝手に神様を求めることよりは自分の思いが先立って、神様を離れていく。ダビデも常にそのことは警戒していたのです。彼は罪に惑わされやすい、弱い自分であることをよく知っていました。というのは、そのためにこれまで何度も失敗したのです。人を恐れてみたり、あるいはいろいろな事で人を信頼して裏切られてみたり、経験してきていますから自分が弱い者であることを知っていました。だから片時も神様から離れられない自分であることも承知していた。ところが、このときだけは心に隙があった。つい自分の心のままに、思いのままに事をしてしまった。これが彼の罪だったのです。

13節以下に「ダビデはナタンに言った、『わたしは主に罪をおかしました』。ナタンはダビデに言った、『主もまたあなたの罪を除かれました。あなたは死ぬことはないでしょう。14 しかしあなたはこの行いによって大いに主を侮ったので、あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう』」。ここでダビデは「わたしは主に罪をおかしました」と告白しました。これがダビデの悔い改めです。神様、あなたに私は罪を犯しましたと。ここで彼はナタンに「気の毒なことをしてしまった。あの人に悪かった」、あるいは「奥さんに悪いことをしてしまった。愛するご主人を無理無体に奪ってしまった。あの人に何とか償(つぐな)いをしよう」と言ったのではありません。それも必要なことでしょうが、そんなことよりもまずここで神様が求められたのは「わたしは主に罪をおかしました」ことを認めることです。あの人に対して悪かったとか、この人に対して私は償いをしなければいけないとか、それはそれですればいいのであって、それ以上にまず神様の前に自分がどういう自分であったかを認めていく。そして、それによる神様の報いをきちっと受け止めなければならない。その後14節に「あなたに生れる子供はかならず死ぬでしょう」とあります。その後、バテシバによって一人の子供が与えられますが、とうとう生まれてすぐに死んでしまいます。それは神様が彼の罪の結果としてきちんと代償を取られるのです。

神様が罪を赦してくださったから、後は何もせんでもいいじゃないか、ということにはならないのであります。現実の事柄のなかで、私たちが償わなければならないことはきちっと償う。これは神様から求められている事柄です。また、罪に対して、犯した罪の結果というものは自分が引き受けなければいけない。神様に罪を赦されたのだから、もうこの世の責任も何もかもチャラになるというわけではない。いや、それどころかきっちりとその償いを神様の前に果たすことが必要になります。しかし、そのためにはまず神様の前に自分の罪を認め、悔い改めることが大切です。そして、悔い改めた結果、償うべきことについて、神様は勇気と力とそのすべての必要も備えて私たちに全うさせてくださる。

もう一度、初めの詩篇51篇16節以下に「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」。神様が私たちに求められる事柄は何か? 犠牲、献身、何かささげ物をしたり、あるいは神様のために身を尽くすことなのかというと、もちろんそれも悪くはないでしょうが、まず神様が私たちに求めておられるのは「砕けた魂」です。神様の前にへりくだって、謙そんになって罪を認める者となること。「神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」と歌っています。神様は私たちの砕けた悔いた心を喜んでくださる。そればかりかその心をかろしめられない。言い換えると、それを無駄に終わらせない。そこから私たちに報いてくださる御方です。

18節に「あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください」。ここに「シオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください」と歌っています。「エルサレムの城壁を築きなおす」とは、神様に対する信仰の姿勢を新しく造り替えていくことです。整えていくのです。まず、そうして神様のみ前に自分を正しい歩みに置くこと。そのときに19節に「あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう」とあるように、神様は私たちを受け入れてくださるのです。16節と19節は何か矛盾したような話です。片方は「燔祭をささげてもいけにえも喜ばれない、好まれない」、ところが19節には「義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう」。片や「喜ばれない」、片や「喜ぶ」と、その二つの間にいったい何が起こったのか?それは砕けた悔いた心がそこに伴うときです。まず神様の前に自分の姿勢を整えて、常に神様に罪赦された者となり、十字架の主を仰ぎつつ、主と共に死んだ者となって神様のみ前に立つとき、その義によってささげられるいけにえを神様は喜び給う。ところが、それを抜きにして、ただ形だけの自分の功績や自分の力や自分の業を誇る思いで、神様の前に近づくかぎり、それは喜ばれない。それどころか、それは拒まれる。神様の前に祝福にあずかる道は何か? それは砕けた悔いた心をもって神様に「義のいけにえ」をささげていくこと。「義のいけにえ」、言い換えると、神様の罪の赦しにあずかった恵みに応えていくこと。その義はどこにあるかというと、これは十字架以外にありません。十字架によって、私は今日も罪を赦された者であり、神様が私のために血を流して「父よ、彼らを赦し給へ」(ルカ23:34文語訳)と執り成してくださるそのいさおし、そのご犠牲を自分のものとして本当に感謝して受けて、へりくだった砕けた心となって神様に一切をささげていく。自分自身を主の御手に委ねきって行こうではありませんか。そのとき、神様は私たちを喜んでくださる。私たちの犠牲、献身を喜び、それを祝福してくださる。

このバテシバとの事件を通して本当にダビデの人生が変わります。それまでも彼はいろいろなことを通して、一つ一つ問題に当たるたびに新しく、新しく自分を神様の前に正していきました。ましてや、彼はこのことを通していよいよ深く主のご愛に触れるのです。そして、自(みずか)らをいよいよ低くして「人の子は如何なるものなればこれを顧(かえり)みたまふや」(詩篇8:4文語訳)、神様は私たちが何者なので顧みてくださるのだろうか、私たちにその価値があるだろうか、とありますが、常に神様の前にへりくだって、謙そんになって、主を求める者となるのです。

ですから、彼は後に自分の息子アブサロムから謀反(むほん)を起こされたときもそうですが、決してつぶやかなかったのです。神様が「よし」とおっしゃるならば、それは甘んじて受けようではないかと。シメイが彼を呪ったときもそうです。部下は、王様を呪うなんてとんでもない、殺してやろうとしたのですが、彼は止めました。神様がいま呪わしておられるならば甘んじて受けるべきではないか。徹底して神様の手に自分をささげきっていく。そのささげるとき、私たちの心は「砕けた悔いた心」となり、罪を悔い改めて、主のものであることを信じて、十字架に私もキリストと共に死んだ者となるのです。そこから神様の祝福と恵みに生きる生涯へ歩んで行きたいと思います。

17節「神の受けられるいけにえは砕けた魂です」。私たちは常にどんなことの中にも十字架の主を仰ぎつつ、神様の祝福と恵みを受ける姿勢、「砕けた悔いた心」となって、神様のみ前に出て行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。