植木の御霊神社、諏訪・御霊の両太神を祀ってます
石碑には次のような由来が
この神社は、今からおよそ420年前当時の玉縄城主、北条綱成公が、軍神の称ある信州諏訪の建御名方富命・八坂刀売命二座の神霊を玉縄城内の諏訪壇に勧進したものと伝えられている。 その後、神社は元和年間、玉縄城の廃城、さらに幾星霜を経て、現在のこの位置に移された。この時すでに鎌倉権五郎景政一門の霊を祀った御霊神社があり、この神社と諏訪神社と合祀され、村民の両大社への崇敬あつく、五穀豊穣、村内安全と繁栄を祈願する祭典が毎年行われている。 ちなみに北条綱成公は、黄八幡といわれた有名な武将であったが、天正15年、73才で没した。公一門の墓は社殿脇の山頂にある。 |
隣の龍宝寺の案内では、「玉縄城主三代(北條綱成・氏繁・氏勝)の墓後方山頂にある」
神楽殿の右側から裏山に登ります。
龍宝寺との間の尾根道を行き、山頂の墓を目指します
左手のグランドは栄光学園、迷い込んではいけません。
龍宝寺は裏山を栄光学園に、玉縄城址の丘陵を清泉女学院と、
2つのカトリック系学校に山を譲ったのです。
山頂にある供養塔、どうみても玉縄城主三代の墓にはみえませんね
いつも倒れているので「ぶっけり仏」と言われてたとか。
更に進んで、お伊勢山とおぼしき小山を過ぎると、バスケコートや畑に出ます。
畑の奥の道は栄光学園行きのバス道に下りる階段につながるのですが、
今回は畑の右側、竹藪の道を岡本へ下ります。
この道は岡本神社の参道、雰囲気のある道です
「復元」岡本神社(別称)お伊勢山神明神社、次のような縁起だそうです
平安時代、今から約1000年前天慶1年(西暦938年頃)、村岡城主、平良文の一門であった、角田家は、約3万坪の所領を提供し、岡本神社、(別称)お伊勢山神明神社を、建立しました。 その後、室町時代に入り、今から、約500年前永正9年(西暦1512年頃)、この地に侵攻して来た、玉縄城主らによって、岡本神社は、解体されました。 解体される前の元の、岡本神社(奥社)のあった場所は、この場所より約300メートル上方の山頂にありました。この神社は、当時、岡本村の鎮守様でありました。 同時に、角田家も、岡本(玉縄)地域等で、約20万坪の所領を、玉縄城主らに、奪われました。当時、角田家は、三浦一族に属しておりました。 この度、約500年ぶりに、岡本神社、(別称)お伊勢山神明神社の(下社)が、復元し、完成しました。下社復元にあたり、佐藤慶春氏に御尽力していただきました。合掌 天照皇大神、産土神 復元建立者 角田壽久 平成10年1月吉日 |
神社を解体されたり所領を奪われたり、玉縄城主に恨みがありそうです。
角田さんのご先祖さん、ぶっけり仏をけり飛ばしてたかも知れませんね。
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