風雅庵の日々

園芸、屋上、近所の散策を中心に記録します

風雅の意味

風雅とは、自然の中に趣や味わいを感じること・さま。
風雅を目指し、自宅を風雅庵、ダイニングを風雅亭と呼ぶことにしました。

稲村路

2011-04-26 23:27:55 | 湘南鎌倉
明治20年代の稲村ヶ崎の写真だそうです。
素晴らしい資料なのでAmigo鎌倉さんのページより拝借 m(_ _)m


明治30年代の写真を見ると、井上馨が山をがっつり削ったみたいですね。

大正12年代の写真では、134号線で開削される部分が
既にくびれてるようにも見えますが関東大震災のせいでしょうか?

ところで古東海道は、七里ヶ浜から稲村路を通って由比ヶ浜に至ったといいます。
このあたり地形の変化が激しいこともあり、稲村路の正確な経路ははっきりしませんが、
霊山ヶ崎と呼ばれる稲村ヶ崎から連なる山を越え、
崖づたいに坂ノ下におりる道だったと考えられてます。


歌川広重の錦絵「新田義貞 於稲村ヶ崎 祈龍神」は
崖から下りた磯で龍神に祈ってる絵らしいです。

この新田義貞鎌倉攻めについては、ぼ輔さんと酔石亭主さんの推理が素晴らしいです。
あまりに大作で、読んでるだけでは理解できず、ちょっと崖を見に行きました。


白山神社の脇道から登った展望台の断崖絶壁、これは怖い


白山神社と市民プールの間のくびれの崖、ここも危ない


市民プールの向こう、白ガードレール道からです。だいぶ低くなりました。
鎌倉の古道物語さんの地図を見ると、
仏法寺の下にあたるようで、三木俊連が峰より折下って大門を打破したり、
霊山寺の峰に責め上ったりの攻防戦はこの辺りなのかなぁ?

それにしても、古い道につきものの庚申塔や供養塔が一つもなかった。
たぶん現在の地形からは想像できないくらい地形が変わってるんだろうなぁ