順不同ですけれど、出雲大社の 写真を。
柱の陰に隠れて 私が、屋根の葺き替えの喜捨をしようかと悩んでいます。最低のお金が 昔の文字だったため 解らなかったのです。連れも居ましたし、今回は 一口の値段を聞いてまで喜捨をしませんでした。(関係者様、難しい字で書かれると 解りません、壱万円とか弐万円とかそれくらいなら解るのでしたが… 一口モット少ないかもしれません何千円レベルかもしれません 漢字が読めなかったのです。恥)
gooでは たくさんの画像を表示することが出来ないようです。また 画像を加工して 表示します。昨日の尾道の画像はクリックすると拡大します。石のフクロウは ボランティアの芸術家が つくって置いているのだそうです。(昔ニュースでやっていました)
出雲大社庁の舎は 内部まで見ることは出来ませんでした。(チビが居たので)
柱の陰に隠れて 私が、屋根の葺き替えの喜捨をしようかと悩んでいます。最低のお金が 昔の文字だったため 解らなかったのです。連れも居ましたし、今回は 一口の値段を聞いてまで喜捨をしませんでした。(関係者様、難しい字で書かれると 解りません、壱万円とか弐万円とかそれくらいなら解るのでしたが… 一口モット少ないかもしれません何千円レベルかもしれません 漢字が読めなかったのです。恥)
gooでは たくさんの画像を表示することが出来ないようです。また 画像を加工して 表示します。昨日の尾道の画像はクリックすると拡大します。石のフクロウは ボランティアの芸術家が つくって置いているのだそうです。(昔ニュースでやっていました)
出雲大社庁の舎は 内部まで見ることは出来ませんでした。(チビが居たので)
もし、この柱を使っていたとするならば、太古の出雲大社は、現在の倍の高さになります。
古代日本は凄いです。
http://inoues.net/ruins/izumo_taisha.html
出雲大社本殿は1248年に建替えられるまでは巨大であったとされていて、古事記や日本書紀などの記述からも、極めて高い建物だったと推測されています。
社伝によると、16丈(48m)という物凄い高さでしたがやはり構造的に無理があり、地震や台風などで何度も倒壊し、その度に建て直していたようだと建築史の教授から聞きました。
エジプトやローマでは石造やコンクリート造の技術があったので高層建築は同じ時代に存在していましたが、木造で48mという高さは、世界中を見渡しても当時では出雲大社だけだったんじゃないでしょうか。
平安時代の「口遊(くちずさみ)」には、当時の大型建築について「雲太、和二、京三」とあり、「雲太」は出雲大社のことで、「和二」が東大寺大仏殿、「京三」が大極殿を指し、出雲大社本殿が東大寺大仏殿や大極殿と並ぶ巨大建造物であったことを示しています。
非常に高かったと思われる時期の本殿の復元図を見たことがあるのですが、社殿というよりモビルスーツの発射台みたいな建物でかなり驚きました。
そんな巨大建築で古代にどんな祭礼が行われていたのか、想像力が掻き立てられて面白いです。
追加写真を後ほどアップしますが、出雲大社では、巨大建築物が多く 古代の方々の 信仰の厚さと どうやって作ったのかと人間の智慧と工夫のすさまじさ・畏敬を 感じますね。
(↑斐伊川のほとり)
狭霧晴るれば立ちませる
御子(みこ)の剣(つるぎ)の光いま
我らの胸にやどるなり
出身大学の校歌よりも大好きな、旧制松江高校の
寮歌第6番であります。島根大学では現在も準校歌で
あります。僕は実は創価学会合唱団バージョンでこの
歌をおぼえ、以来かれこれ7年間いつも歌わずにはおられません。
ところが数年前、創価学会バージョンでは上記の
第6番だけがスコーンと削除されていることが
分かりました。その理由をいろいろ考えましたが、
どうやらこの第6番では出雲大社を詠じており、それが創価学会アンド日蓮正宗独特の「神天上(かみてんじょう)思想」と抵触するからだと思われます。
すべての神社は魔物の住みかだとする創価独特
の偏向した考えであります。困ったものです。歴史の遺産を勝手に改変しないでもらいたいなぁ。