五木寛之 「天命」を読んだ。以下 私の心に響いた文章を メモ代わりに抜粋させていただく。
p.24
いまの時代に、こころがうつになるのを感じ、なんとも言えない無気力感を覚えるのは、その人の気持ちがとりわけ人間的であり、繊細であり、優しいからでしょう。いわば、菩薩のこころに近いこころの持ち主ほど、いまの時代にはこころが萎えるという感覚を味わうのではないかと思うのです。
理不尽な死 p.27
同室の少女は20歳そこそこでした。癌で、抗癌剤の副作用のために、昼は何度も激しい嘔吐を繰り返していたそうです。
その少女が、毎日夜になると、窓から見える東京タワーを見ながら、しくしく泣くのだそうです。(中略)
「死は恐いんですが、それよりももっと納得できないことがあるのです」彼女は言ったそうです。どうして自分だけが。こんなにきれいな夜景のなかで、苦しまなければならないのか、その理由がわからないことが苦しく、悲しいのです。私と同じ若い人たちは、きっといまごろ、デートをしたり、コンサートに行ったり、本を読んだりしているのでしょう。なのになぜ自分だけが、抗癌治療のために髪も抜けて、吐き気に襲われながら、窓の外の東京タワーを見てなければいけないのでしょうか。私だけがそう罰せられる理由があるでしょうか。私は、自分だけが罰せられるようなことをしたと思いません。その理由がわからないことが、あまりに苦しく、悲しくて、涙がでてしかたないのです」
愛されるがゆえに苦しむという論理 p.29
この少女の質問に、どう答えたらいいのでしょうか。(中略)
キリスト教や仏教という区別なく、世の中の宗教の論理の多くは、「病気の痛みを軽くしてあげましょう」というものではなく、「その痛みを感じていることがあなたの幸せなのだ」と逆説的な答えを用意しています。
宗教の論理からすれば、苦しみは、天が与えた試練であるとされるからです。(中略)「善い人間がこの世で苦しむのだ」(中略)
p.35
信仰を持ったからといって、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもありません。でも、痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力が与えられるとしたら、その価値はあるのではないか、とその点は私も思います。
しかし宗教によっては、荷物が軽くなり、距離も近くなる、と説くのです。私はそれは信じない。というより、似非宗教であると思うのです。
p.37
その人の痛み、苦しみはその人当人だけのものであって、どんなに他人が同情し慰めたところで軽くなりやしない。それをいやというほど知らされました。
そういうとき、彼女のこころのなかに生まれるものが、「悲」という感情ではないでしょうか。どうしようもなく嘆き声やため息を発する。おのれの無力さのためにつくため息。人に、何もしてやることもできないのだという絶対的事実。それが「悲」という感情です。
人が、他人に対し、何かをしてあげることができると安易に信じることを、偽善と言うと思います。人は自分のためにしかできない、と思ったほうがいい。キリスト教の、人のために善いことをするときは隠れておこなえ、ということばは、ヒューマニズムの陰にいやおうなく隠された、利己心の危険性を鋭くついていると私は思います。
悲しむしかない p.46
私は、求められないかぎり(free注 東京タワーの見える病室の少女に)、何も言わないでしょう。見ているだけです。それを救うことのできないおのれの無力さにため息をつきながら。そうするしかないと思っています。(中略)
ただ、それだけでよいのでしょうか。他に言うべきことはないのでしょうか。
ここで頭に浮かぶのは、「歎異抄」のことです。
この後 歎異抄 法然 親鸞について 記述されていく。五木寛之氏は 「天命」の7年前に「他力」という本も執筆されている。どちらも易しい言葉で 浄土真宗のこころを語ってある 良書だと思う。宮本輝氏も こんな感じで日蓮を語ってくれないかなぁ。筆者は 戦後引き上げを経験し、お母さまを亡くされている。その地獄図の中で 生きるために 弱い者をのけ者にして 生き延びてきたという後ろめたさがある。「優しい人は 帰ってこなかった」という筆者の 言葉は 重いものであった。
p.24
いまの時代に、こころがうつになるのを感じ、なんとも言えない無気力感を覚えるのは、その人の気持ちがとりわけ人間的であり、繊細であり、優しいからでしょう。いわば、菩薩のこころに近いこころの持ち主ほど、いまの時代にはこころが萎えるという感覚を味わうのではないかと思うのです。
理不尽な死 p.27
同室の少女は20歳そこそこでした。癌で、抗癌剤の副作用のために、昼は何度も激しい嘔吐を繰り返していたそうです。
その少女が、毎日夜になると、窓から見える東京タワーを見ながら、しくしく泣くのだそうです。(中略)
「死は恐いんですが、それよりももっと納得できないことがあるのです」彼女は言ったそうです。どうして自分だけが。こんなにきれいな夜景のなかで、苦しまなければならないのか、その理由がわからないことが苦しく、悲しいのです。私と同じ若い人たちは、きっといまごろ、デートをしたり、コンサートに行ったり、本を読んだりしているのでしょう。なのになぜ自分だけが、抗癌治療のために髪も抜けて、吐き気に襲われながら、窓の外の東京タワーを見てなければいけないのでしょうか。私だけがそう罰せられる理由があるでしょうか。私は、自分だけが罰せられるようなことをしたと思いません。その理由がわからないことが、あまりに苦しく、悲しくて、涙がでてしかたないのです」
愛されるがゆえに苦しむという論理 p.29
この少女の質問に、どう答えたらいいのでしょうか。(中略)
キリスト教や仏教という区別なく、世の中の宗教の論理の多くは、「病気の痛みを軽くしてあげましょう」というものではなく、「その痛みを感じていることがあなたの幸せなのだ」と逆説的な答えを用意しています。
宗教の論理からすれば、苦しみは、天が与えた試練であるとされるからです。(中略)「善い人間がこの世で苦しむのだ」(中略)
p.35
信仰を持ったからといって、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもありません。でも、痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力が与えられるとしたら、その価値はあるのではないか、とその点は私も思います。
しかし宗教によっては、荷物が軽くなり、距離も近くなる、と説くのです。私はそれは信じない。というより、似非宗教であると思うのです。
p.37
その人の痛み、苦しみはその人当人だけのものであって、どんなに他人が同情し慰めたところで軽くなりやしない。それをいやというほど知らされました。
そういうとき、彼女のこころのなかに生まれるものが、「悲」という感情ではないでしょうか。どうしようもなく嘆き声やため息を発する。おのれの無力さのためにつくため息。人に、何もしてやることもできないのだという絶対的事実。それが「悲」という感情です。
人が、他人に対し、何かをしてあげることができると安易に信じることを、偽善と言うと思います。人は自分のためにしかできない、と思ったほうがいい。キリスト教の、人のために善いことをするときは隠れておこなえ、ということばは、ヒューマニズムの陰にいやおうなく隠された、利己心の危険性を鋭くついていると私は思います。
悲しむしかない p.46
私は、求められないかぎり(free注 東京タワーの見える病室の少女に)、何も言わないでしょう。見ているだけです。それを救うことのできないおのれの無力さにため息をつきながら。そうするしかないと思っています。(中略)
ただ、それだけでよいのでしょうか。他に言うべきことはないのでしょうか。
ここで頭に浮かぶのは、「歎異抄」のことです。
この後 歎異抄 法然 親鸞について 記述されていく。五木寛之氏は 「天命」の7年前に「他力」という本も執筆されている。どちらも易しい言葉で 浄土真宗のこころを語ってある 良書だと思う。宮本輝氏も こんな感じで日蓮を語ってくれないかなぁ。筆者は 戦後引き上げを経験し、お母さまを亡くされている。その地獄図の中で 生きるために 弱い者をのけ者にして 生き延びてきたという後ろめたさがある。「優しい人は 帰ってこなかった」という筆者の 言葉は 重いものであった。