創価学会体験記

選挙前になると電話をかけてくる 不思議な人達。そんな創価学会を体験してみました。(中傷と信仰賛美は 削除対象になります)

創価学会は変われるのか

2006-06-30 19:11:04 | 徒然に


野良ねこさんから ご意見を頂いています。

「創価学会は変わることを、意識する」とかかれてますが、創価学会には改革できる能力、自浄能力はあるのでしょうか?昔の学会を懐かしがる人がいます。独自に昇華して、オルタナへの道に進む人もいます。中には本気で内部改革を願う人もいます。創価学会が社会に認められる、宗教団体に生まれ変わるなんて、今の創価学会を見ると、かなり難しいように思えるのです。
皆さんのご意見を聞きたく、是非、別のエントリーを立てて、取り上げて頂きますよう、お願い致します。


 アロエさんのblog 価値[再]創造を 読むと 戸田氏の頃から 創価学会は金もうけ主義でしたし、日蓮正宗は道具としてしか見ていなかったようですね。内部改革は 大分の例からしても 組織への反逆者は 切られます。

 次の代になったときには、社会との摩擦を避けるために ゆるやかな路線へ変換すると私は思っています。世界平和活動も 活発になるでしょう。ただし、創価学会の命綱、選挙だけは 内部は今以上に締め付けられるでしょう。本質は変わらないでしょうね。また 次代会長が力を持ったら 今と同じ状況に 戻るでしょう。

 屋台骨を揺るがしかねないほどの 大勢の退会者が出たときには「創価学会は変わることを、意識する」のではないかとは 思っています。もしも 変わったとしても一度失った信頼は 簡単には戻らないので、普通の宗教団体と社会で認知されるのは 50年以上かかると思います。

皆様のご意見もお待ちしております。



「偏見だ」って陰険だ

2006-06-18 12:23:25 | 体験記
「創価学会員への攻撃は 偏見だ」「日本人は宗教に対して 偏見を持っている」 良くお見かけする意見だ。最近は ポッと出のアンチの方も(笑) 「偏見を持って 創価の人と接するのは いけない」と仰る。

こんな事言われると、おおかたの日本人は シュンとなっちゃうが、何だか この「偏見」の使い方 違和感がある。

偏見wik
偏見(へんけん)とは、偏った見方をする事である。人間は、ある対象に対して、その見かけや所属などに関する一部だけの知識、あるいは自己と自己の属する社会、宗教、文化などに特有の価値観を基準としてその対象を判断する傾向があり、その傾向によって生み出される思考が、偏見である。

創価学会は その教義・活動内容に 社会迷惑をかけるものを 持っている。いわゆる、囲い込み折伏 アポ無し訪問 聖教新聞購読・公明党選挙投票依頼などがそれである。創価学会で その活動をしっかりしようとしたら 周囲は迷惑を被る。だから 信者に「創価学会」とカミングアウトされた 一般人は 創価学会に無知なら、 何とも思わないだろうが、創価学会を理解している人は「どこまで 熱心な信者だろう」探るのだ。

これは 偏見ではないでしょう? ちゃんと創価学会を 理解しているのだ。
「創価学会に偏見を持ってはいけない」という 創価組織が考えた 陰険な言葉のマジック・トリックに陥ってはいけない。

創価学会には 色んな方が居る。非活動・永久冬眠 十把一絡げに 語るのは 酷かも知れない。しかし 一部の信者が 創価学会に改革を迫っても 本部は 平然と除名処分にする。創価学会に苦情を言っても 本部は柳に風だろう。これほど 大量の創価に苦しめられる人を産出しているのに、今の創価にNOを突きつける方法は 「退会」しかないと思っている。 創価学会を変えるには「NO」を突きつけるしかないのだ。退会者が 雪崩のように出だしたときに 創価学会は真剣に 変わることを 意識するだろう。

 創価学会を 批判することは「日本人への警告」だと思うし、創価の人に関わらないことは 迷惑を被らない「自衛」だと思っている。

 創価学会が迷惑行為を 止めたとき「創価学会員は…」と仰る人に「それは偏見だよ」と 言えると思う。だが 創価学会 あるいは日蓮さんの信奉者は 「何が何でも 世界中を 自宗教に入れる」という カルト性をもっているから 難しいだろう。

さざれ石

2006-06-12 20:08:17 | 徒然に
 今日はワールドカップ 豪州戦ですね。日本代表 また 国民の多くが 誇りを持って君が代を斉唱することを 望んでいます。

 写真は 伊勢の二見の夫婦岩 入り口にある さざれ石です。
「君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」
長年のうちに 小石が集積し 巌となる 誠にめでたい岩だそうです。

ううう 日本代表 初戦を落としてしまいましたね。すみません、私が ついTVで応援をしてしまったせいです。実は ドーハの悲劇の時も テレビ観戦して応援してしまっていました。次戦は 私テレビを見ませんので、きっと勝つでしょう。

川口選手 かっちょいい!2回止めたときは クラクラ来ました。その調子で あと 3つ 止めて欲しかったわ。

ところで 国歌斉唱は放送されたのかしら、ついうっかり チビを寝かしつけていたので 見過ごしました。三浦カズ選手の君が代斉唱の様子、好きでいつも見ていました。最近 国歌斉唱や 日の丸が 放送されない圧力が働いているような気が…。

近況報告

2006-06-10 17:23:56 | お知らせ
 実際 創価問題は 社会問題と認知され あっちこっちの政治blogでも 取り上げられています。

私も 役目を終えたと思っておりました。でも またまた アポ無し訪問されてしまいましたよ。詳細を書くと 個人特定されて どんなことが起こるか 予想できないので 割愛します。

夜 眠れないほど 怒りまくっていました。他の皆様も同じだと思うのですが、やはり様々な 危険を覚悟してblogを書き続けるのは 「怒り」のパワーですね。この「怒り」と読み手に不快にならない程度の「良識」のバランスを取りながら 細々と続けていきます。しかし、訪問者数 閲覧数は変わらず 感謝いたしております。

私は創価学会員でした mocoさんご無事な様子。こころから 精神的にまた 生活上も 安心してお幸せになられることを 応援しております。

言論の自由を阻害する者

2006-06-01 12:46:34 | 徒然に
 創価学会を考える でfreeが創価批判blog主 相談者に答えた文章。
------------ 以下引用
 創価学会批判をすると「アンチは創価学会にこだわっている・それもひとつの依存だ」という シンパさんからの 批判があります。

 自分の創価問題が片づいたら、さっさと創価学会と関わらないことは 利口だと思います。それほど、創価問題は 健康を害し精神を蝕む事です。

 私は 創価学会を論じることは 大変辛いことだと思っています。××さんのような方から 不条理な非難を受けるのも日常茶飯事のことです。ストーカーのような病的な書き込みからは コメント禁止にする措置は 正しいと思います。

 難しいことは 創価問題を糾明し非難していくと だんだんとバリ創価学会信者さんのように これこそ一番正しいと 押しつけのような印象を持たれることです。そうすると バリ信者さんのかっこうの 攻撃対象になってしまいます。共鳴状態と言っても良いかもしれません。

 なかなか うまく創価学会と距離を保つのは難しいですが、変な書き込みが増えたら blogを休んで 趣味や興味のあることを勉強したりして 違うことをすると 良いかもしれないと 思います
------------ 引用終わり

自分の創価問題が片づいたら、さっさと創価学会と関わらないことは 利口だ。

 創価問題を論じるときに 感情が先走ってしまったら、創価学会擁護者に 批判材料を与えてしまう。そして また「自分も間違っているかも知れない、愛する人や 友人を追いつめてしまっているかも知れない」と自分を責めて 落ち込んでいく。

 だから 創価学会に対する感情を抑制できない人は ネット上で 創価批判をすることは難しいと考えている。

 ただ、創価学会=公明党は わが国の与党であるし、共謀罪・人権擁護法案 個人情報保護法案など推進しているので、多くの批判・非難の声は望ましい。創価学会に個人的感情を持っている人は、固定ハンドルネームを使い、ネットやblogで  発言することは精神的に負担があるが、個人個人できることを やって欲しいと望んでいる。

 私はどうも 創価の人は 言葉を都合良く 湾曲して使っていると思う。人がその組織 故に苦しんでいるのに その組織の構成員や協力者が 美麗な言葉を並べて その組織を擁護しているのを見るのは 苦痛である。

 映画などで 悪者がこちらの仲間を洗脳し 銃弾の盾に使うシーンがあるが、創価学会のしていることは そう言ったことだ。自分の恋人 家族 友人が 創価の盾に使われている。そうして 創価批判者 反対者は 声もなく倒れていくのだ。

 私も つくづく 創価問題を語ることは 辛くなってきた。

 博士の独り言
 太田述正コラム#1264(2006.5.29) <施設庁談合事件はどうなった?(その1)>

しかし こうした戦っている人たちを見ると 自分も少しづつ 感じたことを書いていこうと思う。もちろん、更新が滞っているblogに 変わらず訪問して下さる方々には 心から感謝している。