創価学会体験記

選挙前になると電話をかけてくる 不思議な人達。そんな創価学会を体験してみました。(中傷と信仰賛美は 削除対象になります)

最近 不審に思うこと

2006-03-30 16:35:22 | 徒然に
 姉歯氏の 奥様が亡くなられたこと、謹んでご冥福をお祈りします。

 私は このご家族は 創価学会被害者だと思っています。もちろん姉歯氏が 耐震強度偽造したことは ローンを抱えたままマンションをでて暮らしている被害者や周辺住人にとっては 許されることのない詐欺・犯罪です。しかし、国会喚問での 公明党の甘い追求、北側大臣のすぐに国費を充てるという決断から、組織がらみで「絶対大丈夫だから」「同志は信頼できる」と懐柔された可能性も大きいと見ています。

 「鬱だったのに マスコミ攻撃で 遺書もなく靴も脱がず 突発的に自殺した」と 一般的見解になるでしょうけれど、私は もしも自殺なら創価学会への抗議の自殺かも知れないと考えています。他殺なら生存者へ「しゃべるなよ」という警告。

 朝木代議士や伊丹十三氏も 飛び降り自殺されたのです。これはまだ 本当に自殺だったのか疑惑として残っています。最近の大きな事件は 事件発覚後 すぐに自殺者が出ますね、そうして なぜ自殺したのかと疑問に残る事件も多いのです。

鳥取 人権擁護法案 無期限停止

2006-03-24 22:21:40 | お知らせ
 いやっほう!
 凄いニュースが飛び込んできました。最近 創価学会の力って 弱まっていません?

人権条例を無期限停止 鳥取県議会 (共同通信) 共同ニュース

 鳥取県議会で24日、差別や虐待からの救済を掲げた人権侵害救済条例について、6月1日の施行前に無期限で停止する条例が全会一致で可決、成立した。

 人権侵害救済条例は昨年、政府が提出を断念した「人権擁護法案」を先取りする全国初の条例として成立したが、「人権侵害の定義があいまい」などと強い批判を受け、施行を断念した。条例を施行前に停止するのは極めて異例。

 成立した停止条例は、県内の人権侵害の事実を確認したり、適切な救済方法を検討したりするため施行を停止する内容。

 県は弁護士や有識者ら13人程度でつくる検討委員会を新設し、全面的な見直し作業に着手する。約260万円の事業費を2006年度予算案に計上、採決では「速やかに実効性のある条例を施行する」との付帯意見を賛成多数で可決した。
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反対運動を 地道に続けていらっしゃる皆様に 心から 感謝します。ありがとう(はーと) この他にもたくさんいらっしゃいます。大きな権力の横暴から 小さな声を発して すごい力を得た証ですね。
なめ猫♪
ブログ鷹森
ブログ鷹森 TVタックル
阿川「公明党の関係ってのはなんなんですか?」
一同「・・・」
浜田「はっきりいっときますよ。公明党さまがウンと言える事以外は自民党はやれません」
人権擁護法案反対
涼風庵
mumurblog
人権擁護法案を危惧する市民の会 今度は千葉が 危ないらしい

城内実 議員 来期は絶対 当選!

創価学会敗訴

2006-03-19 21:51:07 | 政治・公明党
創価学会側に80万賠償命令 日蓮正宗僧侶の名誉棄損

産経新聞

 聖教新聞の記事で「法外な戒名料を要求した」と報じられ名誉を傷つけられたとして、日蓮正宗の僧侶、樽沢道広さんが、創価学会や秋谷栄之助会長ら幹部6人に計1000万円の賠償と謝罪広告の掲載を求めた訴訟の判決で、東京地裁は13日、80万円の賠償を命じた。

 判決理由で原敏雄裁判長は「原告は葬儀当時、住職の地位になく、戒名料を要求したとは考えられない。記事の重要な部分は真実と認められない」とした。

 判決によると、聖教新聞は2004年2月13日付の紙面で、樽沢さんが檀家(だんか)の葬儀で高額な戒名料を要求したかのように報じた。

 創価学会広報室は「今回の件は檀家の証言に基づくもので、法外な要求があったことは裁判所も認めている。判決は遺憾で控訴を含め検討する」としている。

(03/13 19:40)
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皆様 たぶん とっくにご存じだと思います。でも この判決とっても重要だと思うので 考察してみます。これは なんと聖教新聞が 裁判で負けているのです。 いままで 創価学会信者さんが どんな凶悪犯罪をしでかそうが「個人のしたこと」で ケツまくっていた(失礼!) 創価学会ですが、今回は 学会側が 被告と言うことですね。自民党圧勝や、池田先生のご高齢のために 権力に揺らぎが出てきたと言うことでしょうか?

あと 新潮社 及び他のメディアに「裁判で断罪された ○○を信じるなんて…」と高圧的に 言っていた 信者さんにも「裁判で まけた 聖教新聞を鵜呑みにするなんて…」という 反撃が展開できるようですね。^^

くれぐれも 信者さんも 聖教新聞を鵜呑みにして 日蓮正宗の方々は悪い奴ばかりだと刷り込みをされないように。

まぁ 創価学会側は いつも勝たなければならないので上告は必須ですけれど。あるいは 負ける場合は和解に持ち込むか。
 

天命

2006-03-17 21:25:23 | 仏教
五木寛之 「天命」を読んだ。以下 私の心に響いた文章を メモ代わりに抜粋させていただく。

p.24
いまの時代に、こころがうつになるのを感じ、なんとも言えない無気力感を覚えるのは、その人の気持ちがとりわけ人間的であり、繊細であり、優しいからでしょう。いわば、菩薩のこころに近いこころの持ち主ほど、いまの時代にはこころが萎えるという感覚を味わうのではないかと思うのです。


理不尽な死 p.27
同室の少女は20歳そこそこでした。癌で、抗癌剤の副作用のために、昼は何度も激しい嘔吐を繰り返していたそうです。
その少女が、毎日夜になると、窓から見える東京タワーを見ながら、しくしく泣くのだそうです。(中略)

「死は恐いんですが、それよりももっと納得できないことがあるのです」彼女は言ったそうです。どうして自分だけが。こんなにきれいな夜景のなかで、苦しまなければならないのか、その理由がわからないことが苦しく、悲しいのです。私と同じ若い人たちは、きっといまごろ、デートをしたり、コンサートに行ったり、本を読んだりしているのでしょう。なのになぜ自分だけが、抗癌治療のために髪も抜けて、吐き気に襲われながら、窓の外の東京タワーを見てなければいけないのでしょうか。私だけがそう罰せられる理由があるでしょうか。私は、自分だけが罰せられるようなことをしたと思いません。その理由がわからないことが、あまりに苦しく、悲しくて、涙がでてしかたないのです


愛されるがゆえに苦しむという論理 p.29
 この少女の質問に、どう答えたらいいのでしょうか。(中略)

 キリスト教や仏教という区別なく、世の中の宗教の論理の多くは、「病気の痛みを軽くしてあげましょう」というものではなく、「その痛みを感じていることがあなたの幸せなのだ」と逆説的な答えを用意しています。
 宗教の論理からすれば、苦しみは、天が与えた試練であるとされるからです。(中略)「善い人間がこの世で苦しむのだ」(中略)

p.35
 信仰を持ったからといって、暮らしが楽になったり、病気が治ったりすることもありません。でも、痛みや苦しみを抱えながらも、生きていく力が与えられるとしたら、その価値はあるのではないか、とその点は私も思います。
 しかし宗教によっては、荷物が軽くなり、距離も近くなる、と説くのです。私はそれは信じない。というより、似非宗教であると思うのです。

p.37
 その人の痛み、苦しみはその人当人だけのものであって、どんなに他人が同情し慰めたところで軽くなりやしない。それをいやというほど知らされました。
 そういうとき、彼女のこころのなかに生まれるものが、「悲」という感情ではないでしょうか。どうしようもなく嘆き声やため息を発する。おのれの無力さのためにつくため息。人に、何もしてやることもできないのだという絶対的事実。それが「悲」という感情です。
 
 人が、他人に対し、何かをしてあげることができると安易に信じることを、偽善と言うと思います。人は自分のためにしかできない、と思ったほうがいい。キリスト教の、人のために善いことをするときは隠れておこなえ、ということばは、ヒューマニズムの陰にいやおうなく隠された、利己心の危険性を鋭くついていると私は思います。


悲しむしかない p.46
私は、求められないかぎり(free注 東京タワーの見える病室の少女に)、何も言わないでしょう。見ているだけです。それを救うことのできないおのれの無力さにため息をつきながら。そうするしかないと思っています。(中略)
 ただ、それだけでよいのでしょうか。他に言うべきことはないのでしょうか。
 ここで頭に浮かぶのは、「歎異抄」のことです。


この後 歎異抄 法然 親鸞について 記述されていく。五木寛之氏は 「天命」の7年前に「他力」という本も執筆されている。どちらも易しい言葉で 浄土真宗のこころを語ってある 良書だと思う。宮本輝氏も こんな感じで日蓮を語ってくれないかなぁ。筆者は 戦後引き上げを経験し、お母さまを亡くされている。その地獄図の中で 生きるために 弱い者をのけ者にして 生き延びてきたという後ろめたさがある。「優しい人は 帰ってこなかった」という筆者の 言葉は 重いものであった。

友人葬

2006-03-13 19:19:02 | 体験記
 私は「友人葬」には 参加したことがない。私の地区で 若いお嬢さんが亡くなった時 葬儀に出席するよう言われたが 仕事を優先した。あとで「お花代」として、お母さまにお金をお渡しした。地区婦人部長には「お金より 出席の方が大事なのに」と言われた。 同時中継に行く車に2~3回ほど同席しただけで いつも辛そうにしていた彼女に言葉をかけたことはなく、そんな薄い付き合いの私が 葬儀に参列するのも おかしいし、仕事を休んで葬儀に行くのは 社会人として納得できなかった。

 ということで、私は ネットでしか「友人葬」なるものを知らない。

ネットでは
 悪い点として 1.香典を持って行かれる 2.創価信者さんが お経を上げ 「南無妙法蓮華経」と大勢で唱題する光景は 気持ち悪い 3.導師の挨拶で 故人をしのぶと言うことではなく 創価学会の賛美だけしているのは 納得できない
 良い点 1.学会員のボランティアが多いので お金は少額 2.たくさんの人が 故人のために集まってくれる 3.思いやりある供養が出来る 等だった。

葬儀はなるべく 故人の意向に沿った方が望ましい。友人葬を 創価学会以外の人でも受け入れるためには どうすればいいのだろう。友人葬は 検索すると葬儀会社でもやってくれるので あまり創価学会と密接に関係したくなかったら 葬儀会社に相談すると良いかもしれない。

 さて 友人葬の悪い点だが 1.「香典を持って行かれる」という書き込みをよく見かける。まずは お金のことですから 用心して 絶対信頼できる人に 受付・管理を頼もう。もちろん、「香典を創価学会に持って行かれる」というのは 信憑性はないと思っている。たま~に、故人の生命保険をすべて財務に寄付させようとする 幹部が居たりする。そんな「とんでも幹部」がいたら 持って行ってしまうことも 過去にあり得たかなぁって疑ってしまう。創価学会本部は 指示しないけれど、勝手に酷いことを よかれと思ってしてしまう個人もいたのだろうなぁ。

さて ここからは 信者さんに質問をしてみた。青字 信者さんの解答
 
2.創価信者さんが お経を上げ 「南無妙法蓮華経」と大勢で唱題する光景は 気持ち悪い
実際には葬儀時はゆっくりとした勤行唱題になっているはずです。儀典用にはそのようになっています。
早いやり方でやるのは間違っています。
 一般と違うのは「導師が一般人」「勤行が法華経・方便品・自我偈・唱題」であることと、会員が動員されますから合唱になるって事ですね。
 しかし、真宗の多い所では、浄土真宗のお葬式でもケッコウ一緒にお唱えになる方は多いですから、友人葬だけの問題でも無いかとは思います。


3.導師の挨拶で 故人をしのぶと言うことではなく 創価学会の賛美だけしているのは 納得できない
葬儀儀典長が創価学会の事を話すことはあまりありません。(故人が創価学会幹部であった場合この限りではありません)話す内容は、友人葬の正当性と法華経による経文上のお話になっているはずです。

あまり創価学会と関わりたくない人の 友人葬って出来るのですか?(身内だけとか)
身内だけと言っても、枕経・納棺・お通夜・出棺・火葬場・本葬とありますから(地域によって順番が違う事がありますが、私の所は火葬場の後にお通夜本葬のなります)地域と言いますか、故人が所属しているブロックの方々は最小でおこなっても皆さんいらっしゃいますから、友人葬で有る限り、全くの親戚だけって事は ありえませんし、其の時の導師は誰がやるのかって事も有ります。
(最低でも、導師・地区部長・ブロック長の三人はいるでしょうしね、それに婦人部長としらゆり長で五人ですかね)。

創価学会に所属していて、親族も創価学会で、喪主が創価学会であれば 必ずや友人葬になります。それは、最小密葬であっても実質的に変わりません。また、回忌法要も同じです。(この場合は導師だけって事もあります)

※創価学会の方に とても真摯にお答えいただきました。ありがとうございました。

このblogに来て下さっている方で、友人葬を経験して 良かった点悪かった点ありましたら、お教え下さい。

時を待つ 人を読む

2006-03-09 00:17:48 | 体験記
 創価学会の方は コミュニケーションが下手だなと思うことがある。押してはいけない時に 押したり 引くべき時に引けなかったりする。「広宣流布」の夢に酔い 「みんなこの信仰をすれば幸せ」と誤解し「行け行けドンドン」の中で 同志と同じ思考をして、行動することに満足しているからだろうと推測する。

 前記事「退会者の事情」も 相手の心を思いやって時を待つ事が出来ないから 被害者が出てしまうのだ。学会活動で疲弊している 活動者にも 周りの者が「ちょっと 顔色悪いよ、しばらく休めよ」って 心配りをしないから こころの病に倒れる人が多くなるのだ。

 人は一人一人違うから、言葉の端々 顔色 動作に こころ配って、感情が波打っている時には そっとしておいたり 時に任せたり 細々とした配慮がコミュニケーションには必要だと思う。 

退会者の事情

2006-03-03 21:44:34 | 体験記
統一協会では 反対者と言われているそうだ。たぶん、いろんな内部メディアで 反対者へのイメージを悪くしているのだろう。blogを見させて頂いている 統一協会退会者の方も「私は反対者と言われることに 嫌なイメージを感じている」(趣旨)ようなことを仰っている。

私は 特に アンチと言われたり 脱会者と蔑まれても全然平気。私は私 ひとくくりにされないだけの 自信もある。 アンチ・創価学会反対者なのは それなりの理由があるから。理由がなくなれば 理解者にも転じる可能性はあると思う。

さて、退会者は 退会後やはり 創価学会&創価学会員への嫌悪感はぬぐえない。私など 厚かましくも「創価学会員さん 今は近づかないで」と信号をかなり送っていた。 退会者は 創価学会の犠牲者・被害者という理解をして欲しい。

被害者に「私たちは何もしていないのに」と迫るのは 止めていただきたいと切に願う。もちろん、創価学会信者の個人個人は 悪い人でもない。(たくさんの会員でやることが 悪い結果になっていることもあるが) どちらかというと善人だ。
でも 善人でも近づいて欲しくない時もあるのだ。こちらには ちらっとでも 創価学会ぽさが見られたら やはり胸が苦しくなる フラッシュバックすると言う事情がある。

自分の親戚 両親 恋人 パートナー 知人に迫られても 引き留められても 拒否してやっと退会した人達。長年苦しんだ毒も吐きたくなるだろう。

こういったことに 理解がやはり不足していると思う。

自分の中の汚い部分
善魔