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私家版 野遊び雑記帳

野遊びだけが愉しみで生きている男の野遊び雑記帳。ワンコ連れての野遊びや愛すべき道具たちのことをほそぼそと綴っていこう。

愛惜のガダバウトチェア

2006-07-30 18:21:22 | Weblog
    ガダバウトチェア(Gadabout Chair)
       ――英国マクラーレン社製。
         散歩用に開発された折りたたみの軽量椅子で
         折りたたむとステッキ代わりになる。
    
 当時もいまもガダバウトチェアに関するぼくの知識はこんな程度のものである。
 軽いし、傘のようにたたむととてもコンパクトになる。専用の袋に収納して肩から提げて運ぶこともできる。袋から出してL字型になった把手を利用すればたしかにステッキのようになる。
 だが、これを肩から提げて散歩に出かける気にはなれないし、ステッキ代わりになるというのも、原産国のアングロサクソンならいざ知らず、スタンダードなわれらモンゴリアンには大儀である。
 
 ガダバウトチェアをキャンプで使いはじめたものの、女房はあまり気に入らない様子。不満は、お尻がドンと沈み込む作りになっているためである。ゆったりとリラックスするにはいいが、テーブルの前でこれに座って食事となると、上体がうしろに反ってしうから、特に上背がない人間にはけっこうつらい。立ち上がるときも、「どっこいしょ」と弾みをつけなくてはならない。
 リラックスタイムにはいいといっても、身体が沈み込んでホールドされてしまうので窮屈と感じることもある。地面が傾いていたりすると、お尻をとられているので座ったまま倒れていきそうになる。焚火の前だと火が遠くなる。
 
 火にも弱かった。焚火の前に置いて、トイレにたち、戻ってみるとナイロンクロスのお尻があたる位置に穴が開いていた。はぜた火の粉の仕業である。立て続けに2脚がやられた。
 こうして、またしても椅子探しの日々がはじまった。
 スノーピークのディレクターズチェアは、当時、たしかまだパイプがスチール製で重い上にかさばったので対象外だった。まもなくパイプがアルミの製品もラインナップされたが、脚の部分が八の字型に曲がってしまったという友人からのフィールドレポートを聞いたので触手が伸びなかった(クレームで交換してくれたそうだ)。
 
 以来、長く使ったのがキャプテンスタッグ製のディレクターズチェアだった。折りたたむとスノーピークの半分の寸法になった。スノーピークが二つ折りなら、こちらは三つ折りという、よく考えた構造だった。
 ただ、お尻の部分が一枚布なので寒冷期だとけっこう寒い。そこで、3年前、ようやくスノーピークのディレクターズチェア(パッドインチェア)に変えた。いささかかさばりはするものの、使い心地は快適そのものである。このメーカーの椅子に着目してから10年以上が経過していた。
 
 ディレクターズチェアがぼくのキャンプの主役になったあとでもガダバウトチェアを置き去りにして出かけることはなかった。消灯後、星空をながめながらひとりでウィスキーを舐める時間はいつもガダバウトチェアで過ごした。
 ソロでキャンプにでかけるときは、相変わらずガダバウトチェアが主役だった。ふだんも、キャンプ道具を下ろしたあとのクルマのラッゲージスペースにはガダバウトチェアと3リットルの水が、ルーフボックスには、スコップとブランケット類、若干の災害対策用品が積み込んだままになっている。
 
 だが、気がつくと、ガダバウトチェアはいつのまにかショップから姿を消していた。生産が中止になったという。
 2年ばかり前だろうか、日本の某メーカーからパクリとしか思えないような構造の椅子が発売になった。真似をして、オリジナル以上の品質の商品に進化させるのが得意な日本のメーカーだから、きっとガダバウトよりも高品質だろうと思っていたら、まもなく、A&Fのライセンス生産という新しいバージョンのガタバウトチェアがリリースされた。
 やっぱり、以前のオリジナルに比べ、全体的にも部分的にもなりタフな造りになっている。ナイロンクロスなど比較にならないほどだ。その分、少々重くなった。カタログを単純に比較すると以前のモデルが1.5㎏、今度のは1.8㎏で、その差300g。 
 この程度だと、散歩用でステッキ代わりにもなるという初期のコンセプトは捨ててしまったのか――という非難は酷かな。
 
 なんであれ、この洒落たデザインの椅子が復活したのはなんともうれしい。ぼくが使い古しているヤツの中には焚火の火の粉でお尻のあたりに穴が空いたのもあるけれど、手持ちの4脚を使いまわしていけば、まあ、現役の野遊び人でいる期間くらいはじゅうぶんもってくれるだろう。だいぶくたびれてきたけど、これらもいまやぼくの宝物のひとつである。

ガダバウトチェアにあこがれて

2006-07-28 22:48:03 | Weblog
 究極の椅子ガダバウトチェアと出逢ってかれこれ20年近くになる。“究極”とはいっても、あくまでぼくにとっての究極であって普遍性はない。
 
 キャンプへ椅子を持参するという贅沢を覚えたのは、クルマでキャンプに出かけるようになった30歳のころからだった。荷物を背負い、電車やバスを利用して出かけていたころには思いもよらなかった贅沢である。
 それまでのキャンプは、椅子などないのがあたりまえだからグランドシートを敷いた地面に坐ることになる。これが苦痛でならない。すぐ腰にくるからだ。テントサイトの近くに適度な高さの木の切り株なんかがあって腰かけることができたら狂喜した。
 カッコつけるわけではないが、十代のわりと早い時期から、わが家では畳にぺたりと坐る生活習慣をしていなかったのでなおさらだった。
  
 30歳で運転免許を取り、クルマを買うと、まっさきにキャンプで使えそうな椅子とテーブルを探した。
 当時のキャンプ道具は登山用品店で買うのが当然であり、水道橋、神田、新大久保、四谷、新宿追分、新宿駅ビルなどにあった店に足繁く通った。どこもいわゆる“山屋”相手の店だから椅子など売っているはずがない。
 当時のぼくはかなり時間が自由になったので、仕事のあいまに都内のあちこちの家具屋をまわって使えそうな椅子やテーブルを物色した。なんでもいいわけじゃない。やっぱりアウトドアに似合いそうな製品がほしかった。
 
 すでにアルミのパイプとキャンバス地で作られた折りたたみの小さな椅子は出まわっていたが、見るからに貧相な粗悪品で、とてもじゃないけど使う気にはなれなかった。
 アウトドア用かどうかは知らないが、イギリス製のバギーチェアという折りたたみの椅子の存在は知っていたが、実物を見たことがないし、どこへいけば買えるのかわからない。ライセンス生産の国産品もあると聞いたが、お目にかかっていなかった。
 
 いまも主に量販店で“ピクニックテーブル”とか“レジャーテーブル”などの商品名で売られている4つの椅子とテーブルが一体化した折りたたみ式の製品を使っている仲間がいた。当時のはたしかドイツ製で、ずいぶんいい値段だったと記憶している。しかもスチール製だから頑丈だけど、重いことおびただしい。
 結局、ぼくが選んだのは、ディレクターズチェア――映画監督がロケ現場で使っている、ウッドとキャンバス地で造られた例の椅子だった。テーブルにはもっと苦労した。さいわい、女房が観葉植物を置くために使っていた木製の折りたたみテーブルを、キャンプのときだけ強引に持ち出した。
 このふたつだけでカローラのラッゲージスペースはほぼいっぱいになってしまった。だけど、ほかはそれまで背負っていたフレームザック1個に収まるギアだから、なんの不便もない。道具類はコンパクトでも、椅子とテーブルがあるだけで信じられないほど快適になった。
  
 それからおよそ10年後、つまりいまから20年ばかり前だが、「オートキャンプ」という和製英語が広く流布し、最初のキャンプブームがやってきた。満足はできないものの、すでに安価なフォールディングチェアが何種類か発売されており、ぼくもいくつか持っていた。
 クルマも、ギャランからクラウンに変わっていた。愛用のキャンプ用品はクルマの収納スペースの向上にあわせたわけではないが、膨張が進行しつつあった。つまり、余計なものが増えていた。タープが増え、コンパクトタイプだけどコールマンのツーバーナー、そして、ランタン類……。
 このあたりで装備の膨張に気づき、ダウンサイジングの必要性がでてきた。同時に品質の向上にも色気がなかったとはいいきれない。
 
 とにかく、ちゃんとした椅子とテーブルがほしかった。当時、最高の水準を望めば、ガダバウトチェアとスノーピークのフォールディングテーブルの組み合わせだった。幸い、大口の臨時収入があったので目をつぶってこれらを買った。
 ガダバウトチェアには、グリーン、レッド、ブルー、ブラウンの4色がある。迷ったけど4脚ともブルーにした。折りたたむとコンパクトになるので4脚あってもクルマの積み込みはかなり楽になった。
 スノーピークのテーブルも天板がふたつにたためるし、スタンドはマルチスタンドを流用しているのでかさばらない。
 
 かくして、ぼくのテントサイトはかなりグレードアップしたはずだったのだが……。
(この稿つづく)

左手1本でしのいだ梅雨キャンプ

2006-07-22 14:08:27 | Weblog
 7月――。
 去年までは海の日が、たしか20日だったので、毎年、20日をからめて八ヶ岳南麓へ出かけていた。梅雨が明けるかどうか微妙なころで、キャンプ場で梅雨明けを迎えたこともある。
 
 今年の7月の連休は、15日(土)を入れると17日(月)までの3日間。さすがに梅雨明けの確率は絶望的なまでに低いけど、関東甲信越は空梅雨気味だったので、それをあてにして松本市を見下ろすお気に入りのキャンプ場へ出かけたら、みごとに梅雨の末期の大降りにあった。
 まあ、これも想定内、覚悟の上……。
  
 キャンプで雨に遭うのはそれほどイヤじゃないけど、設営と撤収が雨の中はちとつらい。人によっては半分くらいは雨のなかでの設営や撤収と聞いたことがあるけど、ぼくは長年キャンプをやってきて、雨のなかでの設営あるいは撤収は、幸い数えるほどしか経験がない。

 今回は、女房が風邪で体調が不十分なうえに、実はぼくも最悪のコンディションだった。
 キャンプ出発の2日前、朝、犬の散歩にでかけて犬のリード(引き綱)に足をとられて転び、左半身をしたたかにアスファルトの路面にたたきつけられていた。腕に負った擦過傷はかさぶたになっているが、右腕が肩から上には上がらない。もしかすると、肋骨が折れてはいないだろうが、ヒビくらい入っているのかもしれないけど……。

 クルマの運転中も右腕はハンドルに添える程度で七割方は左腕に任せていた。だから、設営のときから主な作業はほぼ左腕だけでやることになる。ふだんから器用な人間じゃないから利き腕が使えないのはかなりつらい。使わないといってもまったく使わないわけではなくて、使えそうな作業だと使ってしまう。

 そのせいかどうかはわからないが、設営の最中から、みぞおちのあたりに痛みが出てきて、ますます上半身がぎこちない。そんなや、こんなで設営は若干もたついたものの、幸いなんとかだれにも悟られることなく完了した。
 こういうのってけっこう快感である。

 だけど、どうしても左手ではできなかったのがロープワーク。やっぱり手が記憶しているから、左でやろうとすると赤子同然。まったく役に立たない。
 ぼくはテントやタープの引き綱にランナー(自在)を使っていない。引きとけ結び(英名:スリップノット)を応用してすませている。ランナーを使うより確実に固定できるし、調整も容易だからだ。これを左手でやるのに悪戦苦闘してしまった。
 しかたなく、ロープワークが必要になる設営は、今回、すべてキャンセルした。
  
 かくして、不自由ながら左手で作業するのは、思いもよらないほど貴重な体験となった。
 雨にたたられたというハンディもあって、とにかく無駄な動きはしたくないとの切なる思いから段取りを決めてかかったのがよかった。
 設営もさることながら、大雨の中の撤収の早かったことといったら……。
 おお、オレもやるときゃ、やるじゃん――と、自分で自画自賛したくなるほどだった。

 ただ、左半身の痛みは帰ってきてから増幅し、きょうあたりからようやく好転しはじめた。なにはともあれ、人間万事塞翁が馬、なにが吉となり、なにが凶となるかはわからない。

アックスが好き

2006-07-19 22:39:37 | Weblog
 キャンプの最大の楽しみが焚火。若いころは、焚火をやりたいからキャンプへいくなんてうそぶいていた。最近は、直火禁止のキャンプ場がふえて、焚火をやるにも焚火台なる専用器具なりバーベキュー台を持ち込まなくてはならなくなった。
 
 焚火の楽しみと同じか、あるいはそれ以上の楽しみが薪作り。このふたつはセットになっていて焚火さえやれれば満足というわけじゃない。
 キャンプ場へ着き、設営を終えると、ぼくはそそくさと薪拾いに出かける。キャンプ場以外での野営のときならまたたくまに必要な量の薪にありつけるけど、設備の整ったキャンプ場となるとたいてい薪集めには苦労する。

 薪は、キャンプ場で買ってもひと束500円くらいのものだからわざわざ拾いにいく必要はなさそうなものだけど、キャンプ場で売っている薪はほとんどスギの木の木っ端である。製材所で木の面取りをおこなったときに出た不要な部分を薪として売っている。いうまでもなく、スギはキャンプの薪としては最低である。はぜて火の粉をばらまくし、火もちもよろしくない。それに、どんな木が手に入るかはわからないけど、やっぱり薪は森からいただきたい。
  
 薪となる木がどのあたりにあるのかという直感を働かせるのはそれなりの経験が必要になる。どこであれ、適当な長さの薪が転がっているわけではない。枯れた倒木を見つけても、倒木ごと運べるわけではない。適度に枝を払い、サイトまで持っていく。当然、枝を切る道具が必要になる。
 薪拾いでいちばん役に立つのがノコギリ。折りたたみでケースもあるノコギリが便利である。これを腰に提げ、足元をしっかりして薪探しに出かける。以前は運搬用にアルミの背負子まで持ち込んだが、最近は集めた薪を細引きでからめてサイトまで引きずってくるようにしている。
 
 ぼくが使っているノコギリはハンドル部分がゴムで刃を交換できるタイプのもの。使い勝手はきわめていい。
 薪作りの道具としては、ほかにオノやナタがある。ぼくの好みとしてはオノがいちばん好きだ。ただし、国産ではなく、アメリカ製あるいはカナダ製、フィンランド製などのハンドアックスがいい。アックスはいかにもアウトドアっぽいし、その機能美がすばらしい。
 
 次にナタも捨てがたい。これは国産品の独壇場である。地方によって伝統的なフォルムとサイズのさまざまなナタがある。ぼくは山刀のようなフォルムのヤツがいい。狩猟用のナタは、当然、獲物を解体するための機能も備えているため、高品質だから値段もハンパじゃない。いずれ1本と思っているけど、しょせん宝の持ち腐れになるのがわかっているだけになかなか手が出せない。
  
 これらにくらべてノコギリはアウトドア度でひとつおよばない。
 使うときの危険度もアックス(オノ)、ナタ、ノコギリの順になる。やはり危険な道具ほど魅力がある。だから、アックスをいつも野遊びに連れていく。

 ほとんど使いもしない道具をなぜ持っていく? との自問にいつも次のように答えている。
 「野遊びの象徴としての道具を持つ喜びもまた野遊びの愉悦のひとつだから――」
 
 そういえば、ぼくの野遊びでは、ナイフもまた“象徴化”しつつある。
 道具は使ってやらねばこの世に生まれてきた意味がない。軟弱な野遊びばかりをしているから、道具たちを泣かせているわけで、道具たちをとやかくいう前に、自分のアウトドア度を変えていかなくてはならないということかな。

手袋は安くてタフな皮革製

2006-07-03 21:58:24 | Weblog
 火傷や切り傷のリスクが高い野遊びに作業用の手袋は必需品、その昔は綿の軍手が定番だった。安いし、まあまあ丈夫だし、惜しげなく使える。いまも、クルマの荷室そこかしこにいくつか放り込んである。しかし、もはや主役ではない。

 ずいぶん昔のことだけど、キャンプの最中に軍手をはめた手に熱湯がかかり、軽度とはいえ火傷をしてしまった。キャンプから帰ると、ぼくはホームセンターへいき、革の手袋を買った。いまにして思うと、あまりいい仕上がりの製品ではなかったが、30年ばかり前だと、特殊なものはともあれ、簡単に入手できるのはそんな程度の製品しかなかった。皮革そのものが薄かったし、ひと目でくず革に近いとわかる。形もいびつで手にしっくりなじむというわけにはいかなかった。
 それにもかかわらず、また、軍手が2ダースは買える値段ながら、高いという実感はなかった。たしか、レスキュー隊が使っているグローブだといわんばかりの商品名だった記憶がある。

 そんな製品でも、使ってみると、皮革製というだけでおどろくほど頼りになった。
 うっかり火のついた燃えさしを握ってしまってもすぐに熱くはならないし、熱湯がかかっても平然としていられた。綿の軍手だったら簡単に突き抜けているような金属のバリや木の突起からもしっかりガードしてくれた。ナイフが滑って左の手指をブレードの先端、ポイントと呼ばれる部分が襲ったことがあった。したたかな衝撃と手袋に傷はついたが、手の皮膚が破れるには至らなかった。なによりも、ハンドアックスを扱うときに握ったハンドルが滑らないのがありがたかった。
 こうして軍手の出番はほとんどなくなっていく。

 何年間か酷使して、焚き火の煤などで真っ黒になった。満身創痍という表現がピッタリの姿である。手のひらの部分など地色の黄色がまったく消えてしまい、黒光りしているほど。裸火を直接持った部分は焦げて変形し、硬く変質していた。
 同じ新しいものを買おうかとも思ったが、使いつづけてきたという愛着のほうが優った。とりあえず、洗ってみたのである。
 まず手にはめて濡らし、ワークブーツ用のサドルソープを使ってスポンジで細かい泡を出しながら洗い上げていった。汚れよりも先に落ちていく染料のあざやかな黄色に見とれてしまう。煤の汚れもかなり落ちたが、汚れが手袋全体にしみこんでしまった。
 陰干し後、もう一度手にはめて全体にミンクオイルを塗った。これで手袋は生まれ変わると同時に、別物のように品質が向上した。縮む部分は縮み、のびる部分はのびてぼくの手にぴったりした形に変わったのである。そればかりか、色合い、光沢、触感ともにすっかり高級感が出た。ミンクオイルのマジックだった。

 ぼく自身は気づかないでいたが、当時の野遊び仲間たちはぼくの"高級感あふれる"手袋に羨望のまなざしを向けていたらしい。むろん、それが安物の手袋の偶然の所産だとは、彼らのだれも気づいていない。
 やがて、バックパッキングブームから日本独自のオートキャンプブームの到来により、アウトドア用小物たちにも劇的な変化があらわれた。高級な皮革製手袋の出現もそのひとつだった。素材、デザイン、縫製とどの角度から見てもため息がでるほど完璧な作業用手袋がアウトドア用品店に燦然と並んだ。プライスカードを見てもため息が出た。なんせ、7000円から8000円ほどもするからだ。かれこれ、25年ほど前の金額である。

 そんな手袋をはめた手を惜しげもなく火のなかに突っ込むなんて、ぼくにはとてもじゃないけど考えられない。ところが、往時のぼくの野遊び仲間たちは、争うようして高価な手袋を野遊びに持ちこんできたのである。
「ずっと、その手袋にあこがれていたからね……」
 新品の高価な手袋を見せながらうれしそうに白状する彼らの視線の先には、たしか値段は2000円足らず、酷使し、ミンクオイルで輝きを増したぼくの手袋があった。

 長い間、ぼくの手を守りつづけてくれたこの手袋は、数年前、事実上の引退となった。かなりくたびれはいたものの、使えなくなったからではない。もっとタフそうな牛革製の手袋(写真)をホームセンターで見つけたからである。値段も3000円足らずと安かった。
 アメリカ製だけあって、皮革の素材だけはなかなかのものである。作りはおおざっぱだけど使いやすさは初代以上、ひと目惚れにまちがいはなかった。使う前から軽くミンクオイルを塗りこんでやった。

 この二代目はいつまでたってもきれいなままである。それなりに使いこんでいるはずなのに貫禄が伴わないのは、ひとえにぼくのキャンプスタイルがこの数年ですっかり変わってしまったからにほかならない。つまり、ひとりでキャンプをする機会が激減し、安楽キャンプばかりになっているためというわけだ。手袋が必要になるのは、せいぜい、ストーブやランタンなどの火器類が熱くなっているのを扱うときくらいしかない。
 キャンプサイトで手袋を見るたびに、ヤツが、「おい、手持ち無沙汰だぜ!」と不満をもらしているようで気が引けてならない。

6月の森の蝉時雨(せみしぐれ)

2006-06-25 22:22:51 | Weblog
 雨の予報が出ていたのに、昨日の関東地方は夏本番の到来と錯覚したくなるほどの夏空が広がった。1泊キャンプに出かけてしまおうかとも思ったが、日曜日に予定があったので、とりあえず中央高速へ乗って山梨方面へ向かった。最初に目指したのは森の中のレストランである。
 
 八ヶ岳南麓――。7年ばかり前、ぼくと女房は小淵沢方面へ住まいを移そうと本気で計画したことがあり、1年余りの間、足繁く通った。移住計画は断念したが、いまなお、キャンプ以外に森の中でひと息つきたいときに向かうのが八ヶ岳の南麓だった。
 今回のパートナーは、この2年間、いつもぼくらの野遊びにおつきあいいただいているM夫妻である。何週間か前に、M氏が、「そろそろ清泉寮のアイスクリームが恋しくなってきた」と発言したのを思い出し、「幸い天気になったことだし、それじゃ行ってみるか」と急遽思いついたのである。
 
 小淵沢のインターを通過したのが午後1時を少しまわったころ。勝手知ったる通称・鉢巻道路を富士見高原へと向かう。開け放ったクルマの窓から高原のさわやかな風に乗って虫の鳴き声が聞こえてくる。道はカラマツとアカマツの混生する森を貫いている。
「あ、あいつらだ!」
 予期していなかった出逢いだけに喜びはひとしおだった。
 
 ハルゼミ――その名のとおり、春から初夏の森で鳴くセミである。
 ぼくがはじめてそのセミの存在を知ったのは、いまからちょうど10年前、5月の連休直後に犬とふたりでキャンプをやるために訪れた裏磐梯のとある湖に面した森のなかだった。その森はブナやコナラ、クヌギなどの落葉広葉樹だったから、ハルゼミも「エゾハルゼミ」というわけである。
 そんな季節の蝉時雨なんかはじめての経験だったからとにかく驚いた。最初は東北地方特有の現象なのかと思ったくらい。5月から7月の寒冷地で鳴くセミがいて、落葉広葉樹を好むのが「エゾハルゼミ」、マツの林でしか鳴かないのが「ハルゼミ」だと知ったのは、何年か経ってからだった。
 
 ハルゼミやエゾハルゼミの合唱に包まれた富士見高原のレストランで食事をしたあと、ぼくらはまだ春には遠かったころからオープンを心待ちにしていた森のなかのカフェへと席を移した。
 木々に覆われたテラスでは、セミたちの合唱どころではない、大演奏会の真っ最中だった。ここではっきりと、二種類の鳴き声があることに気づいた。おそらく、「ハルゼミ」と「エゾハルゼミ」だろう。双眼鏡で一生懸命頭上を探したが、ついに一匹のセミも見つけることができない。それはまるで、木々が太陽の恵みに歓喜の声を上げているかのようでさえあった。
 
 運ばれてきたコーヒーを味わいながら、何気なく頭(こうべ)をめぐらせたとき、椅子に坐ったぼくの目線と同じ高さに写真の脱け殻があった。それは、ぼくが知っている都会のセミたちに比べてずいぶんと小さな脱け殻だった。きっと、エゾハルゼミだろう。
――殻しか見せてくれなのか。いつか、かならず木にとまっている姿を見つけてやるからな。

 陽が西に傾きはじめ、ハルゼミたちが1日の終わりに未練を残すような鳴き方をするなか、ぼくらもセミたち同様、まだしゃべり足りずに不完全燃焼のまま、当初の目的だった清泉寮のアイスクリームを食べようとテラスの椅子から立ち上がった。
 彼らの鳴き声が健在のうちに、今年、もう一度くらいはあのテラスでのんびりと休日を満喫したいものである。

惜しまれる名品――シェラザル

2006-06-24 09:02:30 | Weblog
 ソロでの野遊びのとき、重宝する小道具というのがいくつかある。正確な商品名は忘れたが、「シェラザル」と呼んでいる一品もそのひとつ。ぼくが持っているのはれっきとしたマスプロ製品だが、このアイディアは、イラストレーターにして作家――というよりは、野遊びの第一人者・本山賢司さんである。
 
 本山さんの数ある野遊び指南本の1冊、『大人の男のこだわり野遊び術』(共著・山と渓谷社)によれば、かねてから生活臭のない小さなザルがほしいと思っていたところ、とある野宿の旅で、洗い終わり、重ねて置かれたシェラカップを見た瞬間にひらめいた。
「このシェラカップと同じプロポーションのザルがあれば、これは便利に違いない。収納も今のままで、何ら差しつかえがないぞ」(本書104ページより)
 さっそく、金網屋さんにシェラカップを持参して作ってもらったのが、シェラカップとおなじプロポーションの、本山さんいうところの「シェラザル」である。本山さんのは手作りだからハンドルから伸びるフチの部分は金網を針金で巻き込んで、なかなか味わい深い。
 
 このシェラザルのことを読んで1年後か2年後だったと思うが、アウトドア用品のショップにシェラザルが商品化されて並んだ。『大人の男の――』の初版発売が1994年だから、商品化されたのはちょうど10年前くらいになるのだろう。
 わたしの記憶によれば、メーカーはアウトドア用品の大手であり、金物のキッチンウェアの製造販売の会社を母体としている某社だった。わたしもこのメーカーの製品はたくさん使っている。値段がリーズナブルなせいか、プロショップよりもディスカウントショップでお目にかかる機会が多い。
 
 しかし、金物メーカーだけあって、少なくとも金属製品はおおむね信頼に足るクォリティーを維持している。このパクリの「シェラザル」は、ひときわ素晴らしい造りである。本山さんが書いているとおり、「こす、すくう、のほかに工夫さえすれば、使い方は無限にも展開する」(同)はず。
 しかし、この10年、ぼくはソロキャンプの機会がめっきり減ってしまったせいで、無限の展開がなかなかままならない。いまだに新品のままである。
 
 残念なのは、商品としても短命だったことである。たぶん、初期製造分だけで終わった寿命だったかもしれない。ファミリーキャンプだ、オートキャンプだと、リッチな道具のラインナップに目を奪われやすいキャンパーたちが幅をきかすご時世に、シェラザルのような遊び心はなかなか広く理解はされないだろう。
 こんなことなら、5、6個買っておいて、このワクワクする遊び心を共有できる友への贈り物にすればよかったと悔やむことしきりなのである。

雨ニモ負ケズ 五感ヲ磨ク

2006-06-18 01:22:04 | Weblog
 なぜ、こんなにキャンプが好きなのだろう。「いずれ、沖縄へ帰って百姓をやるんだ」というのが口癖の、実に素晴らしい音楽センスの持ち主だったラジオディレクターの畏友Kは、ぼくがいそいそとキャンプへ出かけていくのを見て、「わざわざ地面に寝るなんて信じられない」とあきれていた。なるほど、そのとおりである。そればかりか、なぜ、あんなせまいテントにもぐりこむと幸せな気分になれるのかも不思議である。

 先週、関東甲信越が梅雨入りしたと思ったら、天気予報は土曜日から日曜日は晴れだと伝えていた。その後、予報は曇りに変わったが、雨は降らないという。
 5月の大型連休に長野・美ヶ原に近いキャンプ場へご一緒したR夫妻に、「6月は、梅雨の中休みにでも近場へキャンプにいきますかね。どうせ、ゆっくりしゃべるのが目的だから、簡単な装備でいいでしょう。それと、梅雨明け後にまとめてお泊りやるわけだから、6月は1泊だっていいし……」なんて言っていたから、さっそく、「どうですか、例のキャンプ場へ出かけませんか?」とお誘いがあった。むろん、野駆け遊びに異存のあろうはずはなく、一も二もなく賛成して、さっそく準備をすませた。

 山中湖は、すでに初夏を迎えた都会が忘れかけている春の息吹をいまだ濃密に匂わせていた。名残の雪をまとった富士山が趣のある雄姿を見せているのもこの季節ならではの風情である。キャンプ場は、山中湖にほど近い道志村の一角にある。場内には渓流が貫き、クヌギやコナラが茂る理想的な環境が気に入って、昨年から通いはじめた。
 初日はなんとか曇り空のままで夜を迎えたが、夜半になって、ときたま煙るような粉糠雨がスクリーンタープを舐めていく。朝からしゃべりづめにもかかわらず、午前12時を迎えてもなお、酒は飲まず、お茶だ、コーヒーだと飲み物を変えながら、ただひたすらしゃべり、笑い、話題によってはシリアスになっていた。
「さて、今朝が早かったから、そろそろ寝ますか」と、未練たっぷりにお開きにしたものの、すでに午前12時をまわってからだった。1泊というので、あちらのご夫妻はキャンプ仕様にしたアルファードクルマのベッドへ、わが家は小川テントのスクートへともぐりこむ。ほかに2組のテントがだいぶ距離をとって張ってあるが、どちらもとっくに灯は消えていた。
 
 鳥のさえずりとテントの屋根をたたく水滴に促されて目を覚ましたのは午前5時――。雨粒の音なのか、それとも木々の葉叢(はむら)にたまった水滴がしたたり落ちているいるだけなのか、寝袋のなかに縮めた身の五感を研ぎ澄まして外の様子をさぐってみる。テントを叩く音のひとつひとつを検証し、鳥たちの声からも情報を得て、朝を迎えた森の様子を想像するのである。
 音の大半は葉叢からの迷惑な贈り物、しかし、わずかではあるが雨もふっているようだった。ぼくの顔をのぞきこむ犬たちに、「雨だし、もう少し寝ような」と声をかけ、再び寝袋の温もりと大地のパワーに包まれていく。
 そう、朝のこんな時間、五感を集中させて外の様子を探る楽しみがキャンプの喜びだった。大地からのパワーを感じることができるからこそ、信じられないといわれた「地面に寝る」ためにやってくるのだ。

 いや、ほかにもある。
 昔、渓流のほとりに張ったぼくのツエルトのすぐ脇を、気配を消し、呼吸さえ控え、足音を忍ばせて通り過ぎていった動物がいた。ぼくも同じように気配を消そうと呼吸を止め、ヤツの動きを感知しようとした。ツエルトの薄い布の向こうをそいつが通り過ぎる瞬間、ぼくとヤツとの心臓の鼓動が重なったのを、ぼくは研ぎ澄ました五感ではっきりと聴き取った。

野遊びの必需品ジップロック

2006-06-08 23:15:53 | Weblog
 いよいよ梅雨入りである。梅雨でなくても、野遊びに雨はつきものだから防水対策にはけっこう神経を使う。装備が貧弱だった昔はなおさらだった。その名残のせいか、いまでも防水、防湿にはちょっとばかりナーバスになってしまう。
 ラフな野遊びをやっていたころは、衣類や濡らしたくないファーストエイドキットはビニールの買い物袋などにくるんでテントの浸水や、不意の雨に備えたものだった。やがて、防水液を塗ったナイロン生地製や透湿素材のエントラント製のスタッフバッグが出現し、それらを使うようになるころには、テントの性能も向上していて、めったな雨では浸水なんかしなくなった。
 
 それでも、8年前からぼくは野遊びに出かけるとき、キッチンで使う「ジップロック」を常に何枚か持っていって防水用の袋として使っている。
 ジップロック(Ziploc)とは、アメリカで開発された食品保存用のポリエチレンの袋である。その名のとおり、口の部分が同じ素材のジッパーになっていて、これがけっこう頼りになる。簡易にして安価、袋自体が薄いにもかかわらずなかなかタフなヤツなのである。
 野遊びでは、防水対策用のみならず、もちろん、本来の食品保存用にもおおいに役立っている。
  
 テントが進化するのに伴って、水に塗れたら即オシャカという精密機器まで野遊びに入り込んできた。ぼくの経験では、アマチュア無線のハンディ機が最初だった。
 70年代、ぼくらは野遊びにCB無線機を持って出かけていたが、実際にはほとんど役に立たなかった。一念発起して野遊び仲間たちでアマチュア無線の免許を取り、ハンディ機を買って意気揚々とウィルダネスへと入り込んでいった。
 ある夜、仲間のひとりが、木の枝に無線機を引っかけたままで忘れて寝てしまい、夜半の雨でずぶ濡れになった。かれこれ20数年前になるが、むろん、IC回路が組み込まれた機器である。しかし、当時のぼくらは無知ゆえにのんきなもので、「乾かしてからスイッチをオンにしたほうがいいんじゃねえか」程度の認識しかなかった。
 
 もうアマチュア無線機は持っていかないけど、それに代わって携帯電話やデジタルカメラがある。むろん、雨に濡れてもいけないし、それらを身につけたまま川や湖水で転んだりしたら、やっぱり即オシャカになる。
 ウォータースポーツをやるなら、迷うことなく携帯電話もデジタルカメラもさっさと防水機能があるアウトドア仕様の製品に切り替えてしまうけど、通常の野遊びだとそこまで神経質にはなれない。ほかにも、家の玄関やクルマの鍵が電子キーときているから、これもきっと水には濡らさないほうがいいはず。
 
 移動のとき、そんな水嫌いの道具たちを、デイパックやヒップパック、あるいはフィールドジャケットなんかのポケットに入れるわけだが、少しでも濡れるリスクが伴えば、ジップロックを使う。携帯用のファーストエイドキットは、防水防湿の目的以外に、中の薬が何かの拍子に外へ漏れてしまわないように、常時、ジップロックで保護してある。
 そんなぼくの様子を見て、「オーバーなこった」と笑うヤツがいるかもしれないが、その笑いが不意のアクシデントで泣き顔に変わらないよりはいい。野遊びには何が待っているかわからない。ちょっと経験を積めばわかる。
  
 この「ジップロック」の存在を教えてくれたのは、文字どおり日本における“ダッチオーブンの伝道師”である菊池仁志さんの、なんとも楽しい著書『ダッチ・オーヴンと行くロッキー山脈冒険ノート』(雄鶏社/初版1998)だった。
 台所用品にこんなすぐれものがあるのを、ぼくは不明にしてまったく知らなかった。菊池さんも本書の中で絶賛していて、「用途は工夫次第、無限である」と書いてある。まさにそのとおりで、キャンプの必需品であるばかりか、海外へ出かけるときにもずいぶん重宝した。
 アウトドア用のスタッフバッグとの違いは透明なので中に入っているものが一目瞭然だということである。中が丸見えだから見た目は必ずしも美しくはないが、利便性では比較にならない。特に“ミニオフィス”と化したピギーバッグ(伸縮する把手とキャスターがついてゴロゴロと引っ張るバッグ)内部は、ジップロックでかなり整理ができる。
  
 菊池さんの本を読んだ直後、ぼくはさっそくスーパーマーケットでSML三種類を買ってきた。女房を呼んで、「どうだ、スグレモノだろう」自慢気に披露すると、「わざわざ買わなくてもウチにたくさんあったのに」と軽くスカされてしまった。
 とても悔しかった。

居酒屋はキャンプ料理の情報源

2006-06-05 23:27:29 | Weblog
 あるとき、居酒屋で酒を飲みながら、ふと、気がついた。目の前に並んだ酒の肴がどれも野営食――つまり、キャンプでの料理にはピッタリだということである。とりわけ、豚キムチをキャンプで食べたらうまいだろうなと思ったのが最初だった。

 以来、ぼくはキャンプに酒の肴をメモして持ち込むようになった。材料のリストと簡単な手順のメモである。調味料を含めて分量なんかほとんど必要ない。実際の調理は、行き当たりばったりのオリジナルである。
 火を通しすぎたり、反対に、強火で一気にやるべきところを火力が足りなかったりと、ふだん、家の台所に入ったことがない人間だけに、失敗もたびたびあるが、どうせ簡単な料理ばかりだから、ま、こんなもんかと割り切れる。失敗しても食えなくなるほど悲惨な結果になったことはない。

 アウトドアクッキング、野外料理、キャンプ料理などと銘打った本をさんざん見てきたが、野営食にふさわしい簡単メニューが並ぶ本にはめったにお目にかかれなかった。キャンプ料理というだけで、どことなくあざとさがある。
 たしかに、キャンプは非日常を楽しむ遊びだから、食べるものにもふだん口にしているものとは一線を画したい。だからといって、こだわって凝ると手間ばかりかかってしまう。しょせん、アウトドアなんて不便だからいいわけで、料理もおおざっぱでうまいというのが理想である。ぼくの場合は、“酒の肴”あるいは“簡単”というキーワードに野営食のメニューを求めることにした。
 
 飲み屋でたまさか出逢った個性的な肴を、さすがに作り方を教えてくれとは言えないので、想像をたくましくして、こんな感じかなというのをメモしておく。うまい料理は、プロの作った完成品にはおよばなくてもそこそこの味には近づける。これがまた楽しい。あるいは、テレビのバラエティー番組などで紹介される簡単料理もさっとメモする。フリーペーパーやフリーマガジンも情報源になる。
 なじみの店ではなかったが、板前さんと雑談のなかでそんな話をしたら、「こんなのはいかがですか?」と簡単でおいしい料理をいくつか教えてくれた。彼が若いころに作っていたまかない食だという。どれもが野営食にピッタリの料理だった。料理人にかぎらず、さすがデキる人間は想像力も豊かである。
 
 選択の基準は、くどいようだが簡単なこと。材料もできるかぎりシンプルなほうがいい。仕込みに時間がかかるのも論外だ。それと、特殊な材料や調味料を使うものは最初からパスする。手に入りにくい材料とか都会のスーパーマーケットにしか置いてないような材料が問題外なのは説明するまでもない。調味料もしかり。手に入りにくいだけじゃなく、経験上、買い忘れたり、買っても次に使う機会がなくてあらかたを捨てる結果になるからである。

 これらのメモをキャンプに持参したとき、その日に使う分だけをツーバーナーストーブのフタに固定(写真)しておく。最近は、ツーバーナーを本来のストーブとしてはあまり使わなくなってしまったけど、このメモを固定するボード代わりになるのでなかなか捨てがたい。
 
 いざ、作る段になったら、大胆にいさぎよく――料理ばかりでなく、すべからく、それが男ある。

<簡単料理>
 熱くなったフライパンに油を引き、ひと口大に切った長ネギと豚肉を投入して炒める。ころあいを見計らって塩・コショウし、最後に醤油を適量たらして、醤油の香ばしさをネギと肉にからめる。熱いうちに、熱いご飯と一緒に食す。冷めるとうまさが激減する。

忘れられない野外料理

2006-06-03 09:19:19 | Weblog
 たくさんの野外料理を食べてきたけれど、いまも忘れられないすこぶるつきのうまい料理がある。これからも思い出すたびに、まだ、充分に若かったあの夏の日の、きらめくような記憶とともに、きっといつまでもセピア色になんか変わることなく、ぼくを幸せな気分にしてくれることだろう。
 そんないくつもの思い出に浸りながら年をとっていくというのも悪くない。

 それは、遠い夏の日――。
 会社の電話に聞きなれた声で野遊び仲間からキャンプの誘いがあった。
 「いま、どこにいると思います? いつものメンバーで艇を持って本栖湖にきてるんですよ」
 「艇(てい)」とは、当時のぼくらの遊び道具だったグラスファイバー製のボロカヌーである。メンバーのひとりがどこかからもらってきた中古のヤツで、扱いも悪いからとんでもないシロモノに成り下がっていた。それでも遊び道具としては立派に役立ってくれた。
 「あ、それとね、ブラウン(トラウト)がしきりに跳ねてるんで、お知らせしておかなくちゃって……」
 
 その夜、わたしはギャランのトランクににソロ用の野営装備を積み、アイスボックスには、昼間、女房に買っておいてもらったたっぷりの肉を入れて本栖湖へと向かった。むろん、リアシートにはルアーロッドとタックルボックスがあった。
 現地で待っているのは、いつも小学生のせがれと一緒にぼくまでもご厄介になっているボーイスカウトの若きリーダーたちである。全員が、ぼくよりもひとまわり以上年下の、聡明で、底抜けに楽しい連中だった。
 彼らは、大学生の特権である夏休を、以前教えておいた本栖湖で有意義に過ごしているらしい。ぼくはといえば、30代もなかばを過ぎてはいたが、野にあっては彼らと同じ年齢で精神の成長が止まっているだけに、その蠱惑の電話によって遊び心に火をつけられてしまった。
 
 本栖湖で、彼らはぼくの到着を信じて、遅くまで焚火を囲んで待っていてくれた。彼らとは出発した日の夜を含めて3泊くらいしか一緒にいられなかったけど、それは楽しい日々だった。
 カヌーは1艘しかなかったから、交代で使うことになる。カヌーに乗っていない者がカヌーを追いかけ、追いついてひっくり返す。ひっくり返されると交代となる。そんな遊びを日がな一日飽きもせずに繰り返していた。
 水は思ったよりもぬるかったが、それでも長時間、湖水に漬かっていれば身体が冷えてくる。疲れたらカヌーにつかまって休み、あるいは岸に上がってしばし身体を温めた。二十歳前後の連中と同じようにはしゃぐから、ぼくは夜は早々とテントにもぐりこんで熟睡することができた。
 ブラウントラウトのことなど頭の中から消えていた。
 
 子供のころから野営で鍛えられた彼らの野営食作りは見事というしかない。食担はわざわざ決めるまでもなく、いつものようになんとなく分担が決まっていた。ぼくが着いた翌日の夜のメニューは、彼らがお待ちかねの焼肉だった。全員が唇を脂でテカテカ光らせながら笑っていた。
 そして、最後の日、彼らのリーダー格であり、この日の食担でもあったひとりをのぞいて全員が遅くまで遊んでいた。水から上がったのは、夕闇が落ちはじめたころだった。
 サイトに戻ると、大鍋の中からいい匂いが吹き出している。肉ジャガだった。喉がゴクリと鳴り、腹がキュルキュルと悲鳴を上げた。
 ぼくらの姿を見て、食担が羽釜をの下に火を入れた。「え~! これから飯を炊くの?」などと不満をいう者はいない。隣のカマドからの余熱で、釜のなかの水はいい加減ぬるくなっているはずである。当時、流行しはじめた彼らの口癖を借りれば、ソッコーで飯が炊きあがるのは目に見えていた。
 
 ぼくらが各々のテントで渇いた服に着替え、もう一度焚火の前に戻ると、食担が「最後の仕上げだ」と称して大鍋のフタを開けた。そして、スプーンでバターをすくっては次々と鍋の中へと落としていく。200グラムのバターがすべて消えると、あたりにはえもいわれぬ芳香が充満した。
 
 飯が炊きあがるのなんか待ていられなかった。バターが鍋の中でなじんだころ、ぼくらは先を争って肉ジャガを貪った。大鍋はまたたくまに空鍋と化した。バターのこってりとした味が、冷えた身体に染み入るようなうまさだった。
 やがて炊きあがったご飯のおかずは何もない。でも、ぼくらは大鍋の底に残した肉ジャガの汁を分けあい、これまたソッコーで釜の中も空にしてしまった。
 
 疲れ果てた身体に、ソッコーでエネルギーがみなぎった。

キャンドルランタンに癒されて

2006-05-31 23:45:25 | Weblog
 ひとりで行くキャンプのときも、クルマならばガソリンランタンを持っていく。しかし、ほとんど使ったことはない。
 ソロでありながらガソリンランタンを使った記憶といえば、奥日光でのキャンプの夜、予想していたよりも冷え込みがきつくて焚火の薪が途中で足りなくなり、森の中へと薪拾いに行くときに灯したのが最後である。今年11歳になった犬とはじめてふたりだけで行った秋のキャンプだったから、かれこれ10年前になる。

 夜中の薪拾いはフラッシュライトよりも、広い範囲を照らせるランタンのほうがはるかに有利である。提げていかなくてはならないから片手しか使えない憾みはあるが、細引きを使って大量の薪を運ぶ簡単なテクニックを知っていれば問題ない。
 
 焚火が主役のキャンプだったらガソリンランタンはご法度である。焚火が美しくない。月光の冴えを邪魔し、星のまたたきを隠してしまう。もし、灯りが必要になったらフラッシュライトでたいていはこと足りる。作業用の灯りならヘッドランプが向いているけど。

 小学生のとき、親父と一緒のキャンプではキャンドルランタンが夜の楽しみだった。たしか東京トップといういまはなきメーカーの製品だったと思うが、アルミニュームでできた折りたたみ式のランタンである。たたむと板状になり、組み立てると赤い屋根の家形になり、中でキャンドルを灯すと、四方の窓から明かりがこぼれるという夢のあるデザイン。窓ガラスを模した部分は雲母だった。
 キャンドルの灯には夢があった。『トム・ソーヤの冒険』が彷彿とし、『十五少年漂流記』に入り込み、『ロビンソン・クルーソー』を追体験できた。
 
 バックパッキングの流行とともに、すでにひとりのキャンプの楽しさにハマり込んでいたぼくは、迷うことなく円筒形のキャンドルランタンを買った。きっと、10歳の夏、はじめてのキャンプでぼくを冒険の夢へと導いてくれたキャンドルの記憶が捨てきれずにいたからだろう。
 芦沢一洋氏の『バックパッキング入門』やコリン・フレッチャー氏『遊歩大全』でおなじみのフランス製キャンドルランタンである。ただ、このアルミ製のフレンチランタンはとても華奢で、何度も使わないうちに底の部分が外れてしまい、それっきりになった。
 すぐに新しいのを買わなかったのは、久々に何度か使ってみたキャンドルランタンが実用性に乏しかったからである。すでに書いたように明かりはフラッシュライトで間にあっていた。

 月明かりもない真の闇にくるまれた野営のとき、焚火を落として熾火も埋めてしまったあとなどに何度かキャンドルランタンが恋しくなったことがあった。そこが漆黒の闇ならば、焚火に代わる火は、やっぱりキャンドルの温もりしかない。小さな火影が愛しかった。
 何年間の空白があったのか忘れてしまったが、中禅寺湖でのキャンプを控えて、ぼくは写真のウコ(UCO)を買った。真鍮製にするかアルミ製にするか迷ったけど、結局、値段が安いほうのアルミを選んだ。あらためて底に記された文字を読んでみると、パテントは出願中(PEND)とあるから、わりと初期のころの製品らしい。
 
 中禅寺湖での夜は、初日、雨に見舞われ、テントのかたわらに低く張った小さなタープの下で寝るまでのひとときを過ごさざるをえなかった。むろん、焚火はできず、ぼくはフレームザックの中から買ったばかりのUCO「MODEL NO2」を取り出してタープの下に提げ、心ゆくまで小さな炎を眺めて過ごした。
 白い息を吐きながら飲むホットウィスキーにときおりむせながら見つめるキャンドルは、かぼそい火影ではあったけど、焚火の炎に劣らぬ安らぎを与えてくれた。
 
 いつ寝袋にもぐりこんだのか憶えていなかった。朝、鳥たちのさえずりに促されて外へ出ると、キャンドルの炎はまだ健在だった。晴れ渡った朝の光の下で、とっくに役割の時間を終えたキャンドルの火影はどこか眠たげに見える。
 「おつかれさん」
 そういって、ぼくは太平洋の向こうからやってきたランタンを半分にたたんだ。
 
 いまや、キャンドルランタンは、ぼくにとってシースナイフと並んで野遊びの象徴的な存在となっている。実用性に乏くても無駄な持ち物とは思わない。自分のかたわらにあるだけで安心できる、いわばお守りのような役割を担っていてくれるのである。
 それに、ひとりのキャンプにガソリンランタンは明るすぎて、どうも侘びしくていけない。

梅雨の中休みのベストシーズン

2006-05-23 21:52:42 | Weblog
 入梅が近づいている。
 独りで身軽にキャンプを楽しんでいたころは、クルマのトランクルームにソロ用のキャンプ道具を積んでおき、週末が梅雨の中休みに恵まれると喜び勇んでフィールドへと飛び出していったものだった。渓流のほとりであれ、湖岸であれ、必ずや都会よりも遅い新緑に心が洗われる思いで短い休日を過ごすことができた。

 梅雨の中休みというのはたいてい天候が安定する。梅雨の前だと雨混じりの嵐のような大風に見舞われる確率が高いが、梅雨に突入していまえばその心配はほとんどない。しかも、ブユをはじめとする吸血昆虫が猖獗(しょうけつ)をきわめるにはまだ少し間がある。ほとんど人に遭わないのが最高のぜいたくでもある。
 梅雨の中休みもまたキャンプのベストシーズンのひとつに挙げていいだろう。
 
 キャンプの、もうひとつのベストシーズンは、夏の喧騒が遠く消えた晩秋から初冬のころである。天候は安定し、陽気も暑からず寒からず、夜には小さな焚火のぬくもりがありがたい。ただ、この時期は日没の時間が早いのでけっこう気ぜわしい。夜明けも遅く、ようやくテントから抜け出すといい時間になっていて損をしたような気になる。
 それに引き換え、梅雨のころの1日はなんとも長い。朝も4時には明るくなって鳥のさえずりに促されての目覚めとなる。水分をふんだんに吸った木々の緑の芳香に包まれて癒されていくのを自覚することができる。
 
 渓流魚たちも瀬の近くに出て活発に餌を追っている。昔はそんな彼らを釣り上げるのが楽しかったが、最近は矢のように泳ぐ姿を見ているだけで満たされる。キャッチアンドリリースのスポーツフィッシングを再開してみたいという気持ちもあるが、いまひとつのりきれないでいる。
 このように、年々歳々、ぼくのキャンプスタイルはゆるやかに変化しつつある。何もせず、ひたすらのんびりと過ごしたいとの思いがだんだん強くなっている。夜、小さな焚火を前に何時間でも物思いにふけって過ごすのがいい。
 「キャンプのなにが愉しいのか? とにかくぼんやりしている時間がいい」という意味のこと語ったら、それを聞きかじり、しかし、単純なレトリックの本質を理解できない手合いが上っ面だけをパクって、「キャンプへ行ってぼんやりしてきた」などと誇らしげに書いているのを読んだときはさすがに憫笑を禁じえなかった。
 
 思量のかけらさえなき愚昧なぼんやりになんの意味があろか。夏直前の生命力がみなぎるなかで、つれづれにめぐらす考察の陶酔(ぼんやり)にこそ悦びがある。
 そんなひとときに精神(こころ)を託し、動から静へ、静から寂へ、寂から無へ――とカタルシスを高めていきたいところだが、まだまだ生臭い心根は花鳥風月と同化できる境地までの道のりを遠くしているようである。

シェラカップへの憧れ――25年目の『BE-PAL』に寄せて

2006-05-21 20:17:05 | Weblog
 25年以前に想いを馳せるなら、やっぱり、シェラカップについて最初に記しておくべきだった。当時、30代のいい年をした野遊び好きな男たちが、このステンレス製の小さなカップに、いまにして思えば、滑稽なまでの憧れをいだいたものだった。むろん、ぼくもそのひとり。シェラカップを買ったあとの最初のキャンプでは、誰もが手にした自分のカップためつすがめつしながら焚火を囲んでいた。
 
 シェラカップの存在を知ったのも、当初はフィッシングマガジンなどに掲載されたバックパッキングの紹介記事からだった。いわく、「熱湯を注いでも把手や唇に接する部分は熱くならない構造」「火に直接かけてお湯を沸かせる」などなど、知るほどに、それはあたかも“魔法のカップ”に思えたし、何をさしおいてもほしい1品だった。
 ほどなく、ICI石井スポーツの本店にメイドインジャパンのシェラカップが並んだ。ふるえる思いで2個を買う。うれしかった。自慢げにキャンプへ持っていくと、仲間たちは全員同じシェラカップを持っていた。
 
 翌年くらいだろうか、アメリカ製のシェラカップがあちこちのアウトドアショップの棚を飾った。
 どうもおかしい。すでに愛用しているシェラカップとどこか違うのである。アメリカからやってきたシェラカップはぼくらが使っているのよりも心もち深いように思える。
 まもなく、「SIERRA CLUB」と刻印の入ったシェラカップが発売になった。本家のコピー商品であれ、これは興奮した。またしても2個をゲット。最初の国産品2個と比較してみると、高さとカップの底部の直径がやはり微妙に違っていた。
 
 最初の日本製は高さと底の直径がそれぞれ3ミリほど少ない。この違いは、ぼくの憶測に過ぎないけど、日本のメーカーが雑誌の記事などに紹介された寸法のデータだけを元に実物を見ないまま作ったからではないのかと……。しかし、素材と造りの丁寧さは刻印があるヤツよりもはるかにいい。
 ぼくが知るかぎり、同様の作りのよさでは、なんの刻印もないMSR製の製品がいい。手元にあるMSRの1個は、そのころ、ルアーロッドを携えて足繁く通っていた本栖湖のキャンプ場で拾ったものである。底に小さく「MSR」と印刷されていたが、とうの昔に消えてしまった。
 
 SIERRA CLUBの刻印入りが出ると、ぼくばかりか、当時の仲間たちもこぞってこのシェラカップに入れ替えた。だが、何年かして誰も彼もが同じシェラカップを持つようになると、ぼくらは最初のシェラカップも持っていくようになった。
 理由はさまざまだったが、ちょうど、初恋の相手への追慕にも似た想いだけは共通していたのだろう。
 
 シェラカップは、やがて出現するロッキーカップによってすっかり影が薄くなってしまった。食事用のカップとしてシェラカップでは容量が物足りなかったからである。シェラカップのおよそ1.5倍の容量があるロッキーカップのほうが実用性が高かった。
 だが、そのロッキーカップもまたチタンという素材の出現でぼくの寵愛を失っていく。現在、ぼくがキャンプで標準的に使っているカップはロッキーカップをそのままチタン製にした国産のカップとこれまたチタン製のシェラカップである。
 把手は収納に邪魔になるとはいえ、熱いものを入れたときに便利だし、洗ってから干すときには木の枝に渡した細引きに引っ掛けて乾かせるのでなにかと重宝する。

 しかし、ぼくは旅のパートナーとしていつもSIERRA CLUBの刻印が入ったできの悪いステンレス製シェラカップを持参している。むろん、野遊びばかりではない、海外へ仕事で出かけていくときも、ミニマグライトやスイスアーミーナイフ、コンパス、パラシュートコードなどとともにシェラカップの入った小さなキットがスーツケースにおさまっている。
 自己満足でしかないけれど、これがぼくのアイデンティティだからである。