
ソロでありながらガソリンランタンを使った記憶といえば、奥日光でのキャンプの夜、予想していたよりも冷え込みがきつくて焚火の薪が途中で足りなくなり、森の中へと薪拾いに行くときに灯したのが最後である。今年11歳になった犬とはじめてふたりだけで行った秋のキャンプだったから、かれこれ10年前になる。
夜中の薪拾いはフラッシュライトよりも、広い範囲を照らせるランタンのほうがはるかに有利である。提げていかなくてはならないから片手しか使えない憾みはあるが、細引きを使って大量の薪を運ぶ簡単なテクニックを知っていれば問題ない。
焚火が主役のキャンプだったらガソリンランタンはご法度である。焚火が美しくない。月光の冴えを邪魔し、星のまたたきを隠してしまう。もし、灯りが必要になったらフラッシュライトでたいていはこと足りる。作業用の灯りならヘッドランプが向いているけど。
小学生のとき、親父と一緒のキャンプではキャンドルランタンが夜の楽しみだった。たしか東京トップといういまはなきメーカーの製品だったと思うが、アルミニュームでできた折りたたみ式のランタンである。たたむと板状になり、組み立てると赤い屋根の家形になり、中でキャンドルを灯すと、四方の窓から明かりがこぼれるという夢のあるデザイン。窓ガラスを模した部分は雲母だった。
キャンドルの灯には夢があった。『トム・ソーヤの冒険』が彷彿とし、『十五少年漂流記』に入り込み、『ロビンソン・クルーソー』を追体験できた。
バックパッキングの流行とともに、すでにひとりのキャンプの楽しさにハマり込んでいたぼくは、迷うことなく円筒形のキャンドルランタンを買った。きっと、10歳の夏、はじめてのキャンプでぼくを冒険の夢へと導いてくれたキャンドルの記憶が捨てきれずにいたからだろう。
芦沢一洋氏の『バックパッキング入門』やコリン・フレッチャー氏『遊歩大全』でおなじみのフランス製キャンドルランタンである。ただ、このアルミ製のフレンチランタンはとても華奢で、何度も使わないうちに底の部分が外れてしまい、それっきりになった。
すぐに新しいのを買わなかったのは、久々に何度か使ってみたキャンドルランタンが実用性に乏しかったからである。すでに書いたように明かりはフラッシュライトで間にあっていた。
月明かりもない真の闇にくるまれた野営のとき、焚火を落として熾火も埋めてしまったあとなどに何度かキャンドルランタンが恋しくなったことがあった。そこが漆黒の闇ならば、焚火に代わる火は、やっぱりキャンドルの温もりしかない。小さな火影が愛しかった。
何年間の空白があったのか忘れてしまったが、中禅寺湖でのキャンプを控えて、ぼくは写真のウコ(UCO)を買った。真鍮製にするかアルミ製にするか迷ったけど、結局、値段が安いほうのアルミを選んだ。あらためて底に記された文字を読んでみると、パテントは出願中(PEND)とあるから、わりと初期のころの製品らしい。
中禅寺湖での夜は、初日、雨に見舞われ、テントのかたわらに低く張った小さなタープの下で寝るまでのひとときを過ごさざるをえなかった。むろん、焚火はできず、ぼくはフレームザックの中から買ったばかりのUCO「MODEL NO2」を取り出してタープの下に提げ、心ゆくまで小さな炎を眺めて過ごした。
白い息を吐きながら飲むホットウィスキーにときおりむせながら見つめるキャンドルは、かぼそい火影ではあったけど、焚火の炎に劣らぬ安らぎを与えてくれた。
いつ寝袋にもぐりこんだのか憶えていなかった。朝、鳥たちのさえずりに促されて外へ出ると、キャンドルの炎はまだ健在だった。晴れ渡った朝の光の下で、とっくに役割の時間を終えたキャンドルの火影はどこか眠たげに見える。
「おつかれさん」
そういって、ぼくは太平洋の向こうからやってきたランタンを半分にたたんだ。
いまや、キャンドルランタンは、ぼくにとってシースナイフと並んで野遊びの象徴的な存在となっている。実用性に乏くても無駄な持ち物とは思わない。自分のかたわらにあるだけで安心できる、いわばお守りのような役割を担っていてくれるのである。
それに、ひとりのキャンプにガソリンランタンは明るすぎて、どうも侘びしくていけない。