
八ヶ岳南麓――。7年ばかり前、ぼくと女房は小淵沢方面へ住まいを移そうと本気で計画したことがあり、1年余りの間、足繁く通った。移住計画は断念したが、いまなお、キャンプ以外に森の中でひと息つきたいときに向かうのが八ヶ岳の南麓だった。
今回のパートナーは、この2年間、いつもぼくらの野遊びにおつきあいいただいているM夫妻である。何週間か前に、M氏が、「そろそろ清泉寮のアイスクリームが恋しくなってきた」と発言したのを思い出し、「幸い天気になったことだし、それじゃ行ってみるか」と急遽思いついたのである。
小淵沢のインターを通過したのが午後1時を少しまわったころ。勝手知ったる通称・鉢巻道路を富士見高原へと向かう。開け放ったクルマの窓から高原のさわやかな風に乗って虫の鳴き声が聞こえてくる。道はカラマツとアカマツの混生する森を貫いている。
「あ、あいつらだ!」
予期していなかった出逢いだけに喜びはひとしおだった。
ハルゼミ――その名のとおり、春から初夏の森で鳴くセミである。
ぼくがはじめてそのセミの存在を知ったのは、いまからちょうど10年前、5月の連休直後に犬とふたりでキャンプをやるために訪れた裏磐梯のとある湖に面した森のなかだった。その森はブナやコナラ、クヌギなどの落葉広葉樹だったから、ハルゼミも「エゾハルゼミ」というわけである。
そんな季節の蝉時雨なんかはじめての経験だったからとにかく驚いた。最初は東北地方特有の現象なのかと思ったくらい。5月から7月の寒冷地で鳴くセミがいて、落葉広葉樹を好むのが「エゾハルゼミ」、マツの林でしか鳴かないのが「ハルゼミ」だと知ったのは、何年か経ってからだった。
ハルゼミやエゾハルゼミの合唱に包まれた富士見高原のレストランで食事をしたあと、ぼくらはまだ春には遠かったころからオープンを心待ちにしていた森のなかのカフェへと席を移した。
木々に覆われたテラスでは、セミたちの合唱どころではない、大演奏会の真っ最中だった。ここではっきりと、二種類の鳴き声があることに気づいた。おそらく、「ハルゼミ」と「エゾハルゼミ」だろう。双眼鏡で一生懸命頭上を探したが、ついに一匹のセミも見つけることができない。それはまるで、木々が太陽の恵みに歓喜の声を上げているかのようでさえあった。
運ばれてきたコーヒーを味わいながら、何気なく頭(こうべ)をめぐらせたとき、椅子に坐ったぼくの目線と同じ高さに写真の脱け殻があった。それは、ぼくが知っている都会のセミたちに比べてずいぶんと小さな脱け殻だった。きっと、エゾハルゼミだろう。
――殻しか見せてくれなのか。いつか、かならず木にとまっている姿を見つけてやるからな。
陽が西に傾きはじめ、ハルゼミたちが1日の終わりに未練を残すような鳴き方をするなか、ぼくらもセミたち同様、まだしゃべり足りずに不完全燃焼のまま、当初の目的だった清泉寮のアイスクリームを食べようとテラスの椅子から立ち上がった。
彼らの鳴き声が健在のうちに、今年、もう一度くらいはあのテラスでのんびりと休日を満喫したいものである。