
そんないくつもの思い出に浸りながら年をとっていくというのも悪くない。
それは、遠い夏の日――。
会社の電話に聞きなれた声で野遊び仲間からキャンプの誘いがあった。
「いま、どこにいると思います? いつものメンバーで艇を持って本栖湖にきてるんですよ」
「艇(てい)」とは、当時のぼくらの遊び道具だったグラスファイバー製のボロカヌーである。メンバーのひとりがどこかからもらってきた中古のヤツで、扱いも悪いからとんでもないシロモノに成り下がっていた。それでも遊び道具としては立派に役立ってくれた。
「あ、それとね、ブラウン(トラウト)がしきりに跳ねてるんで、お知らせしておかなくちゃって……」
その夜、わたしはギャランのトランクににソロ用の野営装備を積み、アイスボックスには、昼間、女房に買っておいてもらったたっぷりの肉を入れて本栖湖へと向かった。むろん、リアシートにはルアーロッドとタックルボックスがあった。
現地で待っているのは、いつも小学生のせがれと一緒にぼくまでもご厄介になっているボーイスカウトの若きリーダーたちである。全員が、ぼくよりもひとまわり以上年下の、聡明で、底抜けに楽しい連中だった。
彼らは、大学生の特権である夏休を、以前教えておいた本栖湖で有意義に過ごしているらしい。ぼくはといえば、30代もなかばを過ぎてはいたが、野にあっては彼らと同じ年齢で精神の成長が止まっているだけに、その蠱惑の電話によって遊び心に火をつけられてしまった。
本栖湖で、彼らはぼくの到着を信じて、遅くまで焚火を囲んで待っていてくれた。彼らとは出発した日の夜を含めて3泊くらいしか一緒にいられなかったけど、それは楽しい日々だった。
カヌーは1艘しかなかったから、交代で使うことになる。カヌーに乗っていない者がカヌーを追いかけ、追いついてひっくり返す。ひっくり返されると交代となる。そんな遊びを日がな一日飽きもせずに繰り返していた。
水は思ったよりもぬるかったが、それでも長時間、湖水に漬かっていれば身体が冷えてくる。疲れたらカヌーにつかまって休み、あるいは岸に上がってしばし身体を温めた。二十歳前後の連中と同じようにはしゃぐから、ぼくは夜は早々とテントにもぐりこんで熟睡することができた。
ブラウントラウトのことなど頭の中から消えていた。
子供のころから野営で鍛えられた彼らの野営食作りは見事というしかない。食担はわざわざ決めるまでもなく、いつものようになんとなく分担が決まっていた。ぼくが着いた翌日の夜のメニューは、彼らがお待ちかねの焼肉だった。全員が唇を脂でテカテカ光らせながら笑っていた。
そして、最後の日、彼らのリーダー格であり、この日の食担でもあったひとりをのぞいて全員が遅くまで遊んでいた。水から上がったのは、夕闇が落ちはじめたころだった。
サイトに戻ると、大鍋の中からいい匂いが吹き出している。肉ジャガだった。喉がゴクリと鳴り、腹がキュルキュルと悲鳴を上げた。
ぼくらの姿を見て、食担が羽釜をの下に火を入れた。「え~! これから飯を炊くの?」などと不満をいう者はいない。隣のカマドからの余熱で、釜のなかの水はいい加減ぬるくなっているはずである。当時、流行しはじめた彼らの口癖を借りれば、ソッコーで飯が炊きあがるのは目に見えていた。
ぼくらが各々のテントで渇いた服に着替え、もう一度焚火の前に戻ると、食担が「最後の仕上げだ」と称して大鍋のフタを開けた。そして、スプーンでバターをすくっては次々と鍋の中へと落としていく。200グラムのバターがすべて消えると、あたりにはえもいわれぬ芳香が充満した。
飯が炊きあがるのなんか待ていられなかった。バターが鍋の中でなじんだころ、ぼくらは先を争って肉ジャガを貪った。大鍋はまたたくまに空鍋と化した。バターのこってりとした味が、冷えた身体に染み入るようなうまさだった。
やがて炊きあがったご飯のおかずは何もない。でも、ぼくらは大鍋の底に残した肉ジャガの汁を分けあい、これまたソッコーで釜の中も空にしてしまった。
疲れ果てた身体に、ソッコーでエネルギーがみなぎった。