私家版 野遊び雑記帳

野遊びだけが愉しみで生きている男の野遊び雑記帳。ワンコ連れての野遊びや愛すべき道具たちのことをほそぼそと綴っていこう。

わが最愛のシェラデザインズ60/40マウンテンパーカ

2015-10-15 19:05:37 | Weblog

■ 永遠の60/40クロス
 10月10日から12日まで、体育の日がらみの三連休のキャンプは清里高原へ出かけた。本格的な秋を迎え、久しぶりにシェラデザインズの60/40マウンテンパーカを着ることができた。
 いつもキャンプのお伴にしていながら、さすがに夏場は着る機会がない。それでもダッフルバッグに入れていくのは、このマウンパがぼくにとって野遊びの正装だからだ。どの服よりも、ぼくは60/40を愛している。
 このマウンパのことは前にも書いた記憶があるので繰り返しになるかもしれないが、それだけ愛情を注いでいる証なのでご勘弁願いたい。

 若いころ、ずっと憧れていたシェラのマウンパではあるが、高価でとても手が出ず、代わりに日本の有名なアウトドア用品店のブランドである似て非なるマウンテンパーカでがまんしていた時期もある。だが、そのクォリティの高さとデザインのすばらしさは比べようがなかった。それだけに60/40を手に入れたときの喜びは、後述するとおりひとしおだった。

 野遊び好きには説明するまでもないだろうが、60/40とは、素材に使われている布地を指す。緯糸にコットン60%を、縦糸にナイロン40%を配して編み込んだ布地で、雨や雪で外気の湿度が上がるとコットンの緯糸が湿気を含んで膨らみ、ナイロンの縦糸を圧迫して防水機能を高める。少々の雨や雪なら内部への侵入を阻み、当然、内部からの熱の放出も防いでくれる。外気のコンディションのよっては、コットンが収縮して内部の湿気を放出するため、快適さが保たれるというすぐれものである。
 焚火の火の粉を浴びても、ゴアテックスに代表される新素材のように穴が開いたりしないし、新素材にありがちなコーティングの経年劣化等とも無関係である。


■ 一生もののアイテムとして
 そうした機能もさることながら、素晴らしいのは軽くソフトで繊細な手触りながらその堅牢さである。なんとも品のいい光沢を持ちながら、アウトドアにつきものの摩擦や引き裂きに対してビクともせず、使い込めば使い込むほど味わいが増してくる。60/40の配合が黄金比と称賛されてきた所以だ。

 このグリーンの60/40は20年あまり愛用して、だいぶ年季が入っているが、これからも野遊びにいかれるかぎりはずっと使い続けるつもりである。
 三十代のなかばで買った初代は、うれしさのあまり、買ってから2、3年ばかり、秋から春までコート替わりに会社の往復でも着ていて裏のほうはかなり擦れているが、表面はまだまだ現役である。初代を買って3年ばかりしたころ、軽井沢のバーゲンで同じタン色を格安で入手して、こちらはほとんど着ていない。ただ、どちらもSサイズ、日本ではMサイズに該当する。

 三十代までは身体も細身だったから、スーツの上にシェラのSサイズのマウンテンパーカを着てもじゅうぶん着こなせた。ところが、四十代を迎えると、Sサイズでは重ね着が窮屈になってきた。下にインナー用のダウンパーカやダウンベスト、あるいはフリースのジャケットを重ね着するのを前提で、ワンサイズ上のMを新たに購入したのである。
 よほど体型が変化しないかぎり、このマウンパはぼくの一生もののアイテムとなるはずだ。

■ このマウンパを棺の中へ入れてほしい
 シェラデザインズのマウンテンパーカは、初代、二代目、そして、この三代目以外にもう一着四代目の60/40がある。ただし、こちらはウッドランドパターンの迷彩柄。買ってからほとんど着てないのは、ミリタリーショップで売っている戦闘服を野遊び用に流用しているなんて勘違いされてしまうのも心外だが、ホームセンターに並んでいる作業服に見えないこともない。まったくもって大いなる誤算であった。
 
 ぼくが持っているマウンテンパーカは、ほかにも数着ある。ゴアテックスをはじめ新素材でできた製品だが、いまや休日の街着と化している。ぼくの野遊びには焚火がつきものなので、ゴアテックスなど怖くて着ていられない。ジーンズショップで買った焚火専用のジャケットもあるが、わがことながら根が横着だからわざわざ着替えて焚火の前に座るとは思えない。

 ぼくがシェラデザインズのマウンテンパーカに寄せる想いは、60/40クロスの素材の品質の高さもさることながら、そのデザインのすばらしさである。ほかの人の目にはどうのように映っているのか知らないが、ぼくにとってマウンテンパーカとは、まさに「シェラのマンウンパ」だけなのである。それゆえに、死ぬまでぼくの正装でありつづける。
 あの世とやらへ旅立つとき、「棺の中になにか入れてほしいものがあるか」と問われたら、迷うことなく「シェラのマウンパにしてくれ」と答える。あの世でもこのマウンパを着て野遊びに興じたいからだ。

*本稿は、畏友・久我英二氏のブログ「オジサンの今日の服」内の「オジサンたちのみんなの服」に掲載していただいた拙稿をベースに構成しました。

シルバーウィークの喧騒キャンプにうんざり

2015-10-06 20:38:00 | Weblog

■ まだ夏の名残りの高原へ
 2015年のカレンダーを手にして9月を見たとき、目を疑ったのはぼくだけではなかったろう。ゴールデンウィークと呼ばれる5月の大型連休と同じ祭日が並んでいるではないか。土曜日を入れたら五連休。気が遠くなるほどうれしかった。

 当然、キャンプである。混むのは覚悟したが、もう夏休みは終わっているし、初日が土曜日だというので油断した。午前中に着けばじゅうぶんサイトが確保できると信じて出かけたが、とんでもない混雑が待っていた。11時前だというのにキャンプ場は人とクルマでごったがえしているではないか。
 いつもテントを張っているサイトは見たこともないほどの数のテントやタープで埋まっていた。管理人さんたちでさえ想定外の人出に「なんだ、こりゃ?」という顔で驚いているのがよくわかった。

 ゴールデンウィークだとまだけっこう寒いし、年によっては冬の陽気を覚悟しなくてはならない。キャンプ場内の桜が満開の年であっても、夕暮れ過ぎると寒さが忍び寄るのは毎年のこと。過去には雪で埋まった年もあったという。その点、9月なら、高原はすでに秋ではあってもまだ夏の余韻が濃厚と思える。
 実はこのシルバーウィークと呼ばれた今年の連休の夜はけっこう寒くて、夏のシュラフだと辛いと感じた人たちも少なくなかったと思う。


■ ここはほんとうに日本のキャンプ場なのか?
 到着後、なんとかテントを張るスペースを見つけてそこに落ち着いた。これまでなら見向きもしなかったような場所である。多少傾斜はあるが、このキャンプ場で平坦な場所を確保するほうが至難だから妥協するしかない。ほどなく、落ち合う予定になっていた従姉夫妻も到着して、われわれの隣のスペースに無事設営を完了した。
 
 初日が土曜日だというのに、たくさんの子供たちがきていた。その夜は、子供のわめき声と大人たちが酔って上げる奇声が遅くまで場内にこだまして、まさに連休ならではのキャンプ場の様相である。それにしてもかなりひどい。ひと言でいえば、ずいぶん荒れ気味である。
 日本のキャンパーが必ずしもマナーがいいとは思っていないが、それにしもずいぶん地に墜ちたものである。
 
 ぼくたちがテントを張ったのはふだんは見向きもしなかった場所ではあるが、使ってみると周囲から隔絶されており、こうした大混雑のときには珍しくプライバシーが確保できる利点があった。
 そんな場所のサイトではあっても、通り道でもないのに平然と入り込んできてわれわれが食事をしているすぐ横を通り過ぎていくマナー知らずの連中の数に唖然とした。なるほど、これが8月のお盆キャンパーの特徴なのかもしれない。

■ 入れ替わっても大差なく
 彼らの半数近くが翌日には撤収して去った。入れ替わりに別のファミリーやらグループがやってきた。日曜日だけあって、子供の数は目に見えて増えた。喧噪はさらに増す。
 その日の夜、ぼくは自分のFacebookに夜景の写真つきで次のようなコメントを載せた。


昨夜は酔っぱらいのだみ声が満ちていましたが、今夜はガキンチョたちのわめき声がキャンプ場全体に響き渡っています。
興奮してしまうのはわかるけど、ケガ人が出ないといいのですがね。

 テントの数と喧噪はこの夜がピークだった。翌日には再びテントの数が減った。新たにきた人たちはあまりいない。大型連休であっても一泊か二泊、それがいまどきのキャンプの宿泊数なのだろう。子連れとなるとしかたないが、キャンプに身体がなじんでいくのは、実はここからである。
 ただ、フィールドに慣れていないと、ここからの疲れが加速する。まして、連休の帰路の渋滞を覚悟するとなると、いくら若くてもキャンプが苦行になるのは時間の問題だろう。

 めったにめぐってこないシルバーウィークは、幸いにしてずっと天候に恵まれた。それでも初日からの混雑に、今度は湯当たりならぬ人当たりで疲労困憊していた。
 もしかしたら途中から参加して二泊できるかもしれなかったキャンプ仲間の親友ユウキ少年のファミリーは、ユウキ君がキャンプ3日めの21日、サッカーの試合で自ら2点ゴールの活躍もあって4対0で勝利し、23日に準決勝があるのでキャンプは断念となった。


■ 今年の秋はどこへいこうか?
 この朗報をぼくは森を散歩中に彼のお父さんからメールで受け取った。ユウキ少年がきてくれたら連休最終日まで腰を据えるつもりでいたが、彼がこないと聞いて翌22日の撤収を決めた。彼のさらなる活躍とチームの優勝とを信じれば、早めの撤退に寂しさはない。
 森の中の逍遥からサイトへ戻ると、今夜は下界のレストランで従姉たちともども打ち上げをしようと提案した。むろん、そろそろ疲れも出ているからだれも「いやだ」とはいわない。

 撤収を終えた翌22日の昼過ぎのキャンプ場は、数えるほどしかテントが見えなかった。ちょっと未練はあったが、もう、気持ちはわが家へ向いている。
 毎年、このキャンプ場は10月の体育の日のころにその年の最終日を迎える。長い間このキャンプ場に愛情を注いでいながら、10月の体育の日のころの最終日にきたことがほとんどない。
 駐車場になっている広場で大きなキャンプファイアを焚いてしばしの別れを告げるこのイベントが、ぼくはどうしても好きになれないでいる。もっとひっそり楽みたいからだ。

 10月の体育の日は、たぶん、今年も別のキャンプ場で迎えることになるだろう。
 それにしても、去年の秋は台風や雨のためにキャンプを断念していたのに、今年は9月に二度もキャンプへ出かけ、うまくいけば10月と11月もいくことができる。
 寒さとともに、つかのまだが、静かなキャンプの好機がやってくる。


チョコパフェのコールマンなんて知らないよ

2015-10-04 00:01:22 | Weblog

■ わが家のアイスボックスの変遷
 クルマを使ったファミリーキャンプとなると、四季を通じてアイスボックスは必需品である。しかし、かさばる。だから、みなさん、いろいろ知恵を絞っておられるはず。
 ぼくがひとりでキャンプに出かけていたころは、アイスボックスなどいらなかった。キャンプでアイスボックスに保存した食材を使うような料理はやらなかったからだ。
 
 四半世紀前、女房がキャンプにくるようになってぼくのキャンプスタイルもいわゆる「オートキャンプ」に変わった。 
 そこで新たに買った主な道具類が、ガタバウトチェアー、スノーピークのフォールディングテーブル、モンベルのヘキサタープ、コールマンのランタン、ツーバーナー、そしてアイスボックスだった。ランタンはピークワン、ツーバーナーはコンパクト、アイスボックスは濃いグリーンのスチールベルトである。
 以後、嵐のように道具が増えていく。

 夏場のキャンプとはいえ、女房とふたりでの一泊や二泊のショートトリップだとスチールベルトのアイスボックスはいかにも大げさである。やがてやや小ぶりのプラスチック製のアイスボックスを買って、ふたりのときはもっぱらそちらを使っていた。同じコールマンの製品だが、保冷能力は格段に低かった。
 
 こいつでさえ、帰りのクルマでは邪魔になる。近年、モンベルの「ロールアップ クーラーバッグ」というのに変えた。25リットルだからじゅうぶんすぎるほどの容量である。キャンプの帰りは折りたたんで持ち帰ることができるはずだ。
 一方、スチールベルトは倉庫に放置したままでもう長らく使っていない。プラ製のほうは家で非常食入れになってしまった。

■ 久々の少し長めのキャンプだから
 モンベルのクーラーバッグの保冷力は期待以上だった。ただ、帰りはいつも何かしらが入って撤収後のクルマに積み込まれてくる。どうやら、「帰りはコンパクトにたたんで」なんていう想定は幻想でしかなかった。
 それでも、ソフトバッグだから積み込み時に柔軟性が多少あるというのは、かぎられた積載量のクルマだとやっぱりメリットといってもいいだろう。

 9月に予定した木曽を訪ねるキャンプは久しぶりの、わが家としては「やや長期」である。季節はまだ 夏だし、猛暑が続くかもしれないので10数年ぶりにスチールベルトを使おうと思い立った。中の空いたスペースにはほかの小物も入れればいい。
 
 クルマへの積み込みもあれこれ考えた。
 いつもは、現地のスーパーマーケットで買い物をすると、アイスボックスへの収納はキャンプ場へ着いてからにして、買った食料品を荷物の隙間に捻じ込んでいたりしてキャンプ場へ向かった。
 今回はせっかくスチールベルトを持っていくのだからとラゲッジスペースのドアを開けたすぐ前にアイスボックスを置き、買い物はすぐにアイスボックスにおさめようと考えた。
 
■ チョコパフェに追いやられる
 久しぶりにコンテナからスチールベルトのアイスボックスを出そうしていた矢先、わが家にコールマンのスチールベルトのアイスボックスが宅配便で届いた。しかも、見慣れない茶色、いわゆるチョコパフェである。女房の話だと、せがれがネットオークションで落札した品物だという。
  
 先日、ぼくがコールマンカナダのジャグを買ったとき、せがれがほしがっていたチョコパフェのジャグがあったので一緒に買って彼の誕生日祝いにしたばかりだった。
 それで調子こいて彼はチョコパフェのアイスボックスまで買ったらしい。ということは、9月のキャンプもこれらを持って一緒にくる気だということだ。
 ジャグなど一個あれば事足りる。つまり、ぼくのところへやってきたふたつの新しいジャグの出番はなくなる。
 
 チョコパフェなんて、こんな色のシリーズがあったことさえ、つい最近までぼくは知らなかった。これらはせがれが生まれ育った時代のコールマン製品である。
 まだ二十代から三十代にかけてのぼくはコールマンのキャンプ用品など高値の花すぎて興味すらなかった。野遊びだってできない時期でひたすら働いていた。いま、そんな時代のコールマンを使えるだけ、ささやかだけど、少し豊かになって、やっぱり幸せなのだろう。


「にじりマット」の威力は想像以上

2015-10-03 00:16:22 | Weblog

■ テントのにじり口にひと工夫
 9月のキャンプでデビューさせた新兵器の威力にぼくたちはビックリした。いいアイディアだと確信はしていたが、想像以上の威力だった。しかも、数100円の、どこでも手に入るありふれたバスマットである。
 なぜ、いままで気づかなかったのだろう。いや、すでに多くの方々が使っているかもしれない。

 テントに出入りするとき、テントの中に泥や小石を持ち込まないように、これまではグランドシートを敷いていた。当然、シート自体が汚れるし、あまり効果がなかった。わんこのルイのケージ用に買ったバスマットが期待したほどには調子よくないので、それをテントに入口に置いたらどうだろうとひらめいた。

 8月からの秋雨前線の影響もあってサイトは湿っている。マットを敷き、靴はその前に脱いで上がればテントの中へ泥や汚れを持ち込む確率は減る。マットが汚れても簡単にきれいにできる。
 さっそくホームセンターでルイのケージ用よりは大きいバスマットを買って持参した。運搬だってじゃまにならない。ぼくはキャンプ道具をルーフキャリーに乗せるので、クッション代わりに敷いてやればこと足りる。

■ テントの出入りが楽になった
 ちょうど、ぼくが左の膝を怪我していた。テントへの出入りで膝をつくと、従来のグランドシートではかたい地面をモロに受けてしまうが、やわらかいマットならまったく問題ない。
 女房がこのマットを「にじりマット」と名づけて笑った。出入りするときのにじりにこれほど便利なものはない。

 雨が流れ込んできても勝手に浮いてくれるし、もし、濡れてもひと拭きでにじりマットに戻ってくれる。これ一枚でテントの出入りがどれほど楽になったかはかりしれない。
 若い人たちには苦にならないテント出入りのにじりだが、歳をとるとこれがなかなかしんどいのである。怪我をしていなくても膝への衝撃が軽くなるから実によろしい。

 寒いとき、少々小ぶりだが、いざとなればシュラフの下に敷きこむここともできる。くどいようだが、安価だし、惜しげもなく使えるところがいい。
 つい欲を出して建築用の部材で適当なものがないか探してみたいと思っているけど、あまり大げさにするよりも、やっぱりどこのホームセンターでも手に入るバスマットがいちばんいいみたいだ。



奈良井宿を堪能する

2015-10-02 22:52:12 | Weblog

■ 期待せずに無心で対してみよう
 キャンプ二日目は、早朝こそ雨が残っていたが、すぐに青空が広がりはじめた。
 ようやく木曽路への旅を実現できることになった。候補地は馬籠、妻籠、奈良井だが、駒ヶ根からだと奈良井が近い。中央道を隣の伊奈ICまで走り、権兵衛峠道路を使って奈良井宿宿までクルマで1時間足らずの道のりである。
 馬籠と妻籠は10余年前に二度ばかり出かけているが奈良井ははじめてだ。宿場町という歴史的な価値はあっても、ぼくはさほど期待はしていなかった。いや、何を期待したらいいのかわからなかったといったほうが正しい。

 この旅で木曽路を目指したのは、目指したキャンプ場がたまたま木曽のエリアにあったからである。だが、はじめての奈良井はともかく、馬籠や妻籠まで目指したのにはほかに理由があった。数年前に仕事でお近づきになれた写真家の山口勝廣氏の木曽とそこに住む人々の息をのむような作品の数々に痺れっぱなしだった。
 かつて二度訪ねた馬籠や妻籠でぼくが感知することができなかったこの地の魅力が、山口氏の写真の一枚一枚に凝縮されていた。また、木曽へいってみよう。以来、ぼくはずっとそう思いつづけてきた。

 怖かったのは、「何も感じることができないかもしれない」という自分の感性の貧しさである。むろん、半日足らずそこを通り過ぎただけで何かがわかると思うほうが傲慢であろうが、まずは期待は抱かずて、可能なかぎり無心でその場に立ってみようと思っていた。何を期待したらいいのかさえ自分の中で整理できていなかったのだから。


■ 「木曽節」のふるさとへ
 木曽と聞いてぼくが真っ先に思い浮かべるのは、まだ、小学生だったころに東京駅にほど近いニュース映画だけを上映している映画館で見たモノクロの映画場面だった。たぶん、木曽の祭りを報じるニュース映画だったのだろう。木曽の杉林を撮ったと思える映像は逆光でよくわからないが、背後に流れる「木曽節」はいまも耳の奥にしみついている。

「きそのなぁ〜、なかのりさ〜〜〜ん、きそのおんたけさんはなんじゃらほい……」
 民謡がブームだった時代、さんざん聞き慣れた旋律だった。ステレオですらない時代、映画館にこだます歌声は、たしかに木曽の山に共鳴し、木曽川に反射して響いていた。ああ、これこそが民謡なんだ。幼いなりに、生まれた土地でうたわれる民謡の魅力に陶然とした。海に面した土地の民謡は、その地でうたわれるときに生命を吹き込まれるにちがいない。

 「民謡とは、古来、労働歌である」
 大学で日本文学を専攻したぼくは、万葉集の講義で担当教授のそのひと言に大きくうなずいた。「木曽節」もまさに材木を筏に組んで川流しする船頭さんの労働歌であり、あの地の地形を味方にして進化したに違いない。そう信じたのは、あのニュース映画で聞いた「木曽節」のおかげだった。


■ 町の人々のやさしさに触れる
 いまではクルマに標準搭載されたカーナビのおかげで目的地さえ指定すれば容易にそこまでいくことができる。奈良井宿も迷うことなく宿場町の手前にある駐車場へ到着した。場内には、かつて中央本線を走っていたのだろう巨大なSLが展示してある。駐車場へクルマを入れた人たちが、判で捺したようにSLをバックに記念撮影をしていた。
 ぼくの興味をそそったのはSLではなく、その前にたたずむ地蔵堂である。まずは旅の安全と天候に恵まれた幸運を感謝してお参りした。

 踏切りを渡り、宿場町に入って右折し、奈良井駅の方角へ歩き出した。馬籠宿と妻籠宿は、同じ木曽路の旧宿場町でも趣をまったく異にする。奈良井宿もまた、ふたつの宿場町にはない独特の雰囲気があった。
 なによりも、町に流れるのんびりした雰囲気が好ましかった。同じ木曽の旧い宿場町であっても、そこに住む人々の気質の違いがすぐに感知できた。なんという居心地のよさだろうか。

 宿場町を歩き切ってはじめて自分の位置がわかった。ぼくたちは奈良井駅にきていた。テレビなどで見る奈良井宿の出発点はいつも駅前広場である。振り返ると見慣れた奈良井の風景があった。
 ここへくるまでの間に、連れている犬のルイに二度、水を飲ませていた。町のそこかしこに水場が用意されている。帰り間際に知ったのだが、昔から旅人への心遣いとして、さらに火災への備えとしてこうした水場が置かれていると知った。この地の人々のやさしさを痛感する。


■ 旅の醍醐味は出逢いにこそある
 駅から戻りながら、お昼は相模屋という屋号の蕎麦屋へ入った。犬連れだったので、まずはぼくと女房がもり蕎麦を食べ、せがれと交代した。素朴だが、おいしい蕎麦だった。
 女房は、いつものようにどこかでお茶をしたいという。これまで目星をつけたカフェが二軒あった。勘を働かせ、その一軒「松屋茶房」で訊いてみると、われわれよりもだいぶ若いママさんが快く「どうぞ」とのこと。お店は180年前の建物で、かつては漆櫛問屋だったという。古色を帯びた雰囲気のあるお店ながら、なんともモダンである。

 ぼくたちのこの旅のすべてが松屋茶房での時間に凝縮されたといってもいい。それほどに素敵なママさんとの会話が刺激的で楽しかった。奈良井宿のあれこれを教わった。
 「お嫁にきたときは寂しくて嫌だった」と笑顔で述べるママさんの話は客観的で、誇らしげなところはなにもない。ご主人が写した四季折々の写真が収まったアルバムをめくりながら奈良井の魅力をたくさん教わった。

 「実は……」と、今回の旅のきっかけをママさんに話した。「ある著名な写真家の方の……」といいはじめると、ママさんが、「それって、もしかしたら山口さん? 山口勝廣さん?」と真剣な顔になり、あとは山口氏の話題で盛り上がっていった。
 すっかり長居してしまった非礼を詫び、ほんとうにおいしかったコーヒーとケーキの礼を述べ、ぼくたちは去りがたい気持ちを奮い立たせて松屋茶房をあとにした。

 
■ 山里の木曽なればこそ……
 奈良井にはもっと感じてみたいことがたくさんある。この地こそが、ぼくにとっての木曽路そのものである。「また季節を変えて出直そう」というぼくの言葉に、女房が大きくうなずいた。
 ルイがいるので、むろん、またキャンプ場からの旅になる。これもまたキャンプの楽しみのひとつである。

 翌日、一日切り上げ、このキャンプを打ち上げることにした。三泊四日の充実した夏休みだった。翌日も休みなので再度中津川ICから妻籠宿と馬籠宿を訪ねることにした。
 十余年前、妻籠宿で食べた栗のお菓子がどうしても忘れられなかったからでもある。はたして、そのお店が「澤田屋」であり、目当てのお菓子が「栗きんとん」という名であることも確認した。ほかのお菓子も買ってきて食べてみたがすべて絶妙の美味しさだった。

 とある蕎麦屋で、若干の不快な思いはあったが木曽路最後のもり蕎麦を妻籠で食べた。そのあと、馬籠宿へも足を伸ばした。どちらもそれなりの懐かしさはあったものの、奈良井宿で心に響いた温かみを感じることはできなかった。
 宿場の風景の違いなどではなく、そこに住む人々のやさしさに物足りなさを覚えたのである。奈良井のように、せめて行き交う人の渇きをうるおす水場があってくれたらと思う。おいしい水が豊富な木曽路であればなおさらである。