ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

すべては、今こうなるためにあったこと

2010-01-30 04:05:21 | 暮らしあれこれ
100127
久しぶりに善福寺川界隈を散歩。
…といっても、自転車で和田堀公園を抜け、
杉並区郷土博物館へ。

ずーっと気になっていたのが、昨年からの
「2.26の現場 渡邉錠太郎邸と柳井平八展」。
とっくに終わってしまっていたのだが
(渡邉邸の一部復元は来月20日から天沼の分館で展示されるそう)
2階の資料コーナーで、錠太郎の次女でノートルダム清心学園理事長の
渡邉和子さんの講演のビデオを見ることができた。

8年前、抗がん剤の注射を打ちに通う私に
聖路加の細谷亮太先生が渡邉さんの話をしてくれたことが
ずっと胸の奥に残っていた。
以来、本棚には彼女の著書『目に見えないけれど大切なもの』(PHP出版)が
いつでも取り出せるように置いてある。
渡邉和子さんといえば、2.26事件の証言者としても有名な方。
幼くして父親を目の前で殺されるという悲劇に見舞われた彼女が
今こうして修道女としてあるのは、
みな、あの事件すらも神のおぼし召しなのだと、
すべてを受け入れていらっしゃるすばらしい女性なのである。

事件当時、教育総監だった渡邉錠太郎氏が53歳のときに和子さんは生まれた。
母親は44歳。
年の離れた長女は嫁いで妊娠しており、数か月違いで子どもを生む予定だった。
世間体もあったろうが、「この子を産みたくない」という母親に
錠太郎氏は「男が子どもを産んだらおかしいが、
女が産むのは当然だから産みなさい」と言ったという。
「だから、私はそうやって生まれてきた子どもだったのです」と和子さん。
兄二人に嫉妬されるほど、それはそれは父親に可愛がられて育ったのだという。
反面、厳しい母とは確執が強く、「はっきりいって嫌いでした」と。

昭和11年2月26日の朝6時頃、
父親と並んで寝ていた彼女は表の騒動に気付く。
起きあがった父親は押入れを開けて拳銃を取り出し、
彼女に「お母様のところへ行きなさい」と言った。
それが、最後に聞いた父の声だった。
母の元に行くと、母は玄関から反乱軍が入ってこないよう防ぐのに必死で
和子さんが「お母様」と呼びかけても見向きもしない。
仕方なく、もとの部屋に戻ると、
かいまきを身に付け、拳銃を構えた父親は困った顔をして、
部屋の隅に立てかけてあった座卓の陰に隠れるよう目線で示した。
「最後まで父は、そうやって私を守ってくれたのです」
そのうちに襖が開き、機関銃の銃口が父親の足を狙う。
そして後から入ってきた青年将校二人の銃でとどめを刺された。
和子さんは、その一部始終を、座卓の陰から見ていたのだった。

錠太郎氏の体には43発の弾が残っていたという。
射撃の名手だったというが、機関銃に敵うわけがない。
9歳になったばかりの女の子が目撃せざるを得なかった惨劇。
大好きだった父親の肉片、骨片が散った血の海を眺める和子さんの
その心中はいかばかりだったか。
布団に寝かされた父の額に触れたときのひんやりとした冷たさ。
雪の上に残る血痕も目に焼きついています、と。
「いまでいうPTSDというものに私がならなかったのは、
やはり父に愛された、最後まで父に守られたという思いがあったからです」

なぜ、殺されるのが父でなければならなかったのか。
なぜ、最初の襲撃の後、事件の連絡が来なかったのか。
逃げようと思えば逃げられたのではなかったのか。
和子さんはずっと思い続けた。
「あの時、死んだのは父一人でした。
家にいた家族、憲兵たち、一人残らず無事でした。
それでよかったのです。父は逃げずに立ち向かったのです」

その後、ミッションスクールに移った和子さんは
それまでのおてんばな生活から一転、息苦しい学校生活が始まる。
18歳で洗礼を受けると決めたとき、母親は猛反対したが、
反目する娘は言うことを聞かず、意志を通してしまう。
「洗礼を受けても、ちっともあなたは変わらない、と
母に言われて悔しくて、この道を貫こうと決めました」
そして信仰一筋の道を歩む。

後年、処刑された青年将校の命日にお墓参りに行ったときに
その弟というひとに会い、
後日、自分たちこそが先にお墓参りに行くべきだった、申し訳ない、
という手紙をもらう。
「そのときに気付いたのです。
私は私たち家族だけが被害者だと思っていた。
でも反逆者という名を負わされた残された家族の方々もまた
被害者だったのだ、と」
憎んでも憎みきれない首謀者たちのお墓参りをきっかけに
長年のわだかまりは解けていったという。

「反発ばかりしていましたが、すばらしい母でした。
父亡き後、子どもを育てることだけが私の生きがい、と
公言してはばからず、実際、なんでもできた母でした」
次第に確執もなくなり、最後の10年は
母子水入らずの蜜月のときを過ごしたそうだ。

しかし、その母親が87歳で息を引きとるときに
海外に行っていた和子さんは間に合わなかったのだ。
「父の最期を唯一看取った私は、
母の最期を唯一看取れなかった子どもだったのです。
…そういう運命だったのでしょう」

「今、この事件のことを知る人がほとんどいなくなりました。
だから、この講演をお引き受けしたのです」
終始穏やかに、言葉を選び選び話し終えたシスター渡邉は
静かに椅子に腰を下ろした。

ほんの少しのつもりが2時間近く!
入場料100円のすばらしい時間でした。