ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

32年前、九死に一生を得た。

2020-04-30 00:57:58 | 暮らしあれこれ
200429.tue.

本日午後は、海山友達とオンライン飲み会。
まず、簡単でよさそうだというアプリ「たくのむ」で2時間。
最初はスマホで参加したが、雑音がひどいので、途中でPCに移動。
ついでに背景も変えられるようにしたので、
私のバックは青空になったり、近未来都市になったりお魚が泳ぐ海の中だったり。
でも途中から、一人の声しか聞こえなくなってしまい、
通訳してもらいながらの2時間はあっという間でした。

さて、ウォーキングでも行こうかと思ったら「二次会しないの?」と、S氏の悪魔のささやき(^^ゞ
気配り漢幹事のOさんから、早速zoom で二次会の招待がきた!
zoom のほうが画像も音声も安定していたせいもあって、結構話が弾むものですね。

そこで出た話題のひとつが、
「そうだ! 32年前の今晩、私、中央高速ですっとんで生還したんだった」という話。
上京以来40年、当然のように帰省しているはずのGWに
(まあ、だから事故もその日だったんですが)
新型コロナ禍で想定外に大変なご時勢だとはいえ、
東京で呑気にオンライン飲み会ができているのはありがたいものだなあ、などと思ったことでした。
命あっての物種、ですね、本当に。

以下、13年前のblogより。
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1988年4月29日深夜~30日 

19年前の今、この時間、私が何をしていたかというと…、
駒ヶ根市営病院のICU(集中治療室)で横たわっていた。

日付が変わる頃だったのだと思う。
雨が降る中、翌日の友人の結婚式に出るために
東京から南信州の実家まで中央高速を車で帰省中だった。
なぜ夜中だったかというと、
前日(当日か)も赤坂プリンスで友人の結婚式があったから。
私は26歳。前年の11月に結婚したばかりで、
今思えば、同級生は皆、結婚適齢期まっさかりだったのだ(笑)。

駒ヶ根から15分ほど、松川インターで降りれば、すぐに実家に着く。
乗っていた車は夫のメタルブルーのセリカGT-R。
リフトバックの3ドアクーペ。
諏訪まで夫が運転してきたが、そこから弟に代わり、
私はずっと後部座席で、たぶんその時間は荷物に寄りかかって
ウトウトしていたのだと思う。

突然、車が揺れる感じがして、何か叫んだような気もするが、
そこから先は記憶がない。

気がついたのは、ICUの中。
天上も壁も真っ白。「ここは、どこ? 私は何をしているの?」
「事故にあったんだよ。大丈夫だよ」と母の声が聞こえて、
「わかった」と答えようとしたが、声にならない。
というか、からだの感覚がない。周りもよく見えない。
痛いのか痛くないのか、眠いのか眠くないのか、全くわからない。
それから数日の間に手術が行われ、術後の様々な処置をされたときには
痛いという感覚が少し戻ったような気もするが、
病室に移ってしばらくするまで、
一体自分の身に何が起こったのか、本当に理解できないでいた。

当時の中央高速は、スパイクタイヤ規制がされておらず、
スキーシーズンの間に道路はかなり削り取られていた。
ゴールデンウィークにはまだ春スキー客もいるため、
道路の補修工事はまだ先といったところで、
雨が降れば道路に大きな水たまりができるという状態だったのだ。

そんなところに、弟の運転する車は突っ込んでしまった。
慣れないスポーツカーを操り損ねて、
急ブレーキを踏んでしまったため、
ハイドロプレーニング現象が起きたのだった。
ハンドルもブレーキもきかず、スピンしてガードロープへ激突。
(これがもしガードレールだったら、助手席の夫は即死だったそうだ)
しかし、ロープだったため撥ね返されて、
次は後部座席から中央分離帯へ衝突。
その衝撃で、リフトバック式の後部窓ガラスはすべて割れて落ち、
ぽっかり開いた窓から、反動で私は投げ出されたのだった。

ようやく止まった車の中で、幸いにも無事だった夫と弟が
後ろを振り返ると、いるはずの私の姿が見えない。
そのときの驚きと恐怖は今でも忘れない、と夫は言う。
警察や救急車が来て、総動員で探しても私は見つからない。
真夜中、雨の振る中、1時間…。
本当に神隠しにあってしまったのかと誰もが思ったそのとき、
反対側の車線のガードレールの下に、
靴が片方落ちているのを夫が見つけたのだった。
車の走行が途切れた隙に反対側に渡って、探してみると…、
道路の先の土手に、私が倒れていたのだそうだ。
血まみれで。
「大丈夫か?」といって手を握ったら、握り返したというから
意識はあったのだろう。その記憶は、まったくないのだが。

右下顎を2か所、鼻骨、左頬骨骨折。
右人指し指の腱切断。裂傷、打撲傷多数。

形成外科、整形外科、脳外科、耳鼻科、口腔歯科…、
私の傷に関わる医者がかわるがわるやってきては、
「奇跡だ」という。
「普通なら助からない。30メートルも跳んで落ちたのに」
「顎から落ちてよかった。顎の骨は尾てい骨の次に硬いんだよ」
「打ち所がよくても半身不随だったろうに、よく生きてたねえ」
「不死身だ」

などなど、自分に起こったことなど、
いまだよくわかっていなかった私に向かってよくもまあ、
好き勝手なことを言ってくれたものだ(笑)。
おかげで、そうやって、だいたい状況を理解していったのだが。

細い針金を歯の隙間を通して固定する
「顎間(がくかん)固定」をひと月半。
(数年後、権田原でバイク事故を起こした北野武氏が
同じ治療をしていたのを懐かしく思ったものだ)
その間に、顎の筋肉がすっかり落ちてなくなり、
針金を外した(これが一番痛かった記憶)後、
指1本も入らないほど、口が開かなくなっていた。
(これのリハビリが大変だった!)

口からものが食べられないので、みるみるスリムになっていった私。
顔中包帯を巻かれた私に、誰も鏡を見せてくれなかったため、
ことの重大さを本当にわかっていなくて、
加害者と被害者を同時に抱えてしまった両親のことを思えば
申し訳ないが、元気な怪我人だったのだった。

ちょうど仕事も面白くなり始めたときで、休むのがいやで心配で、
一刻も早く復帰したくて、2か月半後には復職。
途中何度か小さな手術もして、体の様々なところが完治するまでには、
1年半はかかったと思う。
大変な事故だったということをようやく理解していったのは
退院後だった。

駒ケ岳の真ん前で事故に遭ったのは、意味があることだった。
助けてくれた人(生きている人間ではない)もわかっている。
今、生きていること、生かしていただいていることに
感謝する日々なのである。
     (2007年04月30日03:51 mixiにて記載)

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