ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

旅立つ準備

2021-02-15 11:17:42 | 暮らしあれこれ
210203.wed.

それは見慣れた流れるような筆跡で、
まるで近況でも書かれているようなお手紙だった。

「無常の風は時をきらわず、といわれますが、いつしか我が身にもその時が来てしまいました。
 このお手紙をお手にされているあなた様、
 この度は私の葬儀におでかけくださいまして誠にありがとうございます。
(中略)現身としてのご挨拶はできなくなりましたが、遥かにあなた様の声なき声をお受けし、
 私も声なき声でお応えして、永遠の旅路につくことにいたします。(後略)さようなら。」

今年も年賀状をいただいたばかりだった。H先生は14年前に脳梗塞の疑いで入院。
それがヘルペスウイルスが原因の脳炎だとわかるまで10日がかかり、
結局はそのまま重い障害を負ってしまわれたのだった。
年賀状はいつもご主人様の代筆だったけれど、震えるような自筆の署名を見ると、
よくなられてきたとホッと安心しつつのこの年月だった。

最後にお見舞いに行ったのはいつだったろう。
転んで骨折したと聞いて駆けつけた横浜のリハビリ病院で会ったとき、
あの華奢で少女のように可憐だった先生のお姿とはあまりに違い過ぎていて、声を失ってしまった。
曇天の晩秋の日だった。長い入院生活で、言葉も少なくなっていたけれど、
ベンチに座って少しお話しした。
淡いピンクの部屋着がお似合いだなと思ったこと、
少し離れてご主人さまがそっと見守っておられたこと、
ガラスの扉越しに手を振って見送ってくれたこと、
そんなことがふわっと蘇ってきて涙が止まらなくなった。

また働き過ぎているんじゃないの? 
ちゃんと寝てますか? 
小坪の母が見てるわよ。

電話口でもお手紙でもいつも気遣ってくださったH先生。
鈴の音のような柔らかな声で、でも仕事は厳しくて、
家事研究家としての文章は細やかで的確で、いつも感謝するばかりだった。
2年前に101歳で他界された家事評論家の吉沢久子先生のことを尊敬して、
親しくされておられたことも思い出す。

逗子市小坪のご自宅に仕事以外で伺ったこともあった。
よく弾かれてたというピアノ、家族の写真やお花がたくさん飾られていた温かい空間。紅茶の香り。
あ、いつだったかお土産に持っていった私のお気に入りの健康茶が
「苦くて苦手よ」といわれて、笑ったこともあったっけ。
短歌を始めましたと手紙を書いたときには、すぐにご自分の好きな万葉集の数首が送られてきた。
時折り思い出したように送ってくださったH先生もご愛用の日本橋榛原の便箋は、
最後まで使い切るのがもったいなくて、少しだけ残してある。

言語障害、嚥下障害を併発し、幾度かの骨折を克服しながら入退院を繰り返し、
それでもご家族で旅行も楽しまれていたようだ。
昨年3月からコロナ感染防止のため、入院していた病院は全面面会謝絶。
リモートでの面会も始めていたようだが、
この1月8日にはご主人様と10か月ぶりの直接面会をする予定だったという。
なのに、なのに、その5日前に、80年の地上での務めを果たしたように
苦痛もなく安らかに天国へ旅立たれたと、ご主人様の手紙に綴られていた。

H先生は病気になる前から自らの葬儀についてと
葬儀に来られた方々へのお別れの手紙を遺されていて、
亡くなられたあと、それが金庫から見つかったのだそうだ。
驚きと愛する妻に対する尊敬と感謝の念、ご主人様のお気持ちが手にとるようにわかった。



「わたしの葬儀
キリスト教式で簡素な式を望みます。
讃美歌は405番、452番(故人愛唱歌)
供花、供物、花料は一切頂戴しないよう固辞してください。
私は花が大好きですから、祭壇の飾り花はなんでも自由になさってください。」

またH先生は、参列者と遺族が芳名録と挨拶状、お香典返しのみの関係で終わっている
昨今の葬儀のあり方が残念だと感じておられたようで、
「特別なお願いとして、参列者に葉書を渡し、
それに故人との関係と思い出を書いて送っていただき、遺族が読めるようにしてほしい」と。。。

ああ、、、H先生らしいな。
はい、そうします。早速ご主人様にお手紙書きます。
H先生、小坪のお母さん、
どうかどうか天国で安らかにお眠りくださいね。
さようなら。

昨秋から、大好きだった方が次々と旅立っていかれる。
そして昨日の晩、以前お世話になった某誌の編集長の訃報も聞いて、
ちょっとがっくりきています。

本日、立春。


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