ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

動物はかわゆし たのし

2011-09-08 13:05:57 | 美を巡る
110907.wed.

朝、先月の句会記録の整理をしていて、
9月のファイルを作りながらふと思った。
まだ、9月、じゃない。
あと4か月もある。今年。
十分な長さでしょう。
今週はやけに時間が過ぎるのが遅い。
今日はまだ水曜日でしょ?
(やらなくてはいけないことは山ほどあって
 遅れている仕事が常に頭の中に引っかかっているのですけどね)

我ながらポジティブシンキングだわ。

窓の外は9月の青天。
気持ちのいい朝。


午後、もう今日しか行くときはない!と思いたち、
恵比寿の山種美術館へ駆け込む。

「日本画どうぶつえん」 2011.07.30-09.11

夏休み企画と名打たれたただけあり、
「動物園」「鳥類園」「水族園」「昆虫園」と
4つのコーナーに分けられた展示が非常にわかりやすい。

まあ、こんなに愛らしい小動物たちの前で
高名な日本画家たちはなんと温かい視線を向けて彼らを描いていることか。

私の興味は動物より、大好きな奥村土牛さんが
何を描いていて何が出品されているのか、ということだった。
いますいます。
顔が三角の仔犬(戌)にシャム猫、ふわふわの兎、黒兎、伸びやかな小鹿…
(なぜか日本画だと、動物名は漢字が似合う・笑)。


有名すぎる土牛さんの白い牛(「聖牛」)は好きだけど
ちょっと手が伸ばせない感じ。
それに比べて、絵の大きさ的にも、対象の身近なところも、
他の画家達にも言えるが、今回はとてもいいセレクトだと思う。
啄木鳥の絵がよかった。
やっぱり品が違います。
それでいて目にしても手足の描き方にしても
どことなく愛嬌があって、
これら小動物たちに注がれた愛情があふれんばかり。

「三日三晩対象を見て写生するのは当たり前。
 それ以上写生しなくては物は見えてこない」
といっているのは上村松篁。
「これでもかというほど写生をしたものほど
 描く線は少なくていい」とは竹内栖鳳。

日本画の場合、どうしても対象物は花、植物が多くなってしまうが
こうして見ると、ずいぶん多くの動物が画布に残されている。
モデルのようにじっとしていず、ちょこまか動くし、難儀なことだとは思うが
どれもそうやって想像を絶する時間の中での写生があってこその作品なのでしょう。
でもやっぱり、花とセットの絵が多いですね。


(左)竹内栖鳳「斑猫」(重文)前期展示のため見られず残念!
(右)福田平八郎「鮎」涼やかで美しい~!。美味しそう、なんて思ってはいけません。

横山大観「「叭呵鳥」の存在感は見事。
淡い緑青の葉に同化するように水墨の鳥がいる。上目遣いでどこを見つめているのか。
これがまた、ずうっと立っていられるほどの吸引力。


徳岡神泉「緋鯉」
なんというか、他の絵と違い象徴画のよう。幽玄の世界へようこそ。

いちばんかわいらしかったのが
竹内栖鳳の「鴨雛」。
遊び疲れて、お腹一杯になった雛達の油断しまくりな肢体が素晴らしい!

これを見て、スージー・ズーを思い出したのは私だけ、でしょうね。(笑)
竹内画伯、失礼しましたっ!
  ※ちなみに右は昨年作った本です。

鎮魂

2011-09-08 03:35:13 | 美を巡る
110822.wed.

現代能楽集Ⅵ『奇ッ怪 其ノ弐』(2011.08.19-09.01)を
世田谷パブリックシアターにて観劇。

舞台装置がまず奇妙だった。
舞台の上に一段高い舞台が設置されていて、
後方へ向かうにしたがって高く狭くなっている。
その舞台にはどうやら穴がいくつも開いているようで、
開演前から白いマスクをかぶった「ひと」達が
時折りそこからヌッと姿を現しては、ふら~りと消えてゆく。

死亡者も出たというある事故が原因で
廃墟となった村の神社を舞台に、
8人の役者の劇中劇で物語は展開する。

神社を継がずに村を出て数年ぶりに帰省した息子と、
住職もいなくなった神社に住みついている男。これが仲村トオルさん。
温泉の出るこの土地の再開発を目論む業者と地質学者。
彼らがかわるがわるに、他の役に成りかわって
過去へいき、場所を変え、この世の人ではないものになったり、
死んだ子を追い求めたり、妻を追い込んだ自責の念にかられたりするのだが、
それらが非常にスムーズに流れるので、
そのときどきの設定に自然にスッと入っていって理解できる。
不思議なのは、白い面(おもて・マスク)をつけた人が
どこかに必ずいること。
これは、この世に生きていないひとということのようだった。
いずれにしても、共通しているのは
コミカルな演技だったり、シリアスな表情を見せたりするなかで
必ず「生きているひと」が「死んだひと」のことを考え、悩んでいること。

いくつかの劇中劇をこなしながら、次第に物語は
ここに集まっていたがために多くの村人が死ぬ原因となった村祭りの場面へ。
そして、跡取り息子は、自分が今まで話していた業者も地質学者も
実はこの世にいない人なのだと気づく。
では、境内に済んでいた男はいったい誰?

仲村トオルさんは実にさわやかにドライに謎の男を好演。
つい、「ぐっち~」(TVドラマ「チームバチスタ」より)なんて
せりふが出てきやしないかと思うとおかしくて。(笑)

このお芝居が、能とどう関係するのだろうと
観ながら考えていたのだが、白い面を被っているということ?
彼らの動きが能役者のように緩やかだったこと?
この不思議な舞台設定?

舞台監修は狂言師の野村萬斎さん。
作・演出は、これまで小劇場場ばかりだったので、
この大きさの舞台では勝手がわからなかったという前川知大さん。

終演後の2人のトークで、前川さんが言ったことは
この舞台の主題は「鎮魂」です、と。
彼が今回の「現代能楽集」シリーズで初めて意識したという
「能」から取り入れたのは
死んだ人が生きている人に語りかける手法。
それって、死んだ自分の言いたいことを聞いてもらうことで
魂を鎮めていることではないのか、と彼は言う。
最近、自分もあるレストランで、
何度呼んでもオーダーを取りに来ない店員にイラついた瞬間、
隣の席の見ず知らずの中国人の女の子の
「わかっているわよ」という笑顔に出会い、
即座に癒されたのだそうだ。
「彼女の笑顔によって、僕の魂は鎮魂されたのです」という言葉に
笑いながらも、共感した観客は多かったのではないかしら。

戦後66年目の今年、戦死した祖父のことを妙に意識したり、
3月11日の大震災による犠牲者のこと、
残された人々の気持ちの持って行き場のことを考えたりして、
「鎮魂」という言葉が私の中でいつになく浮きあがっていたことは確か。
夏の夜、自らの魂の置き場所など考えてしまったひとときでした。

ああ、そうそう、不思議な舞台の上のほうは
能舞台の橋掛りをイメージしたのだそうだ。
あの世とこの世を結ぶ道。
たしかに、この舞台の死者達は、皆あそこから現れていたっけ。

終演後にしずしずと登場した萬斎さん、現れ方が、というか
存在が狂言そのもの。穴から出てきたわけではないのに。(笑)
8月3日に八ヶ岳で薪能に出られたのを観たばかりだったのも手伝って
http://blog.goo.ne.jp/ezn03027/d/20110804
この方はやはり異世界をつなぐ場所に立っていらっしゃると思ったのでした。