ことばを鍛え、思考を磨く 

長野市の小さな「私塾」発信。要約力、思考力、説明力など「学ぶ力」を伸ばすことを目指しています。

退化する感覚

2007年02月14日 | 学習一般
先月書いた里山の古民家だが、4月から暮らせるようにいささかのリフォームを検討中。
もちろん流行の「古民家再生」ほど大がかりなことはできないので、最低限の補修+αくらいのものだが...。

隅の方の雨漏り箇所のトタンを張り替える。
アルミサッシになっている所も多いのだが、何カ所か残っている木枠の窓もすべてサッシに交換。
居間(10畳)の畳だけは新調したい。
脱衣所を通らないとトイレに行けない構造を、ちょっと直して使いやすく...。

と、ここまでで150万はかかりそうだ。
他にも直したい所はいくらでもあるが、きりがないので自分でできる所はDIYで頑張りたい。

冬に備えて寒さ対策はしっかりしたいところだが、やたら隙間が多い。
板壁や戸や軒下や...。
アレレ?ここのフスマがないぞ...。

外と障子1枚で隔てられているだけの所もあり、そのそばで寝ていた形跡が...。
寒くなかったのだろうか...。

現代風のいわゆる「高気密」住宅とは月とスッポンほどの隔たりがある。
夏は涼しそうだが...。
そう言えば、かの兼好法師も「家のつくりやうは、夏をむねとすべし」と言っていたっけ...。

そんなことを考えていた折、ネットである文章を見かけた。
細かい表現は忘れたが、大旨次のような内容だ。

「夏の暑さ、冬の寒さを感じなくていいのか。ひたすら快適さだけを求めて高気密・高断熱で床暖房...。冬でも家中暖かい。たとえば夜中にトイレに行くときには1枚羽織って行くというように、自分で調整する必要がほとんどない。そんな暮らしでいいのか。」

自らの感覚を頼りに自分で判断し、着る物を決めたり暖房を調整したりという当たり前の行動が、苦手になってきている日本人が多いのではないだろうか。
私もつい、着ていく服の選定に天気予報の最高気温や最低気温を参考にしてしまう。

幼い頃から快適な環境に慣らされている子どもたちは尚更だろう。
先人が持っていた生きるための様々な感覚は、便利な世の中になればなるほど退化して行くに違いない。
頼りにできるのは他の人や機械によるセッティングと情報だけである。
「あるある」の捏造に簡単に踊らされた日本人を見れば、その「自信(=自身)のなさ」がよくわかる。

不二家の賞味期限問題も、初め耳にしたときは、私はそれほど悪いことだとは思わなかった。
そもそも「賞味期限」や「消費期限」はお役所が機械的、画一的に定めたものであり、それを1日過ぎたからと言って品質が悪化しているとは限らない。
製造に携わった人は、自らの嗅覚や味覚で大丈夫と判断したのではないか?

大量生産の現場では、そういう「職人」は必要とされていないのかも知れない。
まだ十分に食することができても、期限を1分でも過ぎた物は廃棄処分にするのが正しい対応なのかも知れない。
しかし、本当にそれでいいのか...。何か間違っていないだろうか...。

本来保存食のはずの干し柿や新巻鮭にも「消費期限」が明示されていると言う。
感覚が退化してきたから期限表示が幅を効かすのか、期限表示があるからそれを頼りすぎて感覚が鈍ってくるのか...。
私は後者の方が強い気がしている。

どうも今の世の中のシステムは、地球に優しくないだけでなく、人類を滅亡の方向へ導いているものが多いと思う。
清潔を追究するあまり、ちょっとの菌にも脆くなったり...。

地球環境のためにも、生きる強さを身につけるためにも、ここらで大きな発想の転換が必要ではないか。
子どもたちには外遊びや手伝いを通して五感を鍛え、自らの判断に自信と責任を持てる人間になってもらいたいものだ。


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