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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

人は情報からできている?

2004-12-31 13:37:59 | デジタル・インターネット
book1ある若い女の子が「人は本からできている」と突然言い出し、真意を尋ねたことがある。彼女曰く、誰もが持っている考えや言論は、もとを正せば「本」に書かれていることだというわけだ。確かに教科書や新聞などの活字全般やテレビメディアなどの音声、視覚を含めて、人は何かから学びとる。研究者であっても持論の形成、発見・発明の過程においても何らかの文献が礎として貢献している。さらには世論の大部分はメディアが形成する。文献やメディアなどを総称して「情報」と位置づけるなら、その役割と価値、責任は大きい。

日本では地震がくると、地震そのものの規模が小さくても、必ず津波情報が流される。津波は国際語にもなっている。それだけ日本人は津波の脅威にさらされているにもかかわらず、地震の頻度ほど津波はやってこないものだから、言葉から受ける恐怖感は希薄だ。海が近くにない地域に育った者にとっては尚更。つまり情報は、実感を伴わないと受け流してしまうリスクも伴う。大量に溢れている情報のすべてを把握することは不可能に近い。一人一人の生活者に、発信する情報がどれだけ正確に深く浸透しているかということになると、かなり心許ない。個人が考える力を放棄すれば、情報は素通りする。

また、それ以前に情報に触れることをやめればどうなるのか。日本がかろうじて知的水準を高く維持している功績の一つに活字文化、産業が発達していることがある。特に新聞の宅配率はずば抜けている。アメリカ76%、ドイツ64%、フランス51%、イギリスはわずか13%というなか、日本は94%もの高率である。新聞が万能だと思わないが、それでも国民のほとんどが毎日活字で新たな情報に触れている知の蓄積はバカにできない。しかしそれも今では徐々に新聞を読む人が減り、ネットメディアが台頭している。さらには将来的にPCが縮小し、PDAに完全に取って代わられるといわれている。確かに今の大学生、ケータイは完璧に使えても、PCを満足に扱えない人も多い。PDAの小さな窓から、人はどれだけの情報量を吸収できるのだろう。そしてその情報は人の思考と有機的に結びつくことができるのか。

明日から2005年。新たな年が安穏と生きられる時代とは思えない。情報を吸収し、それぞれの人のアタマで考えることを拒絶しても幸せでいられるほど、平和な世の中でもきっとないと思う、残念ながら。



スープストックでカレーライス

2004-12-30 12:48:49 | まち歩き
soups1事務所の掃除を済ませて、昼食のためにコレド日本橋まで歩いた。黒坦々麺(文琳茶菓舗)も魅力的だったが、クリスマスから原因不明の胃もたれ感がありパス。結局「スープストックトーキョー」へ。スープ好きなので、この店には時々入る。定番の東京ボルシチが好き。結局私はオーソドックスなスープセット(レギュラーカップのスープ1種+白ゴマごはん)にした。

食べながらふと周囲を見渡すと、ほぼ満席の店内、見事にすべて女性客。そしてその8割くらいがスープではなく、カレーを食べている。私が知っている限り、カレーメニューがあるスープストックは日本橋だけなのだけど、最近は他でもやっているのかな?ここだけだとすれば、珍しさも手伝っているだろうし、サフランライスの鮮やかなイエローも食欲をそそる。でも…。

スープ専門店は10年近く前に欧米(・・・って、日本ではすぐに一括りにしたがるが、アメリカの都市部とヨーロッパのほんの一部だと思う)で人気が出て、今から6年くらい前に日本にも上陸。しかし結局定着したのはスープストックくらいではないか。スープストックのターゲットは働く女性なのだと思う。実際出店場所を見ても、丸ビル、オアゾ、四谷アトレや有楽町、カレッタ汐留など、狙いを定めている感じ。でも実際、女性は間食にスィートを食べたり、スタバでお茶をしても、スープは飲まない(しかも飲むスープというコンセプトではないし)。朝は家で済ます。そうすると利用時間帯はランチタイムに集中する。

自分が会社員時代を思い起こしてみると、普段は少食だの何だの言っている女性も、ランチは結構みんなガツンと食べている。男性より食べている。既婚男性は限りある小遣いを昼食に使いたくないというのもあるし、楽しみを終業後の酒席にとっておきたいというのもあるだろう。半面女性は、家庭を持っていれば唯一自由に楽しめるのがランチだし、予算的余裕もある。早い話ランチへの思い入れが男性より強いわけだ。だからスープでは物足りないのではないか。余談だが、テイクアウトの場合は、スープを頼むみたい。手作り弁当やパンのサイドメニューなのだろうが、それには割高感があるのがちょっと残念。



美容整形外科の敷居

2004-12-27 02:49:31 | コスメ・ファッション
少し前に中国で整形美人コンテストが開催されたというニュースが流れた。コメンテーター(当然日本人)が顔をしかめながら、「自然がいちばん美しい」などと発言をしていたが、確かに日本ではまだ整形に偏見を持っている人が多いということだろう。偏見を持つ人は、「美容整形=顔を変える(誰だかわからないくらいに)」という認識だろうが、今時そんなベタな利用をする人を方が少なく、脱毛やケミカルピーリングプラセンタ注射大腸洗浄など、エステティックサロンとの境界線が曖昧な領域を美容外科で受ける人が増えている。それだけ美容外科の敷居が低くなったということで、マーケティング戦略の賜物でもある。表層的な面だけを見ても、インターネットで「医院」と検索すると、高い割合で美容外科やそれに準ずる診療科の医院が出てきて、サイトのレベルも高い。実際に医院に訪れても診療室や待合室の環境、ホスピタリティは優れており、プライバシーはほぼ守られている。

そんなこと病院なら当たり前だと思うかもしれないが、その他の診療科ではオフィシャルサイトすら持っていない医院も多い。ある産婦人科(著名な総合病院)では、待っている患者から丸聞こえの場所で問診をされた経験もある。病院サイドからしてみれば、儲かる自由診療と保険診療の違いだというかもしれないが、患者にしてみればまったく関係ない話だ(正直健康な人間からしてみれば、日々の保険負担の方がつらいくらい)。今後は個人情報保護法案の施行などで、医療現場も厳しくなり、多少は是正される見通しはあるが、そんなことは法律の問題ではなく、個々の医療法人のセンスの問題だと思う。

話を美容外科に戻すと、顧客からしていれば、いったん抵抗がなくなると、むしろ医療行為であるということが安心材料になる。資格というお墨付きの威力を発揮するからだ。それでも現在はまだ若い世代(二重とかプチ整形とか…)が患者の大部分を占めているらしいが、今後は中年以上の女性のアンチエージング分野が伸びる可能性があり、既にその兆候は見えている。余談だが、一定の年齢以上の人にはプチ整形はあまり関心を持たれないような気がする。だって、数ヶ月でリバウンドするんじゃもったいない(って、私だけ?)。



おせちとお歳暮の明暗

2004-12-24 01:32:36 | ニュース
osechi

いわゆる出来合いのおせち料理の売上が現時点までの予約だけで110億円に達しているという(百貨店、コンビニ、スーパーなど大手16社:日経新聞12.23)。前年比では10%増。
(余談だがお約束の「韓流おせち」なんていうのも登場している。紅白のキムチって…。)早い話家庭でおせちを作らなくなった末の現象で、嘆かわしいと思う向きもあるかもしれない。でも本当におせちが不要なら、正月も普通の食事をすれば良いわけで、元日からスーパーが開いている時代に日持ち云々の都合もないはず。でもやっぱり日本人は正月を家族や親しい人と一緒に迎え、その中心におせち料理を置いておきたい。それが新たな年を迎える日の幸せの原風景。少なくともそこには心がある。だから「おせちを作る」ことは廃れても、おせちは残る。

お歳暮はどうか。こちらは年々売上が落ちている。中元歳暮が売れなくなっていることは、時代の趨勢として仕方がない。法人間では禁止を明文化しはじめた企業が出てきている。お達しが来ていない場合でも、迷惑かもしれないものを贈るのは躊躇する。プライバシーやセキュリティの強化、メールの発達で、個人宅の住所を知ることは至難の技。個人間では結婚式に仲人を立てるカップルが激減している。昔は中元歳暮=仲人に贈るものだった(ちょっと極端だが)。今は贈る相手のトップは「両親」だが、基本は結婚・独立後に離れて暮らす双方の両親に贈るということ。別に毎日顔をつき合わせている相手に贈っているわけではない。結婚そのものが減っている(晩婚化している)のだから、両親への贈答も減っているはず。

以前に「三越の包装紙」でも触れたが、今でもデパートにとって盆暮れの贈答は最大商機である。だからいろいろな方策で、この習慣を廃れさせないように努力をしている。どこのデパートでも行っている標準サービスでは、一度贈ると贈った相手の住所・氏名と贈った商品がリストになって送られてくるというものがある。これは本当に便利なのだけれど、冷静に考えたら「贈る心」とは遠いところにある。本来は大切な相手に贈るのが贈り物であって、その相手は半年経って忘れるものではないし、住所と名前を書く手間を惜しむものでもないはず。

結局、おせちとお歳暮の明暗の源は、習慣が人の心にどれだけ深く根ざしているかどうかで、デパートの戦略が間違っているわけではなくて、ビジネスとは少し離れたところで決まるような気がする。



散髪屋のシェービング

2004-12-23 00:09:26 | コスメ・ファッション
face日経新聞夕刊にある執筆者が「美容室はマーケティングをしているが、散髪屋は旧態依然としている」というような趣旨のエッセイを掲載していた。カリスマ美容師だの、テレビでのショーアップ、タレントとの交遊録、ヘア担当実績などをリリースアウトして、ポジショニングもサービス料金も上げてきたが、理容室は何もせずに衰退しているというわけだ。

私は髪を切るためにはサロンにしか行かないので、理容室の細かなことはよくわからない。確かに男性でも美容室に行く人が増えているし、理容師になろうとする人も、理容室の数も減っている。ただ、まったくマーケティング的な動きがないかといえばそうでもない。私自身ももう何年も前から数ヶ月に一度、理容室に行っている。シェービングをするために…。日本語で言えば髭剃り、いや、産毛・ムダ毛剃りだ。流行り始めの頃、これを「シエステ」(シェービング+エステ)と呼ぼうとしていた向きがあったが、「レディースシェービング」の方が内容がよくわかるし、ダサくないということで後者が定着したようだ。周知の事実だが、美容師資格では顔剃りはできない。そこに理容室が目をつけた。

初めて私がレディースシェービングに行ったのは池袋の某理容室で、ここは1回きりでやめてしまった。順番を待つ場所が理容室の一角で、仕切りがないのだ。スタッフ(男性)、設備も同じでまったく落ち着かない。次に行ったのはラヴィーチで、ここは理容室と隣接しているが、レディースサロンが入口を含め完全に分離していて設備やインテリア、店名も異なる。以前は赤坂にあり、今は有楽町に移っているが、ずっと通っている。スタッフはすべて女性で、ただ顔を剃るだけでなく、価格に応じたフェイシャルケアサービスもしてくれる。

別にシェービングサービスがすべてではなく、理容室にもまだまだ女性向けのサービスの可能性もあると思う。低価格で前髪だけを切る、シャンプーだけをするなど、予約優先の美容室では受けにくいサービスの需要もある(今でも行われているサービスだが)。寝たきりや外出ができない高齢者向けに出張サービスもある。新潟の被災地では理容師・美容師のボランティア活動がクローズアップされた。ヘアケアやそれに付随するサービスは、衣食住に比べて必需的価値とは思われていないが、実は人の心が生きるうえでとても大切なことで、大切な仕事だと思う。