
日本では地震がくると、地震そのものの規模が小さくても、必ず津波情報が流される。津波は国際語にもなっている。それだけ日本人は津波の脅威にさらされているにもかかわらず、地震の頻度ほど津波はやってこないものだから、言葉から受ける恐怖感は希薄だ。海が近くにない地域に育った者にとっては尚更。つまり情報は、実感を伴わないと受け流してしまうリスクも伴う。大量に溢れている情報のすべてを把握することは不可能に近い。一人一人の生活者に、発信する情報がどれだけ正確に深く浸透しているかということになると、かなり心許ない。個人が考える力を放棄すれば、情報は素通りする。
また、それ以前に情報に触れることをやめればどうなるのか。日本がかろうじて知的水準を高く維持している功績の一つに活字文化、産業が発達していることがある。特に新聞の宅配率はずば抜けている。アメリカ76%、ドイツ64%、フランス51%、イギリスはわずか13%というなか、日本は94%もの高率である。新聞が万能だと思わないが、それでも国民のほとんどが毎日活字で新たな情報に触れている知の蓄積はバカにできない。しかしそれも今では徐々に新聞を読む人が減り、ネットメディアが台頭している。さらには将来的にPCが縮小し、PDAに完全に取って代わられるといわれている。確かに今の大学生、ケータイは完璧に使えても、PCを満足に扱えない人も多い。PDAの小さな窓から、人はどれだけの情報量を吸収できるのだろう。そしてその情報は人の思考と有機的に結びつくことができるのか。
明日から2005年。新たな年が安穏と生きられる時代とは思えない。情報を吸収し、それぞれの人のアタマで考えることを拒絶しても幸せでいられるほど、平和な世の中でもきっとないと思う、残念ながら。