先日ニューヨークで、BEAUTIFULというCerole Kingの生涯を描いたミュージカルを観にいきました。到着する日の夜の公演の席をネットで取り、プリントアウトしたeチケットを持って海を渡ったわけです。
20世紀にNYCを訪れたときにも、必ず1本以上はミュージカルを観ているのですが、さすがにこれはできなかった。そのおかげで、帰国後もBroadwayのメルマガが定期的に送られてきます。
その翌日の夜は、Village Vanguardに行ったのですが、終了が深夜となる2度目のセッションにもかかわらず、日曜ということもあり、客のほとんどは欧米人中心ではありましたが、予約なしの観光客。自分たち(もう1組日本人女性グループがいましたので、たぶん2組)がそこに存在することに、以前ほど居心地の悪さを感じませんでした。
街を歩いていても、様々な部分で同質化していることを感じました。世界中どこでも同じではなく、西側先進国同士見ているもの、使っているサービスが同じであるなかで、行動様式までもどこか近づいてきているような気がします。たとえば、スーパーマーケットでも、もちろん売られているものは違いますが、レジに並んで、キャッシャーは同じようなレジで会計し、エコバッグを持っているかどうか聞かれ……店によってはその店のカードを持っているかどうかも聞かれると。
もっとも、国内どこに行っても「Tポイントカード(Pontaの場合も)は持っていますか」よりは、差し出すべきカードを自分が持っていないだけ異国情緒がありますが。
20世紀後半と今現在の変化の大きな要因が、IT技術の進化と普及にあることは間違いありません。似た社会システムを持ち、富裕度も近い国や街同士は同質化しています。
この前の福山雅治さん結婚のニュースは、ほぼ同時配信で台湾、香港など、日本のエンターテインメント関連の輸出が多い近隣諸国にも流れたそうです。同じようにショックを受けている女性も少なからずいたとか、いないとか。IT普及前でもビッグネームに関しては、既存メディアや大規模プロモーションの力で、ニュースは世界中に駆けめぐりましたが、今はそのスピードと範囲が様変わりしています。
一方で、「世界一幸福な国」と神秘の視線を送られてきたブータン。若年層の失業率の高さや麻薬中毒が社会問題になっているとか。さらに半年ほど前の日経新聞の記事ですが、幸せの定義が揺れているとあります。「洗濯機が欲しい」労働を軽減したいとする主婦の望みは、ヒマラヤの農村でも東京でも変わらないと、そこには書かれています。これはITだけの影響ではないですが、一つの同質化の形でもあります。
こういう話が出ると、消費文化をこうした国にまで浸透させるのはいいことではない、先進国や新興国のエゴだという声も聞こえてきます。でもそれを言っている人が、洗濯機や掃除機を使っているのなら、そこに説得力はありません。ただの対立構造を生むだけであり、白か黒という話ではないのです。
本当に幸せな国や場所とは、自分で幸せの形を選べるところだと私は思います。アフリカや南アメリカ大陸の奥地で、ITどころか、モビリティや電力、メディアとも無縁で生きている人は、今でもいるでしょう。一方で、日本の中でもほんの少数派ではあっても、自らのライフスタイルとして選びとって、商用電源をほぼ使わずに生きている人はいます。もう少し大きなグループではアーミッシュのライフスタイルは有名ですが、彼らも一切の世俗的な文化やエネルギーを排除しているわけではなく、先進国の片隅で必要なものは選んで取り入れているわけです。
後者のように選んだライフスタイルならいいですが、押し付けられた幸せ、諦めた極地での僅かに見つけた幸せを享受することは、本当の幸福ではなく、それが個性であっても、ある部分同質化していく必要はあるのだろうなと思います。