ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

人生、正午前の悪あがき

2005-02-27 19:50:32 | スポーツ
currentスポーツクラブに退会届を出した。ただ漫然とマシンジムやスイミングをしているのが嫌になり、実は無理に時間を作ってでも別のスポーツをしたくなった。新たな挑戦ではなく、まだ学生の頃(しかも中学生!)やっていたスポーツだ。この心持ちはなんだろうと自分でも訝しく思っていたら、ある雑誌を読んでいてその答えに行き当たった。

自分の足跡を振り返って子どもの頃の趣味の世界に浸る「回帰現象」らしい。中年男性がラジコンとかバンド活動にはまり出すアレと同じ。同じ雑誌にいわゆるユング(精神医学者)の人生を太陽の動き(つまり1日)にたとえた論(こういうのって、学説っていうの?それとも思いつき?)が引用されていた。人生には正午に向かってぐんぐん力を増す午前とだんだん日が翳っていく午後があるという。人生の午後の始まりは、40代だという。じゃあ、私は正午前か?
「午前から午後へ移行するとは、以前に価値ありと考えられていたものの値踏みのし直しということである(ユング)」 なるほど…。

子どもの生活は大人のそれより、人によっての差異は小さい。みんなだいたい朝学校に行き、夕方家に帰ってくる。だからささいなことが子どもに与える影響は、大人が考える以上に果てしなく大きい。その結果、いじめで自殺を図ったり、ちょっとしたいざこざで同級生を傷つけたり。人より学力で劣っているとか、スポーツができないとか、そういうことも子どもには一大事。逆に何か打ち込めるものや、自分が認められた能力、良質な本との出会いなどで、生きる価値観が変わったり、自分が生きる環境が劇的に変わったように思ったりすることも子どもにはあり得る。その一つが私にはあるスポーツとの出会いだったと思う。そういうものへの執着は、年齢を経てもその人のなかに残り続ける。流行は繰り返すとか、自分の夢を子どもに託すとか、そういうことも人が幼少期から思春期の経験のなかで育んだこだわりが時間を経ても色あせずに根深く残っているから起こる現象だろう。

マーケティングのライフサイクルの捉え方も、平均的な人の人生の節目を辿るのではなく、これからは個人の半生の軌跡から次の消費機会やヒット商品を発見していくようになるかも。

*写真はAERA05.2.28号。ここから一部引用しました。堀江社長は本文とは何の関係もありません。


『友だち』のプレゼンスがあやうい

2005-02-26 22:05:25 | デジタル・インターネット
音楽についてはド素人なのに「友だちへ~Say What You Will」がリリースされた時に、前曲のようにはヒットしないだろうと書いてしまい、万が一爆発的に売れてしまったらどうしようと思っていた。とりあえず今の段階ではたいしたことがないようなのでちょっと安心。あの時はコラボレーションの限界という視点で書いたのだが、テーマの切り取り方にも原因があったような気がする。

10代後半を対象にした調査で「自分自身にとって大切なもの」を聞いた結果、1位『愛』、2位『金』、ダブルスコア離してやっと3位に『友だち』という回答があがったらしい。同様のターゲットに向けた別の調査では、自分の悩み事を誰にも相談しない人が多いという。確かにケータイのアドレス登録の数を競っても、関係の深みとは反比例しているような気がする。例の曲も実は友だちを真正面から捉えているわけではないらしいが、それでも「友だち」から想起する経験や感情との接点が希薄だから心に響かないということはあると思う。

実は友だちのプライオリティが希薄になるのは、20代後半から40代くらいにかけて。ある人は新しい家族を作り、ある人は仕事に没頭し、ある人は自分自身の生き方を模索して、自然と友だちから遠ざかっていくことが多い。そして仕事人生の終わりが見えた頃、あるいは子育てが一段落した頃から、改めて友だちの価値を見出し、また回帰して急に同窓会を始めたりする。そういう意味では10代から20代前半にかけては、友だちとの関係を育む大切な時期で、本当は愛やお金や両親より「友だち」のプライオリティがもっと高くてもいい。

会社でも人と人とが群れなくなりつつある。それはある種個の自立であり、悪いことではない。でもそこに至るまでに恋愛感情や利害関係に束縛されない人間関係をつくる感性を持つ機会がないとすれば、その先にある自立は危うい。私は教育の専門家でもないが、いわゆるコマーシャルリズムにも「友だち」のプライオリティを下げた原因の一端はあるように思う。ゲームや映像文化(これらも別に悪いことだけではないけれど)の進化は言うに及ばず、多分他にもいろいろあって、複合的に影響を与えている。少子高齢化の影響もあり、マーケティングは若い世代を置き去りにしている部分がある。ただ、消費を促すということではなく、教育とは別の側面から彼らのライフスタイルを輝かせるマーケティングという視点があっても良いような気がする。


MS グローバルカンパニーの非常識

2005-02-20 01:22:20 | デジタル・インターネット
新聞を読む目を疑った。マイクロソフト(MS)が中国市場で世界共通価格だったXPを値下げ。ここまではまあいい。物価水準から考えて高すぎるから是正するっていうのなら、理解できる。でもこの値下げは条件付で、なんと「海賊版所有者に限る」らしい。

これって、クレージーじゃない?中国では海賊版が当たり前らしい。これは別にソフトウェアに限らず、今の中国のスタンダードかもしれない。だからといって、その現実をいったん受け入れ、「その人たちだけ」に価格優遇するのは、あるものを盗んだ窃盗犯に同じものを安く売ってあげるようなもの…が言いすぎなら、ルイ・ヴィトンの偽物を持っている人だけに本物のルイ・ヴィトンを安く売ってあげるようなものだ。そもそもそういう人って、少しぐらい安くしたからって、本物(正規版)を買うのか?こういう戦略を平気で世界に発表する企業が現代を代表するグローバルカンパニーの1社である現実に愕然とする。

話は変わるが「スーパーサイズ・ミー」を観た。マクドナルドのメニューだけで1ヶ月を過ごす実験をしたアメリカ人監督のドキュメンタリー映画だ。自分の肥満の原因をマクドナルドに求め、提訴した女の子(有名な裁判)の側に立った切り口。でもファストフード漬けが原因で肥満になるのって、個人の生きるセンスの問題だと思う。子供に害だというなら、親や社会(教育)の問題。世の中には、体に良いものばかりが食品として売られているわけではないし、地球上のすべての人がいつもオーガニックばかりを食べるのは不可能。またそのために払わなければならない代償もある。ジャンクフードだって、月に数回食べる程度で死にはしないだろう。個々がバランス感覚の中で食すれば良い問題で、提訴する国民も、それを煽る映画を自分の体を張って作る映画監督も何か変だ。

MSもMC.もスーパーサイズ・ミーもアメリカの企業や作品。そして世にいうグローバルスタンダードの機軸も、実は多くのケースでアメリカにある。別にアメリカが嫌いなわけではないが(何度も旅行にも行っているし)、この国を物事の判断の「スタンダード」にすることは安直すぎると思う。



消える? 磁気カード

2005-02-19 00:28:18 | まち歩き
Image86SUICAとパスネット、ビックカメラ、みずほ銀行などとの合体のことを2月1日に書いた。既にSUICAとJALもタイアップしている。たまったマイレージで電車に乗れる。もちろん逆も可。この2社のタイアップはジャパンスノープロジェクト(これは+ANA)だけではない。SUICAはプリペイド式電子マネーとしてEdyと競合している。JR東日本を日常的に使う人にとって、交通機関や沿線の駅とつながる電子マネーは、ポイントが高い。特に通勤・通学定期なら毎日半強制的にカードを使うわけで、それに機能がプラスされることは、新しく何かカードを持つことよりよほど消費者心理としては行動負担が少ない。最近JRは頑張っている。民営化されて約20年、やっと本当に企業になった感じ。

こうなるとパスネットの磁気カードはやっぱりなくなるのかな。

先日駅で地下鉄を待っていると、東京の路線図を持った若い女性に声をかけられた。
「日本では電車を乗り継ぐごとに、お金を払わなければならないのですか?」
キレイな日本語。「日本では…」が「東京では…」と言われていれば、地方から来た日本人だと思っただろう。おそらく台湾の女性だと思う。私は回答に困った。東京には地下鉄だけでも、東京メトロと都営がある。「どこまで行くのですか」と聞くと、メトロだけの乗り継ぎだったので、買う必要がないと答えたが、これが都営との乗り継ぎならそうはいかない。日本語がネイティブ並みに話せる外国人でもわからない都内の電車の乗り継ぎ。一般の外国人には至難の業だろう。そう考えれば観光客には磁気カード式の共通カードは便利。特にJRも使えるようになれば、東京観光はほぼ1枚のカードでOKになる。ついでに記念に持って帰りたくなるような素敵なデザインでいろいろ作ればどうだろうか。提携しているのだから、JALで来る人にはノベルティで1,000円カードをあげるとか?

SUICAの戦略に比べれば、あまりに些細なことだけど、VISIT JAPANキャンペーンや国内からの東京観光振興の一環として考えてみればどうだろうか。イオカードがなくなってしまうので難しいかもしれないが…。



翌朝食べるパンの名前

2005-02-18 00:59:17 | まち歩き
sentoデパ地下でスィートやデリカを買う時に、たまに戸惑う時がある。やたら長いフランス語やイタリア語の商品名。セルフサービスなら問題がないが、ショーケースの対面式の場合。混雑の中で舌を噛みそうになったり、うまく言えなかったり…。高いケーキなら「まあ、しゃーないか」って感じだけど、翌朝のための200円そこそこのパンだとめんどくさい。『ポワラーヌ・パン・ドゥ…なんたらかんたら』とか、訳したらどうってことないに違いないが…。

ネーミングは実は難しい作業だ。同種の商品で商標登録されていれば使えない。ありふれていては埋もれてしまうし、突飛過ぎても恥ずかしい。商品のイメージや本来の価値まで傷ついてしまうことがある。けれどもこの「難しさ」にすら気づいていない人が多くてとんでもないことが起こる。ちと古い話題だが、「南セントレア市」騒動なんかはその最たるもの。まあ、おかげでもはやどこでくっついても目立たない市町村合併が話題にはなったが、それ以外は論評に値しない感じ。歴史も人々の生活も継がれている街の名前に、新しくできる空港の、しかも造語の愛称に「南」をくっつけて市町村の名前にする自治体のセンスって…?しかも南ってことは「そこ」に空港ができるわけでもないわけで、私が住民ならそんな市は恥ずかしい。しかもどこの国の人が聞いても、意味不明のカタカナ。パンの名前なら笑い話で済むが、パンの名前の方が言語に忠実なだけマシ。日本語以外のネーミングが悪いわけではない。でもせめて人や自治体の名前くらい、普通の日本語でいいじゃないか。両親ともに日本人の娘に「ジェニファー」という名前をつける親はあまりいないだろうし。

語学に堪能じゃない者の負け惜しみに聞こえるかもしれないが、日本人は自国の言語や文化、名前を大切にしない人が多いように思う。私はファーストネームがファミリーネームに先んじる欧米を中心とした国々の考え方には同調するが、だからといって日本人の名前を無批判に表記を逆転させるのには抵抗がある。JAPANとせずにNIPPONと表現しましょうという動きが以前あったような気がするが、いつの間にか沈静化してほとんどの人が平気でJAPANと表現している。言葉、とりわけ名前は大切なもののはず。学生時代、「木崎」を先生に「きざき」と呼ばれ続け、「きさき」だとそのたびに何度も何度も(1年近く…)堂々と訂正していた男の子がいた。周りはしつこいなあ…と感じていたようだが、今考えれば立派なことだと思う。