笑ってはいけない重大な問題で、当事者は気の毒としか言いようがないが、高校の履修単位問題はおかしい。あたふたしている高校や地域の教育委員会より、もしかしたら学生の方が冷静に受け止めているようにも思える。このことで高校生たちは、世界史より重い事実を学ぶのではないかと思う。社会というところがいかにいい加減で、不平等で、事なかれ主義がまかり通っているか。大人がどれほど想像力のない生き物か…とか。そしてコトが起こればそのツケは弱い者に払わされるということ。しかも実施可能な範囲で…。だって平等にというなら、うっかり既に卒業させてしまった人たちにも履修させないといけない。意外と喜ばれるかもしれない。大人になってからの方が学ぶことへの喜びは大きい。履修しなかった卒業生全員に、世界史の通信教育をすればどうだろう。時間のある人には学校に集まってもらえば、同窓会の代わりにもなるし…なんてことは非現実的で、結局は今このタイミングでそんな勉強をしたくない、高校3年生が割を食う。
ところで履修内容を勝手に変えた先生方は、バレたらヤバイと思わなかったのだろうか。文科省が「いいよ、いいよ」と言ってくれるとでも。もしそれくらい正しいことをしているつもりだったのなら、結果責任に対して徹底的に国と戦うべきではないか。「じゃあ、補習やりますよ」っていうのが一番楽な選択だ。文科省も同様で「補習してとりあえず今の高校3年生だけ辻褄を合わせなさい」というのが一番楽な通達だ。大人たちは痛くも痒くもない。社会の先生は大変かもしれないけど、ほんの数ヶ月いっぱい時間外労働するくらい、たいした苦労とは言えない。責任論は出てくると思うが、ここまで該当校が多いと誰が責任をとっていいのやら。校長、教頭が全員辞めたら、管理職不足になるかも。せいぜい減給で落ち着くのではないか。
大人たちは子どもや学生に「働くことは大変だ」とか「社会は厳しい」と、偉そうに言うけれど、本当は社会の方がよっぽどラクだということだ。それでも要領のいい子は出席規定日数ギリギリに補習を受けたり、補習の授業を聞きながら受験科目の勉強をしたり工夫するだろう。それを本気で注意できる先生がいたら、却って立派だと思う。それどころか下手したらこっそりとそれを認める高校も出てくるかもしれない。ほとんどマンガみたいな話になる。
ちなみに私の出身自治体は、私が高校を卒業した時代には今回のようなことは考えもつかないくらい、受験に不熱心な自治体だった。それはそれで今にして思えば割を食ったと思う。機会平等なんてあり得ない理想論ということだろう。でも学ぶことの意味は、個々人が自分の成長に合わせて考えていくこともできる。それは大人になってからでもできる。
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