ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

驚きのあげ底化粧品

2004-09-30 00:55:49 | コスメ・ファッション
今朝、化粧をしていて驚いた。某ブランド(外資系)のコンシーラー、容器の厚みの4分の1にも到達していないのに底が見えた。4分の1があげ底の遊びの部分なら何も言うまい。4分の3が無意味な空洞だった。裏側におまけでも入っているのではないかと、逆さにして見てしまった。

せこいオバサン根性や関西人(私も関西人ですから、関西方面の方、許してください)根性で言っているわけではなく(少しはあるが)、これは製品やブランドの信頼にかかわることではないかと思う。別にたくさん入っているブランドを選ぶわけではないが、化粧品は高価なリピート商品なのに、極端なあげ底で顧客を欺いて、何か得があるのだろうか?パッケージデザインの問題といわれればそれまでだけど、そのコンシーラーの容器は変哲のない形状。

別の某メーカーの基礎化粧品も、底が曲線を描く山になっていて、結構なあげ底だった(買った化粧品はもちろんあっという間になくなった)。あまりに早くなくなったのが悔しくて、別のブランドに乗りかえた。

乗りかえて買ったブランドは、la prairie(ラ・プレリー)。このブランドはあげ底テクニックは使っていない。見た目はそれほど大きくないが、みっしり中身が入っている。他にも名実ともに自然派ブランドといわれているいくつかのメーカーは、パッケージも誠実。

意味を見出せないことって、時代の空気には合っていないような気がする。「誠実」と「デザインの美しさ」は共存できると思う。


よそはよそ うちはうち

2004-09-29 06:35:30 | デジタル・インターネット
以前に「トリビアの泉」を見ていたら、親が子供をいさめる時よく言う言葉がこれだということだ。子供に限らず、「マジョリティという錯覚」は誰にでもある。人口の1割が住む東京に身をおき、情報過多の中でデータに頼る仕事をしていると、特に自分がやっていることや認識が多数派だと潜在意識の中にある。

先日、何かの話の流れで母(関西在住)に、オフィシャルHPを持っていることを言うと、「見てみよう」と言ったすぐ後に「やっぱり見ない」と言う。ドメインの英文を打ち込むのが面倒臭いそうだ。ちなみにパソコンもあるし、ブロードバンドにもなっている。NTT(CF)の加賀まりこの家と違い、通信ラインもつながっている。

しかしHPを見たことが一度もないらしい。加齢による意欲の低下や、テレビや新聞のような権威を感じていないということも理由としてはある。また、どうもウェブやクレジットカードを犯罪報道などの影響で胡散臭いものだと思っている節がある。クレジットカードも持っているようだが、海外旅行以外は使わないみたいだ。メディアが別のメディアの阻害要因になっているというのは、皮肉な話だが、まあそれはそれとして・・・。

年齢にかかわらず、きっとうちの家族のような人も世の中には多いのだと思う。けれども表面上のデータでは、パソコンを持っていることで、パソコン利用者として数えられ、クレジットカードを持っていることで、クレジット利用者と数えられることもある。

マーケティングは確かにニーズが存在するところにアプローチするという大前提がある。だからこういったライトユーザー(ライトともいえないかも。使っていないのだから)は置き去りになる。ただ、本来のユーザーの数を見誤り、マジョリティになりきれていないヘビーユーザーの顔ばかりを見ていては、その商品もまたメジャーにはなれない。


東京の遊園地

2004-09-27 21:08:14 | まち歩き
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ラクーアは、開業して1年以上経った今でも、休日にはエレベーター前に人が並び、入場制限をしている。場所が良いというだけではないと思う。考えてみればここは異様な空間だ。全裸で寛ぐ露天風呂の上では、ジェットコースターに乗る人の絶叫が聞こえる。バーテと呼ばれるいくつかのサウナとリラクゼーションスペースは若い人が多いが、スパ(風呂場)は老若入り乱れている。ラクーアの上には会員制スポーツクラブがあり、こちらも施設とロケーションのわりにそれほど高くないので、いろいろな会員がいる。

一歩外に出れば、お化け屋敷にジェットコースター、観覧車。銀だこもあれば、スタバも、高級スーパーもある。雑貨も洋服も売っている。
休日になれば、大道芸をやっていることもあれば、キャラクターショーをやっていることもある。早い話ごった煮だ。

東京は街ごとに個性があり、おおよそのターゲットが決まっている。青山には青山、浅草には浅草、銀座には銀座の匂いがあり、訪れる人の雰囲気も少しずつ違う。それぞれの場所に計画される商業施設は、それぞれの個性に合わせて、グランドデザインを描き、店づくりをする。

けれどもこの場所にはそれがない。後楽園は、それこそが個性なのかもしれない。同じ東京の遊園地でも花やしきでは成立しない図式だと思う。

私は大人になってから東京に出てきた。その私がいちばん東京らしいと感じるのは、新宿副都心や品川、丸の内ではない。理由はよくわからないが、総武線の市ヶ谷から御茶ノ水あたりまで、川沿いを走る電車から見る風景だ。何があるわけではないけれど、誰も拒絶しない空気があるような。


朝のリレー

2004-09-25 00:57:32 | アート・文化
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本はよく買うが、詩集を買ったのは久しぶりのこと。アリス館の「朝」「あさ」という両開きのビジュアル本でシンプルで美しい。初めてネスカフェのCFで「朝のリレー」(谷川俊太郎)を知ってから、谷川俊太郎の世界観に強く心を揺さぶられた。

本当はそう思うことがいちばんかっこ悪いと思いながらも、「戦争反対」と声をあげることや何か行動を起こすことは、今の私の役目ではないような気がしている。それでも心で憤ったり、悲しみを感じることはある。

この詩はとても優しい言葉で、でも強烈に戦うことの虚しさや愚かさを表現していた。言葉が持つ強さと重さを改めて感じた。

ネスカフェの「朝のリレー」は、最近総務大臣賞/ACCグランプリをとった。こういう形で、この詩がクローズアップされることを、作者が望んでいるかどうかはわからない。けれども私は美しい詩が多くの人に広がっていくことを、素敵なことだと思う。

最近ある生命保険会社でも谷川俊太郎の詩を使っていたが、1ファンの気持ちとしては、ちょっと?だった。


冬ソナとセカチューとセックスレス

2004-09-24 01:41:30 | テレビ番組
何ヶ月か前に知り合いのオジサンが私に聞いた。「セカチューって、何なの?」 当時の私はセカチューを読んでも見てもいなかった。
「友和・百恵の赤いシリーズの現代版で、冬ソナのエッセンスを入れた感じ?高校生の恋人が白血病で死ぬみたいよ」と答えたら、オジサンは納得していた。ちなみに冬ソナも2話ぐらいしか観ていなかったので、かなりいい加減な話だ。

その後とりあえずセカチューはテレビドラマで少し観た(三浦友和が出ていたのには笑った)。冬ソナもストーリーはだいたい知っている。

セカチューと冬ソナが似ているかどうかは異論もあると思うが、どちらも恋愛ドラマだが、生々しいセックスの匂いはしない。セックスシーンがあるかないかの問題ではなく、そういうことが主人公たちの欲望の中心にはない。こういうドラマが流行ることと、若い人に多くみられるセックスレスという社会現象には何か相関関係はあるのだろうか。

純愛ブームが悪いとは思わない。少し前に流行った援交や出会い系のようなお手軽な生々しさよりはずっといい。

でもどうも今の韓流ブームには乗り切れない。ドラマの前に流行った韓国映画は大好きだった。シュリJSA二重スパイもちゃんと観た。

フィクションなので、内容のすべてが真実に即しているかどうかは別として、国が背負った宿命や事実に向き合っているところに引き込まれた。セックスシーンがすべてにあったかどうかは覚えていないが、そういう人間同士のナマっぽさも感じる作品だったように記憶している。

最近、韓国の人気俳優の兵役逃れが次々発覚して、問題になっているらしい。兵役逃れが良いか悪いは難しい問題だが、それが彼らの国の現実であり、宿命であり、そこに今のメディアシーンで生き抜く彼らの葛藤がある。