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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

保守的というプリンシプル

2006-08-23 17:11:59 | スポーツ

オアシスO2”通称ベッカムカプセル”本体

久々感のある高校野球熱を見て、「なんだ、野球の人気はまだあるじゃないか」と思った人も多かったのではないだろうか。夜7時にテレビの前に座ることがない、都市に住む一部のビジネスマンが大衆を形成しているわけではなく、全体的にみればまだまだ(特に男性の)娯楽の中心に野球はある。それは当然だと思う。たまにしかテレビ中継しない、ルールもよくわからないほかのスポーツより、最近は減ったとはいえ、毎日のようにテレビ放映する、ルールも球団も生活者に定着しているスポーツに人は関心を寄せる。例えば100人いた野球ファンのうち、10人がサッカーのルールや楽しさについて情報収集力を駆使して覚え、野球への関心を捨てたとしても、90人はそんな面倒くさいことはしない。マスコミなどの大きな力が作用して、今の野球中継枠をサッカー枠にでもしない限り。

新しいもの、変化の芽を見ようと追いかけていると、ついうっかりしそうになるが、人は原則保守的なものなのである。人間の本質や嗜好の根拠となるメンタリティやライフスタイルは、そんなに簡単に変わらない。そして今の大方のマスコミは追随型である。

だからといって単に古いものに手を加えず、延々と同じことを続けていても飽きられる。例えば今回早実の投手の異常なほどの人気の背景として、「いまどき珍しいさわやかさ」という言う人がいて、それは間違っていないと思う。でも昔の高校生が試合中に青いハンカチを出したりしなかったし、試合の疲れをとるためにベッカムカプセルに入ったりもしなかった。そもそも顔立ちが今っぽいし、母親ではなく、大学生の兄貴(しかも同じく今風にかっこいい)がせっせと食事の世話をしているところも新鮮な印象を与える。つまりマスコミや企業受けし、人受けする要素、新しさを兼ね備えている。

結局はひたむきさとか純粋さ、もちろん野球の上手さとか、本質の大切な部分は変えずに、部分的に新鮮さやオリジナリティを加味した点が今の時代の空気にフィットしたということだと思う。もちろんご本人やご家族は意識していないだろうが、一つのマーケティングの成功パターンを示したようなもの。

プロ野球もほかのスポーツよりアドバンテージはあるのだから、人気復活の方法や可能性は結構身近なところにあるような気がする。でも個人的には世の中があまり保守的に偏重するのはどうかと思うので、野球人気はこのままでもいい。


ヨーロッパの国境線

2006-07-14 02:32:31 | スポーツ

不死身のヨーロッパ

ジダンの頭突き騒動が尾を引いている。日本のマスコミ報道は差別発言、侮辱発言がいけないか、暴力の方が悪いかという図式になりがちだが、ヨーロッパ大陸の特殊性と歴史を考えると、単純化できない意味を多く含んでいる。奇しくも今回は欧州国ばかりが上位に残った。南米のチームは金銭目的で有力選手を欧州のクラブに送り込んでいるツケが回ってきているとも言われている。ここにもヨーロッパと南米、アフリカとの力関係が見え隠れする。

サッカーはヨーロッパにおける戦争の歴史の縮図、あるいは代替であると言われることがある。欧州は文明の発達を牽引してきた国々を多く含みながら、細かく国境線を引き、陸続きの国同士が長い間に争い続けてきた。しかもゼロサムゲームではなく、戦争に対して曖昧な勝敗結果で終わっているものが多い(近代戦争は別として)。つまり欧州における近隣国同士の争いは、駆け引きであり、そこにはルールがあり、政治の1手段であったということだろう。サッカーもまた、試合中に言葉で相手を挑発しあい、肉体的に力を尽くしてもわずか1、2点差で勝敗が決まり、延長をしても決着がつかなければPK戦というルールのもと、いともあっけなくムリに結論を出してしまう。

戦争だと考えれば、ジダンを他国の選手がその生い立ちや民族性、宗教について、何かを言ったとしても、それは陵辱であるかもしれないが差別とは言い切れない。差別というのは同国内で平和な時代背景のなかで、本来争う必要のない相手に対して、国籍や肌の色や体の障害などへの偏見から不当に扱うことだ。それでもFIFAは暴力行為だけでなく、暴言にも制裁を考えているという。また、今後の展開を見越して、サッカーからそういったダーティな部分を排除しようという動きがある。確かにサッカーが戦争の代替行為であるとか、欧州のネガティブな部分の縮図であるという見方から解放されたとき、本当の意味で地球規模のスポーツになるのかもしれない。

話は変わるが、北朝鮮の制裁決議案について、欧州諸国の明確な意思を感じる声はあまり聞こえてこない。これもまた駆け引きで、本当は賛成したくないけれど、中国かロシアが拒否権を発動してくれるからいいや、と考えているのではないかと思う。どうせ結果は一緒なのに、下手に拒否して国連の負担金の大きい日本の機嫌を損ねたくないということなのでは?そうだとすれば、サッカーも外交も日本は蚊帳の外という感じがする。


スポーツと勉強(ビジネス)

2006-07-10 23:27:02 | スポーツ

2006年FIFAワールドカップレプリカ5号球 即納OK!アディダス W杯サッカーボールレプリカ5号球

ある知人が冗談交じりに言っていた。

「スポーツの宣誓で正々堂々と戦うと言うが、あんなのは嘘っぱちだ。スポーツほど卑怯なものはない。野球なら甘い球を狙って打つし、塁は盗むし、サッカーは人を押しのけ、あるいは人の目を盗んでゴールを入れる。どこが正々堂々としているのかわからない」

こんなことを思い出したきっかけは、だいたい想像がつくと思うが、W杯決勝でのジダンの頭突き退場。まあ、だからサッカーはおもしろいのかもしれないが、サッカーファンでもない一般的な人間の感覚で言えば、言葉で挑発するほうも挑発するほうだ。何言ったか知らないが言葉の暴力は制裁されないのだから不公平といえば不公平。まあ、一般社会でも肉体的暴力に比べて、言葉の暴力に寛大なのは同じだけど…。

私はスポーツ好きなので、嫌いゆえの意見ではないのだけど、子どもの世界でスポーツマン(スポーツのできる子)の方がビジネスマン(勉強のできる子)よりかっこいいとか、人格的に優れているとか、そういうイメージを植えつけるような風潮はちょっと違う気がする。かといって、最近の親子関係の事件に見られる、勉強のために無理やりスポーツをやめさせるという押し付けもおかしい。

結局現実社会は、スポーツだろうが、ビジネスだろうが、矛盾もあれば不公平感もあるということを伝えることが必要なのかもしれない。学歴があろうがなかろうが、世間的に高いイメージの職業に就こうが就くまいが、幸福感も達成感も必ずしもあるともないとも限らないということも。それよりも個人がしっかりとした価値観やモラルを持つことを教える方が重要だと、最近の出来事をみるとつい思ってしまうが、現実的には曖昧なことを教えるのがいちばん難しい。

追記:退場となったジダンがMVPをとったようで、個人的には良かったと思います。事実を放送すらしにくい暴言というのはいくらなんでもどうなのだろうと思っていたので。

さらに追記:その後、ジダンへの挑発内容は差別発言であろうという報道が流れています。また事実関係を調査し、場合によっては発言者への処分もあり得るようです。想像はしていましたが、現時点(7/11)も含め、事実は定かではなかったので、上記記載内容にこの点はまったく加味していません。


寝不足の理由はウィンブルドン

2006-07-07 03:34:42 | スポーツ

このところ寝不足が続いている…と言えば、サッカーファンかと思われそうだが、NHKで毎晩ご丁寧に中継しているウィンブルドンテニスが元凶。今日はやめようと思っていたら、シャラポワVSモレスモ戦なので寝られない。

スポーツには観るスポーツと自分でプレイするスポーツがある。テニスは国内でも根強い愛好者の多いスポーツだが、観戦習慣があまりない。これまで強い選手が育ちにくかった、国内に大きな大会がないということもあるだろうが、個人技であることも大きいと思う。個人技で観戦習慣があるのは格闘技くらいではないか。ゴルフは観るぞと言われそうだが、自分ではやらないけど観るのは好きという人はあまりいないだろう。多くのギャラリーは、イコールアマチュアゴルファーだと思う。

その点野球、サッカーなどの団体競技は自分でやらないけど、観戦は好きという人が多い。チームプレイの楽しさということもあるし、人がいっぱい出ているほうが華やかだから仕方ない。個人技はどうしてもストイックな感じがするし、単調さも否めないもの。

たまたまかもしれないが、最近個人技における日本女子の活躍が目立つ。今回のウィンブルドンは男女ともにもう日本人選手は残っていないが、杉山愛はヒンギスに勝っている。ほかにも卓球、マラソン、ゴルフなども女子選手の活躍が目立つ。半面、男子はどうもパッとしない。国技の相撲ですら、活躍しているのは外国人力士だし…。なぜだろうと一応理由を考えてみると、一途であること、ひとつのことをひたむきに続けることがカッコイイという風潮がとりわけ若い男性に希薄になってきているような気がする。あと、かっこ悪いことはしたくないという気持ちも。例えば相撲を志す人が減ったのも案外そんなこともあるのではないか。相撲ファンには申し訳ないが、あの美学をわかる人は減っているのだろう。少なくとも修業時代は、大変なだけで報われることが少なそうだ(もてないし)。今回の中田選手の引き際をかっこいいと評する人が多いのも象徴的なことのように思う。

まあ、才能のある人はどういう選択をしてもかまわないのだが、個人的にはカズや古田、イチローのようなタイプにシンパシーを感じる。単純に自分がもう若くないだけかもしれないけれど…。


ジーコの言葉

2006-06-23 23:30:14 | スポーツ

サッカーにはそれほど興味がないというか、それこそ「ど素人」の感想になってしまうので話題にするのは避けていたが、ブラジル戦敗戦の後のジーコの言葉は興味深かった。日本の選手にはプロ意識が足らない、国際試合経験が少ないというもの。強豪国のプロチームにいる日本の選手もごくわずかで、常にそのチームで試合に出ている人はほとんどいない。試合に出続けることこそがプロの最低条件ということのようだ。言われてみれば、今はお休みしている松井も、もちろんイチローもメジャーリーグで出続けている。国内でも阪神の金本が出続け、活躍し続けることが賞賛されている。

話はいきなり変わるが、昨日のワールドビジネスサテライト(テレビ東京23:00)で男女雇用機会均等法20年の節目を迎える今の、女性の仕事環境について取材をしているのを見た(特集テーマ:「働く女性の理想と現実」)。随分環境は良くなっているが、今でも差別はあるというような内容だった。

働く女性の私が言うと問題があるかもしれないが、職場の多少の男女差別は仕方ない面もあると思う。それは冒頭のジーコの言葉に通じる「仕事の現場に出続ける」ことが困難だから。つまり仕事を休まず続けること以上の豊かな人生があれば、何も些細な男女差別に目くじらを立てる必要はない。それは子どもを生み育てることだけではなく、例えば若い頃の私はわりと簡単に職場を辞め、長期間海外旅行に行ったりもした。私は中途半端だったけど、華麗に海外で活躍したり、留学してキャリアアップをしたりしている人も多い。私が仕事を続けているわりにジェンダー問題に対してぼんやりしているのは、頭の堅い伝統的な企業で男性に伍して出世争いをするよりも、別の生き方を選びやすい女性の方が得だと思っているから。以前バレーボールの若い花形選手が結婚であっさり引退したのにはさすがにあきれたが、あれが男性選手なら大ブーイングだろう。

でも今は男性も子どもこそ生まないし、専業主夫もまだまだ少ないが、仕事に対して堪え性のない人が増えている。何も終身雇用制の時代のように、意に沿わない企業や職業にしがみつくのが美徳とはさすがに思わないが、モラトリアムな感じを長く引きずっている人がむしろ男性に多いような気がする。あるいはお友だち感覚でダーティなビジネスの誘いに手を染めて、自ら破滅の道を辿るエリートも…。女性の敵は女性というけれど、男性の地位を脅かしているのも、社会の趨勢でも、女性でもなく、男性自身だと思うのだが、どうだろうか?