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ensemble マーケティングの視点

日常生活と趣味を綴る個人的散文です。タイトルに反し、仕事に関する話は書きません。

クライシュテルス

2009-09-14 23:46:47 | スポーツ

タイトルの意味がピンと来る人は少ないと思う。やっぱり今日は日本でスポーツの話題と言えば、イチローの快挙に勝るものなく。タイトルは人名(姓)であり、今日のワールドスポーツニュースを賑わしたであろう人だ。

全米オープンテニス女子シングルの優勝者であり、今期でいえばノーシード。しかも四大大会では29年ぶりと言われるママさん選手の華々しい復活劇だった。

スポーツの世界は、アスリートとしてのフィジカルの問題があるので、一般社会と安易に比較はできないくらい、一度現役を退き、出産した人の復活は難しい。彼女が26歳とまだ若いということを差し引いても、大快挙であることは間違いない。他のスポーツを見渡すと、もっと年齢を重ねた選手でもそういう選手はいなくはない。一番に浮かぶのはマラソンのポーラ・ラドクリフ選手だろうか。

世界を見渡しても超一流選手に限ると、そんなにすごい数のママさん選手がいるわけではないが、一般社会のダイバーシティでさえ遅れていると言われている日本にもパッと思い浮かぶ人が一人いる。柔道の谷亮子さんなのだが、どうも最近国内では分が悪い。一般の人には感情的に悪く言う人も少なくないし、いわゆる競技団体も自分たちが以前実績で不公平に代表選手に選んでおきながら、二度目の出産で休んだ機会になんだかもう代表には選ばないぞという雰囲気を作ってしまっている。ルールに基づいたものであり、若い選手を育てるという意味で一概に否定できないが、偉業や人並み外れた努力への敬意があまり感じられないのが気になる。

スポーツ選手も人気商売の一つと捉え、キャラクター勝負(&見た目)という面もあるとはいえ、ここまでの人を高く評価できないとしたら、平凡な能力の人が集まる職場のダイバーシティの進歩にはあまり期待できない。

まもなくスタートする新たな政権の子育て支援策に反対ではないが、一人ひとりをみればそれだけで教育に十分な費用を得られるわけではない。これだけ一人親が増えているのだから、一方では母親が自立し自ら糧を得られる社会の構造をつくることを考える視点も必要だと思う。


奇跡の人

2009-07-08 02:37:35 | スポーツ

先日、ほとんど月曜日の朝方と言っていい時間まで、時差と戦っていた。といっても、外国に行っていたわけではなく、テレビ画面を直視していただけだけど。

観ていたのは、WOWOW。ロジャー・フェデラーアンディ・ロディック戦。いわずと知れた大死闘のフルセット。しかもファイナルセットは16-14。テニスは16点対14点ではなく、ゲームカウントだから、脅威的だ。経済用語にまでなってしまった本家ウィンブルドン現象を解消すべく健闘しながらも、準決勝でロディックに破れたマレーのことなど、英国民も吹き飛んだかもしれない。それくらいテニスファンにとっては印象的な、しかし一緒に疲れる試合だった。

今回ばかりは生フェデラーをどうしても観たくなり、かといって次の全米オープンに行くにはすべての条件(時間、カネ、チケット)が揃わず、もたもたしていると私を追い越すことはないとはいえ、彼も歳をとるので、秋の「有明」の空席待ちを申し込んだ。全米で疲れ果てて来ないかもしれないし、ベストを尽くさず準決勝まで残らないかもしれないけど、まあその時はその時で。有明なら交通費も惜しくない。

ところでAIGオープンから、AIGが抜けたのは知っていたけど、楽天が代わりのスポンサードをとっていたことを初めてちゃんと意識した。野球、サッカー、テニス…。なるべく重石を外したがっている大手企業が多い中、ある意味稀少だと思う。しかもテニスは、日本ではマイナーこの上なく。錦織人気とクルム伊達公子復活で盛り上がりつつあるとはいえ、杉山愛さん以外の日本人選手があまり強くないから、ということもあるかもしれない。

でもテニスは個人技。ダブルスを他国選手と組むケースもあるくらいで、ナショナリズムもある意味希薄。コーチが誰かということもあまり取り沙汰されない。観客のマナーも良く、他のスポーツに比べて地味な印象があるかもしれない。だから観戦スポーツとしては、日本人の趣味にはなじまないのかもしれないけれど、ジュニアで強い選手も出てきたみたいだからこれからはわからない。

※この話は(いつも以上に)マーケティングとは関係なく、何の論点も結論もありません。


祭りのあと

2008-08-31 23:46:15 | スポーツ

北京オリンピックが終わり、メディアでの話題も尻すぼみ傾向だ。今回のオリンピックそのものが開催国の人権問題や異常なほどの金メダルラッシュから、白けた見方をしていた人も中にはいたと思う。日本人のオリンピックに対する価値意識にばらつきがあるのは、別におかしなことでも憂うことでもないと思うが、特に男の子のスポーツに対する熱そのものが冷めている気がする。

国技扱いされている相撲はまさにウィンブルドン現象で、話題になるのはスキャンダルばかり。プロ野球はオリンピック直後こそ、中継をしていたが、今はBSでもあまり見かけない。サッカーもサポーターを除いては関心が薄れていて、一時の「これからは野球よりサッカー」というような話題性はあまりない。ゴルフが少し持ち直しているが、まだ地味さは否めない。いまやマイナースポーツの扱いのテニスで、錦織選手がまさに大金星をあげているが、中継はWOWOWくらいで、その勇姿はほとんど観られない。もっともオリンピックでも、テニス中継はほどんどなかったが…。

頑張っている女子スポーツもオリンピック以外で一般に観戦できる機会は少ない。ちなみにパラリンピックはこれから始まるが、日本の障がい者スポーツのレベルがどれくらいか知らない人の方が多い。

何もオリンピックや世界選手権で何が何でも金メダルを、というわけではないけれど、子どもたちがスポーツに関心を持ち、何かしらのスポーツをはじめ、続けていく手助けに、もっと大人たちが力を尽くしてもいいと思う。その手段の一つが、オリンピックでチャンピオンになれる選手を育てることや、プロスポーツの世界を充実させること、そして彼らを素直に憧れることができる評価を与えることだと思う。彼らに触発されスポーツを始めた子どものほとんどは、プロやオリンピック選手にはなれないかもしれないが、スポーツを通して育まれた心身は財産になるし、大人になってまた趣味として始めてもいい。

スポーツに限らず恵まれた家庭の子どもや親に強い志がある子ども以外、一流になれない、大きな希望を叶えられない社会は寂しい。活力が次世代につながらない。格差社会に憤りを感じながら、今の大人は子どもに現代社会でもしかしたらいちばん難しいかもしれない普通であることを望んでいるような気がする。他の子どもが誰も持っていないものを与えずに、誰もが持っているゲーム機やコミックは簡単に与える。高みを望んでも、結果普通になることが多いのに、最初から努力もさせずに普通を望む。一人ひとりの親の意識の問題だけでなく、国の政策も同じだと思う。スポーツ振興にしろ、教育にしろ、戦略も立てず、税金も配分せず、次世代の日本に今と同じか、それ以上の活力を求めるのは無理だし、個々人の努力にゆだねるのは酷。とはいうものの、スポーツに関して言えば、マイノリティの女子やマイナースポーツ、障がい者の方が、男子の花形スポーツより恵まれない環境で頑張っているのが現状なわけで、今の日本の男の子に必要なのは支援金だけではないような気もするが。

スポーツも、ビジネスも、トップレベルの人たちがいるから、普通の人も生きるし、裾野も広がる。みんなが中間層であるのが幸せだというのは幻想ではないかと思う。


ブランクを受け入れるフトコロ

2008-05-11 12:52:12 | スポーツ

前回、新ドラマのスタートもあり、Around40について書いたが(ドラマは2回目以降観ていないが)、現実の世界で今アラフォーの話題の中心はクルム伊達公子さんだろう。彼女の活躍に勇気づけられている同世代の人は多く、最初は復帰の選択に疑問を呈していたスポーツ界の重鎮たちも、現役を続けている若い選手と互角以上の戦いをしている現実に、何も言えなくなっている。その中で同じテニスのベテラン選手である杉山愛さんが「結局、引退が早すぎた」というコメントをブログに書いたことはごもっとも、と思う。別に彼女は、伊達さんを非難しているわけではなく、同じテニス選手としての素直な思いなのだろう。

日本人の心情として、特に女性の場合、絶頂期の引退を美化する傾向が以前は強かった。山口百恵さんやキャンディーズなどが良い例で、最近では女性ではないが、サッカーの中田英寿選手も早い引退。ところが今はそういう価値観は、やや下降線で、体の衰えと戦いながら長く現役を続ける姿が評価されるようになってきた(やりすぎると痛々しいという声も聞こえてくるが…)。女性が結婚してもアスリートを続ける姿も当たり前になってきた。特に陸上選手には多いように思う。一般社会同様に、スポーツ界でも女性が長く働き続けることが潮流になりつつあるのかもしれない。

でもスポーツ界は肉体の限界との戦いであり、ライバル選手の中で常に優位に立つことが必要なまさに勝つことが求められる社会。ほかの職業でも働き続けることへの迷いは、何度も訪れるのだから、スポーツ選手がいつ引退を考えても誰も責められない。さらにプロのアスリートは大抵子どもの頃から同じことをひたすらに続けているわけで、ともすればほかの世界を知らないまま大人になり、いざ引退しても潰しがきかないということにもなる。そう考えれば、早めに見切りをつけ、次の人生を選びやすくするという考え方もわかる。

しかし伊達公子さんは戻ってきた。年齢の問題よりむしろブランクを埋められるか疑問視された。ブランクをある程度埋められたことがわかると、現役選手のふがいなさを嘆く声も聞こえてきた。全盛期に引退しても、長く現役を続けても、どちらの選択も個人の自由の時代であっても、復帰にはまだまだNO、あり得ない選択というのが社会の現実だ。

スポーツ界だけではない。ビジネスの世界も同じ。最近になってようやく、自己都合で辞めた社員を同じ会社に再雇用という事例も出てきたが、まだまだ例外。そればかりか育児休業すら、復業後に多くのリスクがある。長い人生、瞬間の選択やそのときの事情で、次の可能性が閉ざされるのは、誰にとっても不幸。再チャレンジ支援など、いくら政府や行政が主導しても、そのレールに乗れる人は限られる。社会全体や人の心に、しなやかに多様な生き方を受け入れる土壌がなければ、制度だけがあっても浸透しない。


この社会は劣化しているのだろうか

2007-12-31 03:59:42 | スポーツ

今年の漢字日本漢字能力検定協会)「偽」が1年間をもっとも表すのだとしたら、誰もが今の社会を嘆く気持ちはわかる。それにしても、例年わりとムリムリにでもポジティブ、あるいはどっちにでもとれるような漢字が選ばれたことが多かったのに、今年は随分ストレートだったと思う。単にマスコミ報道が同質化しているだけでないか。

この社会は言われるほど劣化しているのだろうか。確かに環境やエネルギー問題は深刻さを増しているが、ほんの20年ほど前は多くの人はそれをテーマにすらしなかった。子どもたちはゲームやマンガばかりで、活字を読まず学力が落ちているというが、私の子どもの頃からファミコンはあったし、今の大学生は以前よりマジメに勉強しているように思う。

こと日本だけを見れば戦争の歴史に目を背けてはいけないが、その時代を生きた人より幸福だし、今のこの国の風景のほうが幾分いいはずだ。高度成長期やバブルを知らない若い人が堅実に生きる、あるいはひたむきに自分の能力を高みにあげようとする姿には、むしろ教えられることもある。スポーツが団体球技や伝統を重んじる相撲などが中心だった時代から、個の精神と向き合うマラソンやスケート、レスリングなどの個人競技に秀でた人が増えてきている。団体競技でもイチローやサッカーの中田のように孤高の人が称えられるようになってきた。和を重んじる日本独自の精神性も嫌いではないが、むやみに何かに寄りかからずわが道をゆき、戦う強さも尊いと思う。

音楽ではここ数年抜きん出て売れる曲、評価される曲には、命や人生を切々と歌い上げたものが多い。コブクロの「蕾」「千の風になって」「涙そうそう」(←古いか…)も。命の尊さを蔑ろにする時代の反動だと言われればそれまでだが、このままではいけないと誰もが思っているとしたら、まだ現時点ではこの国には余力や温かみがあるのだろう。

私はバブルの頃をギリギリ少し知っている世代だが、少なくともあの頃より今の日本や人々の心は健全なように思う。もちろん今、進みゆく格差や悪化する治安や環境、IT社会の歪、質の低い政治をあるがままに受け入れることはできない。けれどもただ嘆くのはあまり意味がなく、一筋の希望を持って生きたほうが、絶望して生きることと比べれば少しは人生や世の中はマシになると思う。

今日は大晦日…。