ゾウさんと暮らす

85歳の 夫ゾウさんとの
二人暮らし。 わたし 82歳。  

② 下北の 地吹雪のなかで

2017年01月17日 00時41分16秒 | 戊辰戦争を学ぶ2017~

昨日の続きを 書く

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数年前の NHK大河ドラマ 「八重の桜」の 

主人公・八重さんの 最初の夫は 川崎尚之助さん。

この人を 探っていたら

戊辰戦争後、下北(斗南藩)に 移住しており、

藩の食糧調達のために 働いた、と ある。

ドラマでは どうなっていたか の記憶は 少しだけ。

八重と違って 悲惨な 最後 だった ような。

 記憶がないのは 興味が 今ほどではなかった、ということか )

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下北の暮らしでの 一番は 地吹雪。 

何度 経験した かな。 私たちも

むつ市まで 買い物に行かねば 6人分の

食料が買えないところに住んでいた。

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明治維新後の

下北での 農家に 寄宿して の 暮らしが 

どんなものか、想像に難くない。

さらに 地吹雪のころは もう ……。

暖房もないところで、最後まで 会津藩に尽くしたのに、 

最後は 不幸、としか 言いようがない 川崎 尚之助。

気になるので

出石生まれの 川崎尚之助の 最後を 探ってみた。

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戊辰戦争 降伏後の収容・謹慎期間を 経て、

他の 会津藩士とともに 斗南に 移住した。

米は もちろん豆類も 得難い 厳しい地で 

同志たちの生活の糧を得るために

涙ぐましい献身を 一途に 貫いた。 

斗南藩(青森県下北地方)へ 入った 

川崎尚之助は、

重要な収入源になる 商取引に 取り組む。

取引のために 函館へ渡って、

斗南藩士を 自称する 米座省三と 知り合う。

その仲介で、斗南藩が 栽培中の大豆を 担保に 

広東米を購入する 先物取引を 行った。 

しかし、米座省三が 広東米の手形を 担保に

金を借りて 逃走したため、

川崎尚之助は 取引相手に大きな損害を与えてしまう。

当然ながら 取引相手から 訴えられた。

この時代、不平等条約をかかえた日本では 

外国人絡みの 詐欺事件の訴訟には

ほとんど敗訴するのだが、そんななか

有能で 語学堪能な 彼は 奇跡的に勝訴する。

だが、取り戻して 清算してみたら

残ったのは 莫大な 借財 だった。

斗南藩(会津藩)は この広東米の取引について、

「取引は 藩命ではない」と 一切の関与を否定したため、

川崎尚之助は 全ての責任を 背負ってしまった。 

川崎尚之助は 斗南藩士になっていたが

給料は無く、食事にも困るほど不遇な生活を過ごしていた。

のに

裁判での 身元引受人が 3度も 変わったという。 

最後は 訴訟継続中にかかった 慢性肺炎によって死去する。

入院・死去した終焉の場所は

東京医学校医院(現在の東京大学病院)。

明治8年(1875320日、享年40歳

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裁判は 死亡により、裁判は 終了となった。

川崎尚之助の戸籍には 配偶者(山本八重)

は 記載されていなかった、という。

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1871年(明治3年)に 戸籍が制定されていた。

裁判で負ければ莫大な負債を背負うことになるため、

川崎尚之助は 戸籍を作成するとき、

山本八重の名前を書かなかったのではないか、

と言われていた。が、 

斗南藩に移る際に、尚之助が 八重との 

離別を 了承していたことが 明らかになった。

正確な時期は不明。

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不審な男と 協力したという 間違いはあったが、

外国人から手形を取り戻したり、

家族や斗南藩に被害が及ばぬよう配慮したりと、

聡明な人物だったことは うかがえる、

そうな。

川崎尚之助の波乱な生涯を 八重は知っていた か 

それは 謎のままだ と。

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以上、知りえた 情報を 記載した。

出石の 車夫さんへの わたしの 挨拶句としたい。

2017・1月17日  ( 火   記 

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