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気配りの仕方2 「気が利く人は、イベント・ドリブン方式を身に着けている」

2008-11-11 23:55:34 | 考え中
前に書いた時にはぜんぜん違う方向に進んでいたのだけれど。その後、以下の記事を思い出した。

Life is beautiful: 優秀な主婦はイベント・ドリブン(event-driven)方式でパンを焼く
もう少し応用を利かせるならば、フローチャート方式をイメージする方が良いかもしれない。あるイベントが発生したらこうする、そうでないうちはこれをする、という一連のステップがある。私の自然な感覚としては、どうしても一つのプロジェクトが完了するまでずっとそれに捕われてしまい勝ちだ。作業の途中で目を離してその間にトラブルがおきるのではないかという不安や、集中が途切れることで作業中だったことを忘れてしまうのではないかといった不安がある。しかし、イベント・ドリブン方式、フローチャート方式では、エラーが発生していないか、作業の続きを忘れていないか、のチェックポイントが設定されているので心配せずに別の作業に没頭できる。

ここで、実際の生活で無意識のうちに誰もが行っているような気配りの例があげられると伝わり易さも増すのだろうけれども……思い浮かぶものがオフィスでの文房具の配置についてだったりとか、頼まれた買い物の品が見つからないときだとか、飲み会などの席で仲間が粗相をしたときだとか、なんだか書いてみるにはとても陳腐な気がして、大げさに書きたてていることが恥ずかしくなるので割愛。ケーススタディとして、自分がした・された気配りを振り返ってみて、別途またリストアップしたいと思う。

この方式で一連の作業を理解すると、どのようなイベントがどのタイミングで行われるのか、同じ作業をしている他者の動きの先々まで順序よく予測することができる。それだけでなく、自分の視界にいない相手の未来の動きが予測できたり、未確定の未来における不特定の誰かの行動すら、このルールに則ることで予測精度が格段にあがる。ただ、ここは多分重要なポイントで、精度が上がることで、無数の選択肢からたった一つの正解をピンポイントで選び出すという判断に繋がるとは限らないってこと。むしろ、気配りがより効果的に作用するのは、相手も予想しえなかったトラブル発生時である。だから、相手よりも多くの可能性とその対処法を準備して(無駄を承知で)控えているということになる。一つを選ぶのではなくて、別のルートを予期して選択肢を増やす方向で予測は働いていると感じる。このように相手の動きが予測できれば、次イベント、さらに先のイベントに関わる必須のアクションをサポートする発想も可能になる。

一般的に、習熟するとは、このイベント・ドリブン方式で動けるようになることを指しているのではなかろうか。マニュアルどおりではない融通の幅や、文字や絵でもなかなか伝えられることのない微妙なTipsだとか、そういう表現の外にあるものを捕らえられたとき、初めて自分のものにした、マスターしたといえる。余談になるが、言葉では伝えにくい部分を伝達しようとする試みはもちろんなされている。身近な例では「ライフハック」と呼ばれているものが相当するだろう。

良いマニュアルやレシピ本は、このポイントがきちんと示されているものだと思う。自分でそれを作れる人は、論理的思考法ができる人でもあるのだろう、ロジックツリーを作り上げる作業によく似ているようだ。でも、それだけでは気配りをする行為の動機付けには不十分なので、むしろ自分が気になるのは、その前段階での意識下での心の動き。そもそもなぜ他人に気を配るのか、さらに言えば、なぜ自分以外の行動に干渉しようとするのか、そのきっかけはどこにあって、それをどのように脳内処理すれば、気配りという行為(に対する欲求)が発露するのだろう。

何らかの利益を狙って気を配ることはもちろんある。単純なものでは、相手が嬉しいと自分も嬉しいという構図。相手に好感を持たれることで自分に有利なバイアスがかかること、逆に相手の機嫌を損ねないことで、不快な空気を共有せずに済むことなども、私の中に認知できる心理だ。即物的な見返りだけでなく、共感という見返りがあるので、このような心理が発生するのも充分本能に沿っているように思う。けれど、もっと自然で、無意識な気配り行動をとっていたり、自分が意図しないけれど相手にはそのように受け止められたりということもある。意図しないといっても、目的とは違った用途で活用されるというニュアンスではなくて、相手の利益を意図しない、純粋な自己の習慣として何も考えずにそう振舞っていた、という意味。ややこしいけれど、相手を自分の思い通りに動かそうとする意図を持たずに、相手の行動をコントロールする行為と言える。

間接的な気配りはさらにややこしい。親から子へマナーとして躾けられること、強制力こそ持たないがローカルなルールとしての地域の慣わし。それを伝えられて実行する者には動機としての気配りの欲求は低い。それでも別の誰かをサポートする気配りとして表れる。

成長の過程では人は実に様々な作業をこなすスキルを身に着け習熟していくものだ。そして、自らの気配り行為に対して、どのような姿勢(心理状態)で臨むかについても、習熟が得られるように思う。初期段階では、相手が「ありがとう」と言ってくれることや、笑顔を見せてくれること、自分を褒めてくれるといった、相手の見返りを期待する気持ちが強い。気配りを意識するきっかけとして、気配りをすれば良いことがあるという、行為の動機付けになっているように思う。

しかし、年齢を重ねたり、あるいは同じ行為の繰り返しによって、周囲から「こいつは気配りのスキルがある」と認識されるに従って、期待したほどの見返りが得られなくなってくる。そこでモチベーションを失って気配りトレーニングから降りる人もいるけれど、引き続き気配りを意識し続ける人もいて、そのような人は、見返りに対する期待値を下げて臨むようになる。そのプロセスが長く続けば、いよいよ一切の期待を持たない境地に近づいてくる。さらに、状況を認知して自分が気配りできる(干渉できる)ポイントを見つけるところから、利益やリスクの勘定を経て、実際の行動に移るまでの一連の流れで、判断のプロセスがショートカットされて、もはや、体が覚えている反射的なリアクションとして、自らの心と体の動きに身を任せるといった状態になる。

どうも最終的に、脳の判断を経ずにより直感的に損得を判別し行動できるようにと、ヒトはプログラムされているのではないかと感じる。それが最も判断のコストがかからずに済むからではないかと思う。人が操作されやすいのもむべなるかな。それにしても、ヒトは思考することで他の生物より有利に生きているように思えるのに、何においても考えずに済む方向へと向かうのはなぜなんだろう。恐らく自分だけではなくて、かなり多くの人間がそういう性質を持っているように見えるのだけれど。そんなことも、ぼちぼちとこれから考えてみたい。

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