十二神将最強にして最凶の闘将たる《煉獄の将》紅蓮(騰蛇)と中宮・彰子としての偽りの人生というレールの上を歩むことを強要される憐れな傀儡の章子姫。
生涯消えぬ呪詛を己が死して後も彰子の内に遺した窮奇の執念には恐れ入ります。しかし、生涯消えぬ呪詛を宿していても恋する昌浩に添い遂げられる自由気儘な人生を手に入れて、むしろ、窮奇の呪詛を受けたことは“渡りに船”の彰子と違い、昌浩にも晴明にも父・道長にも、同年同日の異母姉妹の彰子にも、己を取り巻くすべての人間どもが一人残らず“どうでもよい存在”のままで章子を退場させるなんて結城先生は無責任すぎます。
章子側から見れば腐れ外道でしかない彰子の身代わりに《中宮・彰子》として偽りの人生を押し付けられた章子を主役に据えた彼女が幸福になるお話を、そして、窮奇編で呪詛の肩代わりをしたと知ったら彰子を殺してでも己を守ろうとするに違いないと決めつけ知られてはならないと晴明と結託して紅蓮を蚊帳の外に追い出し、事実を隠蔽して紅蓮の力だけを頼り彼の心を信じなかった昌浩が己の非を悔い改めて紅蓮に謝罪するお話を書いて欲しいわ。
あのままで、昌浩が紅蓮を信じているとか、タヌキ爺が《朋友(とも)》だと思っているだとか書かれても嘘八百でしかありませんし、《輝ける藤壺》と謳われ華麗なる宮廷文化を創り上げ指導力に欠ける藤原頼通(幼名★田鶴)に代わって藤原一門を率いる偉大なる女性になるなんて、今のままでは無理だと思います。と言うか、誰が信じようか?
しかし、“理”のために存在しているわけではないのです。“理”のために生きているわけでもないのです!それなのに、“理”を犯した裏切り者といつまでも“理”を盾に紅蓮を罵り敵視するあまり天狐編で己の姉・晶霞(しょうか)とその息子である晴明(CV=麦人)の命を狙う凌壽を侮り天界に引きずり込んで逆に返り討ちにあった勾陣(CV=早水リサ)を救えるのは十二神将最強にして最凶の闘神たる《煉獄の将》紅蓮だけなのに“裏切り者なんぞに!”と己の抱く憎悪を持ち出し、流石に十二神将を束ねる任を務める天空の逆鱗に触れ“黙れ!青二才!!”と雷鳴のごとき一喝をぶつけられ瞬殺されてしまい、他の十二神将はそんな青龍に呆れてしまいます。同胞を真に案ずるならば天空の紅蓮にという言葉や紅蓮の存在に異議を唱えるのは間違っています。
それ以前に、晴明が己の後継と定めた昌浩(CV=甲斐田ゆき)を認めず、紅蓮を信頼し彼が守るということに・・・紅蓮が認めた存在という理由で、彼に関するものは晴明の命に背くという主に対する背反行為を犯す青龍(CV=森川智之)が何様と言わんばかりの醜態を晒すのにはうんざりします。
それにしても、中途半端に終わったアニメが再び製作されて欲しいと思っていますが、天狐編は紅蓮の記憶が戻る『真紅の空を翔けあがれ』はともかく、本格的な天狐編の第1巻とも言うべき『光の導(しるべ)を指し示せ』では高龗神が紅蓮を罵倒しているし、天狐編全編で昌浩と晴明が二人揃って紅蓮を含めた十二神将を無意識下で蔑ろにしているので嫌いです。
中宮とは女王の座に就いた者のことを意味する。だからこそ、あんないい加減な、昌浩の仕打ちを受けた後に一条帝がほんの少し優しい言葉をかけたくらいで幸せになる未来をカケラも窺えない顛末で片づけないで欲しい。
小学館キャンバス文庫の《クリセニアン年代記》シリーズの中盤から躍り出て無能な皇帝シェスラの正妃となってリンバーグ皇国の舵を我が物とし、ルルル文庫に移っての続編《クリセニアン夢語り》シリーズでは既にリンバーグ皇国は彼女無しには成り立たぬほどに重要な存在となっている事実上のリンバーグの女帝となった皇后ラリッサのように、章子にも《藤壺の中宮》彰子として偽りの人生を押しつけられても、それを真実の己自身の人生に作り変えて生きる強さを身につけ生まれ変わって欲しいです。
辱めに震える躰の底で、愛してると祈る。愛してる。
水の神の一族、睡蓮は、美貌に似合わぬ峻烈で真っ直ぐな気性ゆえ、一族を窮地に追いやった水月の国を憎んでいた。だが、一族を救うために降りた人間界で、水月の国の王、獰猛な瞳の泰山に狩られてしまう!水の触手で捕らえられた睡蓮は秘儀の生け贄とされ、無垢な体の奥まで淫欲を注ぎ込まれる。自ら生み出した宝玉で縛められ、性奴とされて、恥辱と法悦にまみれながらも心は堕ちまいとする睡蓮だが、仇である泰山に思いがけず命と心を救われ……。憎悪の狭間に芽生えた執愛の行方は!?
凌辱をしでかす輩は白夜書房&コアマガジン&角川文庫で出版された山藍紫姫子『アレキサンドライト』で子宮のない不完全な両性具有の主人公シュリル・アロワージュ・エレオノールを監禁し凌辱を繰り返した挙げ句に無理遣りに結婚しようとした愛と征服欲を混同したラモン・ド・ゴールのように、そして、劇場アニメ版『妖獣都市』(劇場公開:1987年4月25日)で魔界側の<闇ガード>麻紀絵(CV=藤田淑子)を自分の言いなりにしようとして凌辱した嘗ての恋人ジン(CV=戸谷公次)のように“体さえ奪えば心も手に入る”と錯覚しているタワケばかりです。プラチナ文庫のあさひ木葉&樹要『虜は愛に身を焦がす』で主人公である月湖族の愛妃・睡蓮を拉致監禁した水月の国の国王・泰山も最初はその一人でしかありませんでした。
憎しみの応酬を繰り返してきた月湖族と水月の国の王家ですが、私はどちらかというと人間側が…水月の王家が悪いと思います。 月湖の漣から生を受けた月湖族は、涙が結晶化して宝玉と化す《泪宝玉(るいほうぎょく)》を生む男ばかりの神族です。王侯貴族か商人を含めた庶民かは不明ですが、とにかく、月湖族が生み出す《泪宝玉(るいほうぎょく)》に目が眩んだ男が月湖族の若者を騙して殺したせいで“憎悪の連鎖”とそれによる悲劇が繰り返されてきたのです!つまり、水月の国の人間にこそ償うべき罪があるのですから!!自分たちの罪を遠い棚の彼方に放り投げて月湖族を恨むなんて筋違いにも程がある。
10年の歳月が流れようとも、その衰えることを知らぬ輝ける美貌と求婚者たちの数が伝承や物語と同じ5人であったことから《なよ竹のかぐや姫》と謳われる美姫・篤子(すみこ)を妻(さい)としたのは『少年陰陽師』の主人公・安倍昌浩の14歳年長の長兄・成親(なりちか)でした。現在では数え年6歳(満5歳)の長男・国成(くにしげ)、数え年5歳(満4歳)の次男・忠基(ただもと)、生まれたばかりの長女<小姫>(これは呼称で、名前は不明)の二男一女を儲けて幸福な家庭を営んでいます。
篤子がしつこい輩に言い寄られ困り果てていた時、二人は巡り逢いました。当時、男の身勝手さにすぎない“浮気は男の甲斐性”という言い訳を振りかざす不実な輩の中の一番のタワケに呪詛をかけられて篤子は苦しんでいて、他の女房(にょうぼう)や雑色(ぞうしき)どもは言い寄る輩に懐柔されて頼りにならず、味方は篤子の父・藤原為則(ふじわらのためのり)と篤子に絶対の忠節を尽くす女房の真砂(まさご)、そして、後に昌浩の加冠役を務め彼の後見人となる篤子の幼馴染の藤原行成(ふじわらのゆきなり)だけという、四面楚歌の苦境に陥っていたのです。
精霊のような存在で、十二神将としての生は…現在の姿形と性状は人間たちが思い描くイメージを具現化して与えられたから人間を親とするとはいえ、その十二神将としての形よりも前に紅蓮たち自身は人間とは無関係の末端とはいえ神なのです!人間ごときより格下に描く結城先生の神経を疑いますね。何故、人間ごときに及ばぬ底の浅い存在みたいな非難をされなければならないの?昌浩や晴明は紅蓮たちよりも心の深みが浅くて、愚かなのに。
日本でも五指に入る高龗神から見れば十二神将は神とはいえ末端の下の下だからって酷すぎます。愛する者のために出来ることがあれば何でもしたいと思うのは当然なのに、何故、罵倒されねばならないのか?
バトル重視で精神攻撃には為す術もなく屈服してしまう呆れた設定の『少年陰陽師』なのでガッカリです。十二神将最強にして最凶の闘神たる《煉獄の将》紅蓮(騰蛇)ですが、心も戦闘力も強いという設定がどうして結城先生は出来ないのか?
魂を消滅させられ、肉体を黄泉の屍鬼に乗っ取られ、紅蓮の心無き肉体は屍鬼の魂と共に昌浩が討ち果たすという風音編のラストは悲劇で盛り上がった人が多かったようですが、紅蓮を為す術もなく消滅したキャラに貶められたことに気づかないおバカばかりなのね。
第1部「窮奇編」の問題点は『少年陰陽師』の主人公・安倍昌浩(あべのまさひろ)の育ての親であり、もう1人の主人公である十二神将最強にして最凶の闘将たる《煉獄の将》紅蓮(騰蛇)に、昌浩と彼の祖父であり紅蓮の現在の主・晴明が結託して隠し事をしたことです。信頼というモノを結城光流(ゆうき・みつる)先生はあまり重要視していないように思わざるをえないくらい、なし崩しに物語を進めてしまっていますね。
第1部の完結巻『鏡の檻をつき破れ』P.171“昌浩の気持ちは痛いほどよくわかる。だが紅蓮は、その想いよりも何よりも、昌浩自身が大切だった。そして昌浩は、貴船の件でそれを痛感していた。紅蓮は、他の何を捨てても昌浩を選ぶ。彰子の呪詛を昌浩が受けたと知れば、その術を破って彰子に呪詛の全てを返すことくらいやってのけるだろう。昌浩のためになら、どんな犠牲も紅蓮は厭わないのだ。それがわかるから、紅蓮にだけは知られたくなかった。”とあるように、昌浩は紅蓮をまったく信じていません。自他共に紅蓮を信頼しているかのように錯覚していますが、昌浩は紅蓮をカケラも信じてはいないのです!肝心な時に信じないでは何の意味もありません。
出来れば、やらない方がいいけれど昌浩は彰子の呪詛を肩代わりして形代になりたいと晴明に懇願し、密かに呪詛の形代になりました。それ自体はあまり問題はなかったのです!本当に問題だったのは紅蓮に隠蔽したことです!!もしも、自分が彰子にかけられた窮奇の呪詛を我が身に移して形代になったことを紅蓮が知れば、術を破り彰子に呪詛を返して殺してでも昌浩を守ろうとする、と全身全霊で尽くし我が身を盾に守ってくれる紅蓮を騙したのです。
未来永劫、昌浩に恨まれても彼の恋する少女を殺し守ろうとしたに違いないと知った上で、それでも紅蓮を信じてこその信頼ではないでしょうか?昌浩のために世界を破壊し、全ての人間を殺してまでも愛してくれるなんてこれ以上の至福はありません。そこまで一途に愛し守られて何が不満なのか!
主である晴明までもが隠した方が良いと判断して紅蓮の心を踏み躙ってしまった。本来ならば、“昌浩や。紅蓮の力のみを頼り、その心を信じぬのか?確かに、お前に恨まれ永遠に赦されずとも彰子様を殺してでもお前を守ろうとするかもしれんが、それを知った上で…そんな紅蓮を丸ごと信じてこそ真の信頼ではないのかな?紅蓮は心をこめて助力を請えば、必ずや応えてくれるぞ。”と晴明は呪詛の形代になる時に昌浩の愚を諭すべきだったのに、逆に結託して己自身までもが紅蓮を信じなかったのです。
七十路に至っても未だに精進が足りないタワケですね。紅蓮たち十二神将を《朋友(とも)》と思うとか口では言いながら、晴明自身が《朋友》失格です。嗚呼、情けなや。