生活を圧迫する教育費 2007-08-08 23:58:35 | その他 「授業料、待ってください。」 大学出ていないのは服を着ていないも同じとする社会常識。失業産業とも言われる専門学校。教育しないと人間にはなれないという学校教育依存社会。青少年の学校への社会的隔離はいつ終わる? 〈2008.8.11文章を一部訂正しました。大意に変わりありません。〉 « ビニール入りの | トップ | 我ある、ゆえに我思う »
4 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 苦しみ続けるなら (jiji) 2007-08-11 10:10:46 うーん、社会常識とは思いませんが、ワタリさんのBLOGを拝見していると、「大学を出ていない」ことへの思いで、本当に本当に苦しんでいるように見えます。大変だとは思いますが、思い切って大学に入ってみるのも選択肢だと思います。奨学金を受けて働きながら定時でという手もあります。関西なら大阪大学、神戸大学、滋賀大学はじめ、定時もかなり充実してます。http://www.jasso.go.jp/index.htmlhttp://www.rena.gr.jp/main/yakan/md2005.html#4 返信する 主観ではなく客観 (ワタリ) 2007-08-12 05:13:04 jijiさん、コメントありがとうございます。大学を出ていないと就職に大変不利であることは、たとえば本田由紀さんが統計データも含めて主張しておられます。ある中部地方の4年生大学を卒業した方にお話をうかがったのですが、企業による合同就職説明会で、50件中2件しか高卒でもOKの会社はなかったということです。つまりこれは、大卒者が非大卒者を搾取するという構図の社会・経済問題なのです。大卒者から非大卒者への侮蔑の日常語、それが例の「大学出ていないのは服着てないも同じ(哄笑)」です。したがって、これは個人的な問題ではなく、社会的な問題です。それから、わたしがどこかの大学に行っても、別の誰かがそこから排除されて、グッドウィルでこきつかわれるのなら、社会問題の解決にはならないですね。実際には定員というものがありますから。そもそも大学は、一部の特殊な人が行くというのでいいと思うのです。授業料も高くても結構。高卒や中卒の人から徴収した税金で、大学の授業料を無料化するという大学中心主義は、あってはならないことだと考えています。それに、わたしは奨学金という借金を作りたくありません。返済に苦労している別の派遣アルバイターも知っているので。大学はわたしの死生感ともそぐいません。わたしは、なるべく納得・満足のいくことをして、いつ死んでもいい生き方をしたいと願っています。そのために、おおむね博士号をとるまでは知的に一人前とはみなされず、見知らぬ明日のために今この瞬間に生かされている・生きている神秘をぶちこわす大学には行きたくないのです。たとえ1000億円あげると言われても、大学には行きたくない、その権利を守るべく闘いたいのです。十代のころになくなったわたしの父は、理系の研究者でした。彼は、旧七帝大で博士をとり、その教育投資をやっと取り戻せると歳に、ガンでなくなりました。いささかロリコンめいたところがあり、いじめには鈍感で、知識はあっても感情がわからないタイプだったと思います。わたしは、そういった人間にはなりたくないのです。家の圧力によって入れられたもうひとつの座敷牢としての予備校は、知識中心の教育のおぞましさを学ぶ場でした。一度はいくつかのフリースクールで、知的障害の子とともにすごしたわたしにとって、また労働者階級の文化に関心を抱くわたしにとって、そこは地獄だったのです。知識以外何も価値がない世界は、まともではありません。そこの国語講師は、第三世界の少年兵が恐怖をまぎらわすために麻薬をやらされていることを、自由でいいと言い張っていました。また、彼は戸塚ヨットスクールの熱心な支持者であり、同時に労働組合否定論者でもありました。絶対にそんな科目、それに知識中心主義を信用したり好きになったりするものか、と思わさたものです。今は、コンピューターの専門学校に通っています。学校的な雰囲気は薄く、大嫌いな文系の教養科目もありません。知識よりも実務のための技術中心のカリキュラムは、学校や大学とは違ってわたしにとって毒ではありません。本当は十五のときに、こういうところに来たかったのに、と思われてなりません。それにわたしは、イリイチという文明批評家を通じたカソリックの影響により、苦しみをマイナスとはみなしません。苦しんで苦しんで分かることがあるのなら、それは喜びであり、恵みです。もしもまったく苦しみがなくなったなら、人生は味気ないものになってしまうのではないでしょうか?苦しみを知らないものは、人をプラス評価できません。同時に連帯もできないのです。 返信する どうか (jiji) 2007-08-15 12:05:40 ワタリさん丁寧なご回答をいただきありがとうございます。ワタリさんがそこまで考えていらっしゃるなら、何も申せることはありません。変な心配をし、申し訳ありません。ただ一点だけ。どうか、幸せになってください。ワタリさんはきっと、自分自身が幸せになるために、もっとワガママになっていいと思います。あとどうか、お体だけには気をつけて下さいね。応援しています。 返信する ありがとう (ワタリ) 2007-08-26 04:06:49 jijiさん、暖かいお言葉をいただき、感動してしまいました。もっとワガママに…という指摘、鋭いです。jijiさんの人生も応援しています。 返信する 規約違反等の連絡
大変だとは思いますが、思い切って大学に入ってみるのも選択肢だと思います。
奨学金を受けて働きながら定時でという手もあります。関西なら大阪大学、神戸大学、滋賀大学はじめ、定時もかなり充実してます。
http://www.jasso.go.jp/index.html
http://www.rena.gr.jp/main/yakan/md2005.html#4
大学を出ていないと就職に大変不利であることは、たとえば本田由紀さんが統計データも含めて主張しておられます。
ある中部地方の4年生大学を卒業した方にお話をうかがったのですが、企業による合同就職説明会で、50件中2件しか高卒でもOKの会社はなかったということです。
つまりこれは、大卒者が非大卒者を搾取するという構図の社会・経済問題なのです。大卒者から非大卒者への侮蔑の日常語、それが例の「大学出ていないのは服着てないも同じ(哄笑)」です。
したがって、これは個人的な問題ではなく、社会的な問題です。
それから、わたしがどこかの大学に行っても、別の誰かがそこから排除されて、グッドウィルでこきつかわれるのなら、社会問題の解決にはならないですね。実際には定員というものがありますから。
そもそも大学は、一部の特殊な人が行くというのでいいと思うのです。
授業料も高くても結構。
高卒や中卒の人から徴収した税金で、大学の授業料を無料化するという大学中心主義は、あってはならないことだと考えています。
それに、わたしは奨学金という借金を作りたくありません。返済に苦労している別の派遣アルバイターも知っているので。
大学はわたしの死生感ともそぐいません。
わたしは、なるべく納得・満足のいくことをして、いつ死んでもいい生き方をしたいと願っています。
そのために、おおむね博士号をとるまでは知的に一人前とはみなされず、見知らぬ明日のために今この瞬間に生かされている・生きている神秘をぶちこわす大学には行きたくないのです。
たとえ1000億円あげると言われても、大学には行きたくない、その権利を守るべく闘いたいのです。
十代のころになくなったわたしの父は、理系の研究者でした。
彼は、旧七帝大で博士をとり、その教育投資をやっと取り戻せると歳に、ガンでなくなりました。
いささかロリコンめいたところがあり、いじめには鈍感で、知識はあっても感情がわからないタイプだったと思います。
わたしは、そういった人間にはなりたくないのです。
家の圧力によって入れられたもうひとつの座敷牢としての予備校は、知識中心の教育のおぞましさを学ぶ場でした。
一度はいくつかのフリースクールで、知的障害の子とともにすごしたわたしにとって、また労働者階級の文化に関心を抱くわたしにとって、そこは地獄だったのです。
知識以外何も価値がない世界は、まともではありません。
そこの国語講師は、第三世界の少年兵が恐怖をまぎらわすために麻薬をやらされていることを、自由でいいと言い張っていました。また、彼は戸塚ヨットスクールの熱心な支持者であり、同時に労働組合否定論者でもありました。
絶対にそんな科目、それに知識中心主義を信用したり好きになったりするものか、と思わさたものです。
今は、コンピューターの専門学校に通っています。
学校的な雰囲気は薄く、大嫌いな文系の教養科目もありません。
知識よりも実務のための技術中心のカリキュラムは、学校や大学とは違ってわたしにとって毒ではありません。
本当は十五のときに、こういうところに来たかったのに、と思われてなりません。
それにわたしは、イリイチという文明批評家を通じたカソリックの影響により、苦しみをマイナスとはみなしません。
苦しんで苦しんで分かることがあるのなら、それは喜びであり、恵みです。
もしもまったく苦しみがなくなったなら、人生は味気ないものになってしまうのではないでしょうか?
苦しみを知らないものは、人をプラス評価できません。同時に連帯もできないのです。
丁寧なご回答をいただきありがとうございます。
ワタリさんがそこまで考えていらっしゃるなら、何も申せることはありません。変な心配をし、申し訳ありません。
ただ一点だけ。
どうか、幸せになってください。
ワタリさんはきっと、自分自身が幸せになるために、もっとワガママになっていいと思います。
あとどうか、お体だけには気をつけて下さいね。
応援しています。
もっとワガママに…
という指摘、鋭いです。
jijiさんの人生も応援しています。