なぜ連帯は難しい?
(この記事は、ハラナ・タカマサさんのコメント欄へのレスです。)
ハラナさんは、「良平等」を目指す連帯がとても難しいとおっしゃる。
これを問題の糸1とします。
さらにもうひとつ、消費者も含めて労働条件切り下げの共犯者だと指摘している。
こちらを問題の糸2とします。
まずは問題の糸1について。
日本の場合、ロス暴動までも行っていない。抑圧や排除や不正への怒りが市民権を得ていません。
本田 由紀さんもシンポジウムでおっしゃるように、おかしなことに対して怒っていい、批判してもいいという雰囲気がない。
いや近年、加速度的に減少している。
それ自体広い意味をなす「自分探し」が一律に愚かでいけないことだとされる。
ホントにいるのかと誰もが耳を疑うであろう「分数のできない大学生」や「自分の勤めている会社の漢字も書けない期間工」が問題とされています。「凶悪」で「キレる」青少年が主観的ムードとしては急増したということです。
オタク趣味は犯罪のもとで、インターネットというコンビビアンシャルなツールが、軽んじられたり見下されたりされる。
子ども・若者が自主的に、あるいは必要にかられてやっていることはすべて悪とされるかのようだ。
もちろん、これにジェンダーや民族などの要素も加わり、それぞれの属性ごとに、叩きがある。社会的地位の近いマイノリティ同士が、互いに叩き合う状況が生まれているのも確かな事実です。
おそらくある種の情報操作によって、互いについて実際以上に悪いイメージが注ぎ込まれていることもあるだろう。理想的な「勝ち組」以外はみんなダメ、といった印象操作に巻き込まれているのだ。
「特に支部幹部は人種間のマクドウェルはたまたま出席した女性支部の会合で、象徴的な光景を目撃している。終了に際してアイリッシュの女性議長が何か苦情はないかとたずねたとき、ひとりの若い黒人女性が自分を侮辱したポーランド人女性を告発した。女性議長はふたりを前につれてきて、次のように訓戒する。
さて、ふたりとも、どうしてここにひっぱりだされたか、わかる?
かの女はあなたを黒ん房と呼んだ。
あなたはかの女をポーランド野郎と呼んだ。
お互い辱めあったわけ。だから、ふたりの責任なのよ。
でも、わからなくって? これがあなたがた二人だけの苦情ではなくて、ここにいるわたしたちみんなの苦情だってことが。」
(松田 裕之「労働者文化の胎動ーー精肉都市の光と闇 」清風堂出版 1999PP130-131)
注)マクドウェルは「ジャングル」の作者シンクレアの取材に協力した労働運動活動家。
こうした努力にもかかわらず、人種間の対立・分裂は完全には収まらず今日に至っているわけです。
この支部長の言うことは大所高所の見方としては正しい。
だけど、まず苦情を言える環境がなきゃ、困った実態が表に出ないし、自分が自分を知る、政治的に目覚めることもないわけです。
で、組合を通じて何か社会を考えたり目覚めたりすればいいのですが、実際にはそうはならない。
むしろ大手を中心とした組合が、民主主義の芽生えをつみとっているのではないでしょうか。
シンクレアの「ジャングル」に次の記述があります。
“Also the union made another grate difference with himーーit made him begin to pay attention to the country.It was the biggining of Democracy with him.It was a littele state,the union,a miniture republic; its affiars were every affere, and every man had a real say about them.In other wards, in the union Jurgis learned to talk politics. ”
(Upton Sinclair “Jungle” Rondom House Inc. The modern library classsics New York 99p)
残念ながら日本の場合は組合があまりにも知識詰め込み型、フレイレ風に言えば「銀行貯蓄型」の教育をやりすぎています。
なので、自分について語ることや知ることが、政治意識となり、認識になるような環境はありません。
もうわたしは行かないことに決めたのですが、「研究会・職場の人権」ともなると、そこの代表やその友人が自分について考えること=自分探しがいけないとか、インターネットというコンビビアリティのための道具を学習ネットワークではなく偽者の人間関係だといいはるまでになっています。
狭い地域の中に小学校・中学校・高校があり、すべてのハイアラーキーが人目にさらされてしまう。同じ業界であっても会社によって仕事の手順が違いすぎる。その職場密着主義のために新卒以外は社会的排除のプラセスに組み入れられる。
それに抵抗しようとしてむなしい努力を重ねてきた自分の人生、またいろいろな事情で学校を追われて学校・職場・地域の共同体から排除される友人たちがいる。自分たちをさらに泣かせおいつめることを言う代表が仕切る団体などわたしの味方ではありません。
むしろたとえばPOSSEのような若い世代の作った労働NPOのほうが、対話を重視しているように、小さな共和国のように、民主主義のあかつきのように見えます。
ただしNPOの場合は労働組合とは違って、労働組合法による刑事免責が適用されません。また、不当労働行為を受けない権利もありません。
できれば、若い世代が上の世代とは切れた形で組合を作って活動できれば一番いいと考えていますが、どうでしょうか。
実際には、アメリカの労働組合は、ネイティブ・アメリカや黒人に不利な解雇ルールを作り上げてきました。長く勤めたものから解雇されないですむというのは、労働市場にもっとも後に雇われるグループには泣いてくれということです。
日本でも、組合は日本人の健常者の50代男性の正規雇用者だけを守る傾向があります。それ以外のジェンダー、年齢階層、エスニシティそれに地区などは、おおむね守られないできたのです。
この苦しみのなかで、たとえば赤木智弘さんの紙雑誌「論座」1月号の記事のように、戦争に平等化の幻覚を求める危険な状態も生まれるわけです。
やはり、一度はこうした苦しみの声を表に出す必要があるのではないでしょうか?
出したあとにこそ、「それはわたしたちみんなの苦情なのよ」と言えるのだから。
そしてそれは、若い世代独自の苦しみを理解も尊重もできない識者の無知や、テレビ報道の偏向をあぶりだし、是正への道筋を照らすのだから。フレイレ風に言うと「意識化」です。(じっさいには暗記だけではなく生きいきと理解するというニュアンスもこめて「認知化」「認識化」と考えてもよい。)
次に問題の糸2について。一部のネオコンばかりか消費者までもが労働条件切り下げの共犯者という主張ですね。
あまりにも困っている人について無知で、横暴な話ではないでしょうか。
思い出します。テレビも本もなく、ただ面接のために生きていたような、日々を。
ふとショウウインドウに移った姿を見ると、やせ細って、背まで低くなったように錯覚してしまう自分がいました。わたしは親福祉を受けることによって、いわゆる「ニート」と罵倒される状態になることによって、労働法などを読む時間を手に入れました。
だけどそれを使えない状態の人にどうして政策責任があるのでしょうか。
労働者派遣法が成立したとき、わたしは15歳でした。今33歳のわたしがこう言うのです。今の27歳のアルバイターが10歳のとき。23歳の派遣従業員が5歳のときの出来事です。
それについてまで「若い世代の自己責任」を唱える労働組合アクテイヴィストーー財界から裏金でももらっとんのかいな!--に加担することはできかねます。
「わたしたちみんなの苦情なのよ」という話だって、民族的な文化やアイテンデイティを否定・後退・弱体化させかねない危なっかしい発言です。意図によっては、単なる口封じ、苦痛を訴えることへのかん口令としても機能する。
それをわかったうえであえて作戦として唱えるのならともかく、そうでなければ相手の死に物狂いの抵抗と、多方面からの疑念・反発を覚悟せねばならないでしょう。
赤木さんと連帯して、世代にこだわりますと、本当に、2箇所も3箇所も職場や派遣会社をかけもちしつつ、働きすぎて疲れ果てて倒れる寸前の若い世代がいます。体は骨の上に最小限の筋肉や皮がかぶさっている状態で、まるで減量中のボクサーみたいな体。
うつで思考力・集中力も低下している。仕事が終わったらなんとか家にたどりついて、あとはバタン・キュー。
夜になっておなかが減って目覚めたら、コンビニか24時間やっている百円ショップにでも行くほかない。体力は大事なので、疲れた体にムリにでもエネルギーをつめこむ感じ。そんな生活をするうちに胃が荒れて、胃腸薬が手放せなくなる。おかゆの食事でさえも残すこともある。そんな人にも責任があるという議論などやはりついてゆけない。あわそうとしてもあわせきれない。みなが都市中産階級でおまけに安定雇用で時間の融通の効くインテリさんでしかもリベラル~左派系ならともかく、実際にはムリな相談です。
特に生活がかつかつではそんなことをしていられません。わたしも弟も、「本を買うのはムダな支出だからやめろ」と親に圧力をかけられながら情報にアクセスしています。
職場では、汚いこと、上の人間の尻拭い作業をえんえんとやらされる。オヤジどもがミスったことを、「うちの女の子が~」「入ったばかりの若いもんが~」と電話口等で言っているのはイヤというほど聞きました。また、他の同世代のブロガーと話していても同じような状態が彼の働く業界にも普通だという情報がありました。
働く人はおおかた苛立って爆発寸前だったり、感情鈍磨になっていたりする。または、半泣き状態だったり、ヤケクソ気味だったり、頭をかかえていたりする。
親の援助があるか宝くじでも当たらないかぎり、この失業ー反失業地獄からは抜け出せません。そしてたいていの場合、親は自己責任論に染まって若い世代やフリーターをバッシングしているのです。
派遣の仕事は辺鄙なところに行ってロボット的な「単純作業」ばかりです。当然、疲れもあいまって口数は減り、文化・教養からどんどん遠ざかっていきます。それを差して、「自然じゃない」「コミュニケーション能力が低い」「おつむが弱い」「甘えている」「自動車工場・半導体工場の話は被害妄想」などと一部の正社員や識者たちは言うのですよ。なかにはそういった批判的訴えを「不幸自慢・不幸競争」と揶揄・嘲笑し、かん口令状態を作り上げる差別的なライターさえいるのです。
それには苦情を言ってもいいと思います。まずは言える雰囲気づくりです。
だいたいは、十代後半や二十代初頭のことからそういう環境だと、他のホワイトカラーや正社員と比してどのように異なるか、検討しようもありません。
わたしは親福祉を使って本を読んだり研究会に行ったりしたので、どんなふうにおかしいかかろうじて分かった。けれど、他の人も同じ条件にあるわけじゃありません。
ちなみに、わたしは途中から親福祉が切れるまで「ナマケモノ」として生きることにしたために、ブログなど建てています。ちょっと変わった本やサイトも見ています。だけど、これだってあと半年とか一年つづくかどうかです。もっと大変な状態の方もほかにいらっしゃいます。そういう人に消費者としての責任があるなどと口が裂けてもいえません。
政治的にここは、自分たちの責任を認めてはならないポイントだと考えています。
以前、ハラナさんの「安ければそれでいいのか」という記事を読んだとき、ほんねでは「ついてゆけない」「そんなのムリ」と思いました。
けれど、いつか自分がわうかの確率であっても中産階級の暮らしに戻れるのならば、そのときにはそうするべきだとうと考えて賛成しました。また、ブロガーとして孤立するのは政治的に避けたい事態でもあります。なので、わりと関心が近いサイトでつきあいのあるところですので、義理で賛成したのもあります。
わたしの場合は父がなくなるまでは、まあ中産階級の暮らしができた。十代のころ、消費者運動をしている人たちーーだいたい夫が一部上場企業などで年収1千万とか1千五百万程度は稼いでいた人たちーーの事務所を訪れたり、ミニコミを見せてもらったりしたこともあります。自然食品の店をぜいたくにも利用したこともあります。
なので、そういう主張がまあ分かるのです。
しかし年齢が低い、田舎のほうに住んでいるなど不利な条件が重なるほど、こうした意見にピンときたり、今では縁遠くなっても義理で賛成しておくといった余裕はないでしょう。
赤木さんが紙雑誌でホンネをぶちまけたとき、「そのとおり!」と無限大に叫びたくなったし、擁護したのもそういう事情からです。だって、民族やジェンダーへの罵倒や切捨てなんて組合オヤジも会社のオヤジもずっとやってきたことなのに、どうして若いものだけが苦しい立場でとりみだして訴えたら悪者扱い? ハラナさんも上の世代には甘いなあ。若い世代のフリーター的立場への理解があるようでいてないんだなあ。まあそういう5-60代の上の世代の男性と財界というのは今のところほぼ利害が一致しているようで、大学もどんどん企業の不採算部門としての研究・教育の下請け部門化しているとの声もあり、ハラナさんもまったく自由にものを書けるわけでもないだろうけれど。。。
そう感じました。
上からものを言う話ではなく、一人のフリーターとして若い世代として素直にそう感じたのです。
もちろん、ハラナさんが、労働のことについても旧教育基本法「改正」反対のときのような広い連帯を、と考えていらっしゃることは伝わります。
だけど、危ない発想であることもおさえておかなければ、労働者至上主義により、女性を、非日本国籍を、若い世代を組織がだましつつ引き回すことにしかならないでしょう。
組合が、これまで排除してきた人たちに対して、どれほどオープンになれるか、どれほど相手を尊重して誠実に接することができるか。
それが、これからの労働組合運動と社会的連帯の成否を握る鍵なのです。
ふたつめに、若い世代に「地域密着」とか言い出す。まさにその地域密着とか職場密着主義によって排除されているのに、また実際に地元に仕事がないので派遣の寮に入るのに、そうするのは自分の授業をよくきかない悪い子だからダメといわんばかりに、人前で大声叱責して恥をかかす。相手が不登校・フリースクーラーとしてのアイデンテイティを傷ついておいつめられて泣きだしても被害者意識いっぱいで、謝りもせず迷惑そうにしてばかり。まったく話にもなりません。(フリースクールは特定の学校・地域に密着しなくてもいいという考え方で成り立っています。そこを熊沢さんは、「フリースクール・ホームスクール・コミュニティに定着しろ」と言った。これはいろんなところをまわって自分にあったところ、少しでもいいところを探すというフリースクールの理念、個人の人格的自律権や幸福追求権へ蹂躙です。)
そのほか、そのルールをそのときカロリー不足だったのに自覚もなく、くるくると会社めぐりのための体力しか残っていなかったわたしの状態を見て知りつつ、「勉強しろ」と幼稚園入試の塾の講師のようなことをのたまう労働組合のアクテイヴィストの生存権軽視については以前も報告したとおりです。
そういう上の世代の組合を、組合を支援する学術団体を、若い世代は見捨てていいと思います。
定例会に行く交通費だけでも大変、お茶会への参加だけでも胃が痛む。そういう人がとうていアクセス不可能な一度で6千円とか三千円とか2千円もかかる食事会に人を誘う。断ると、「インターネットで遊びすぎて本当の人とのつきあいを知らない」と対等に人が結びつき、弱者にとって新たなビジネス・チャンスにもなりうる、学習ネットワークの理念から開発されたツールを侮辱・嘲笑する。
そのかわり、地域密着などというインターナショナルな連帯を破壊する文言など使わず、勉強しろなどと進学塾のような場違いなことは言わない。
知識つめこみ暗記よりも、自分の生活や職場について話すことによって政治意識を作ることが出来る。そうした組合を創造する。
また入って活動をしてみること。やってみることによって学ぶこと。
それこそ、若い世代が上の世代や組合どもに搾取されずに生き延びる道だと考えるものです。
そして、若い世代は若い世代の自律性を確保したうえで、上の世代の組合の横暴に耐えられるし、会社の残忍なしうちにも抵抗できるのです。
そこでなら「わたしたちみんなの苦情」を納得できることでしょう。
それこそが、これから求めるべき連帯です。
上の世代の組合と支持する意見・政策が一致すればするでいい。そこは是是非非でいけばいい。自由と反動は別ですので。
ハラナさんは、なんとか上の世代の男性とも融和してやってゆけとおっしゃるかもしれません。でなければ雇用流動化も、細切れ雇用のエスカレーションもみんなの責任だと。
だけど、国鉄を民営化してナショナルセンター総評をつぶそうとしてやった政治家がいるわけです。そういう連中の責任をとわないで「自分が悪い、わたしの責任」ですむでしょうか?
アメリカで、アイリッシュが結成した黒人排斥のアスレチック・クラブという組織があります。
たとえば、黒人詩人を袋叩きにしています。
だけど、白人中心の労働組合も黒人にとってはアスレチック・クラブと大差なかったのです。
「ストライキのさいにはスト破りは言うに及ばず、罪のない傍観者までもが黒人であるという理由からアイリッシュ・ギャングだけではなく白人組合員やその家族のリンチの犠牲となる。『労働組合なんてものは碌でもない代物だ』『そいつは俺たちをいじめる』というのが、黒人一般が労働組合に抱く感情だった。
とはいえ黒人たちのなかにも(中略)指導者になるものがふくまれていた。そんな彼らさえ、人種暴動のさいにはみずからが黒人であることをあらためて痛感し、絆のありかを否応なく意識せざるをない。黒人リーダーのひとりは次のような胸の中を吐露した。
トラブルが発生したらどうするか、だって? そう……。俺は黒人で、家族を合いしている。肌の色につけこむような白人の味方をする気なんか、さらさらないね。(前喝書 「労働者文化の胎動」)」
これは、今の日本で展開されている上の世代による若者叩きと構造が酷似しています。ただし、今は情報化社会。物理的よりも象徴的な割合が高い。
「分数のできない大学生」「勤めている会社の漢字も書けない季間工」「キレる若者」「凶悪犯罪者としての若者」「治安悪化要員としてのフリーター・ニート・オタク……etc」「自分探し・個性尊重で下流に落ちる、愚かで物好きな若者」「沖縄の民宿・ドミトリーに行くのは“外こもり”という心の問題だ」
こういうイメージがメディアにあふれかえっています。
そこには高遠菜穂子さんのように、「自分探し」の旅をしながらホスピスのようなところで働いたり、ストリートチルドレンの支援に乗り出したりする人たちは紹介されません。ただ得体の知れない不気味なイメージだけが誇張されて宣伝されています。
沖縄に旅して学んで「日本の伝統」の恣意性について検証したり、平和について考えたりしている若い世代も紹介されるわけありません。
そういう状況で、上の世代の各種横暴の反省や謝罪も経ずに、ただ資本主義に反対するために各グループ・各個人の自己主張をやめろという話を上の世代がやると、なんとも勝手で人をバカにした話だと思ってしまうのです。
マクロなことはともあれ、ミクロの観点からすると、自分をいじめる上の世代、ロクでもない労働組合、排除を推進する地域密着や職場密着主義には、とうていついてゆけません。
ものすごく長い文書になりました。
最後にまとめると、
問題の糸2があるから問題の糸1が生まれるのではない。
実際には問題の糸3がある。それは、福祉・医療切捨て、労働運動つぶしをねらった中曽根・小泉といったネオコン政治家の政策だ。
それを問題にしないといけない。でなくては連帯できない。
なお、第二次世界大戦への「一億総責任論」のように、誰もが責任があることは、誰にも責任がないってことだとする論理を繰り返してはならない。
資本主義の「欠如性の論理(イリイチ)」推奨によって、これ以上のうつ、「意気喪失(ブルデュー)」、自己嫌悪・自己否定→自殺の回路を広げてはならない。まるでどこかのカルト教団の洗脳のような「自己否定」をあおる論議に呼応してはいけません。大切なのは自己肯定です。若い世代が中心になってやっている組合のミニコミでも、職場で自己否定を強いられた若者が、労働相談を通じて会社側の違法・不正を知り、自己肯定を取り戻すという話が掲載されていたくらいです。
マイナス評価では連帯は切れてしまいます。「おれたちアイリッシュはワスプと同じ白人だ」とする主張は、ひもじい労働者として使い捨てられるアイリッシュへの否定です。それによって黒人をリンチにかけることになる。
ならば互いにプラス評価をすればいい。「アイリッシュもんばっている。黒人だって悲惨のなかで、何とか生きようとしている。立場は近い。協力しよう。」
それを殺す自己否定主義は自己責任論と同義語、ネオコン好みの語彙です。
問題の糸1、つまりいい平等を求める連帯はむつかしい。
その理由は問題の糸2にはない(ことにしましょう)。これ以上自殺者を出したくないのなら、うつを増やしたくないのなら、そのほうが公衆精神衛生上、いい。
問題の糸3を設定し、その責任を追及し、切り捨てた医療・福祉・再分配政策の本当に必要な部分を修復しましょう。
そこにしかみなが前向きに納得できる「わたしたちみんなの苦情」はないと考えるものです。
ここまで読んでくださったかた、情報消費労働お疲れ様でした。
(この記事は、ハラナ・タカマサさんのコメント欄へのレスです。)
ハラナさんは、「良平等」を目指す連帯がとても難しいとおっしゃる。
これを問題の糸1とします。
さらにもうひとつ、消費者も含めて労働条件切り下げの共犯者だと指摘している。
こちらを問題の糸2とします。
まずは問題の糸1について。
日本の場合、ロス暴動までも行っていない。抑圧や排除や不正への怒りが市民権を得ていません。
本田 由紀さんもシンポジウムでおっしゃるように、おかしなことに対して怒っていい、批判してもいいという雰囲気がない。
いや近年、加速度的に減少している。
それ自体広い意味をなす「自分探し」が一律に愚かでいけないことだとされる。
ホントにいるのかと誰もが耳を疑うであろう「分数のできない大学生」や「自分の勤めている会社の漢字も書けない期間工」が問題とされています。「凶悪」で「キレる」青少年が主観的ムードとしては急増したということです。
オタク趣味は犯罪のもとで、インターネットというコンビビアンシャルなツールが、軽んじられたり見下されたりされる。
子ども・若者が自主的に、あるいは必要にかられてやっていることはすべて悪とされるかのようだ。
もちろん、これにジェンダーや民族などの要素も加わり、それぞれの属性ごとに、叩きがある。社会的地位の近いマイノリティ同士が、互いに叩き合う状況が生まれているのも確かな事実です。
おそらくある種の情報操作によって、互いについて実際以上に悪いイメージが注ぎ込まれていることもあるだろう。理想的な「勝ち組」以外はみんなダメ、といった印象操作に巻き込まれているのだ。
「特に支部幹部は人種間のマクドウェルはたまたま出席した女性支部の会合で、象徴的な光景を目撃している。終了に際してアイリッシュの女性議長が何か苦情はないかとたずねたとき、ひとりの若い黒人女性が自分を侮辱したポーランド人女性を告発した。女性議長はふたりを前につれてきて、次のように訓戒する。
さて、ふたりとも、どうしてここにひっぱりだされたか、わかる?
かの女はあなたを黒ん房と呼んだ。
あなたはかの女をポーランド野郎と呼んだ。
お互い辱めあったわけ。だから、ふたりの責任なのよ。
でも、わからなくって? これがあなたがた二人だけの苦情ではなくて、ここにいるわたしたちみんなの苦情だってことが。」
(松田 裕之「労働者文化の胎動ーー精肉都市の光と闇 」清風堂出版 1999PP130-131)
注)マクドウェルは「ジャングル」の作者シンクレアの取材に協力した労働運動活動家。
こうした努力にもかかわらず、人種間の対立・分裂は完全には収まらず今日に至っているわけです。
この支部長の言うことは大所高所の見方としては正しい。
だけど、まず苦情を言える環境がなきゃ、困った実態が表に出ないし、自分が自分を知る、政治的に目覚めることもないわけです。
で、組合を通じて何か社会を考えたり目覚めたりすればいいのですが、実際にはそうはならない。
むしろ大手を中心とした組合が、民主主義の芽生えをつみとっているのではないでしょうか。
シンクレアの「ジャングル」に次の記述があります。
“Also the union made another grate difference with himーーit made him begin to pay attention to the country.It was the biggining of Democracy with him.It was a littele state,the union,a miniture republic; its affiars were every affere, and every man had a real say about them.In other wards, in the union Jurgis learned to talk politics. ”
(Upton Sinclair “Jungle” Rondom House Inc. The modern library classsics New York 99p)
残念ながら日本の場合は組合があまりにも知識詰め込み型、フレイレ風に言えば「銀行貯蓄型」の教育をやりすぎています。
なので、自分について語ることや知ることが、政治意識となり、認識になるような環境はありません。
もうわたしは行かないことに決めたのですが、「研究会・職場の人権」ともなると、そこの代表やその友人が自分について考えること=自分探しがいけないとか、インターネットというコンビビアリティのための道具を学習ネットワークではなく偽者の人間関係だといいはるまでになっています。
狭い地域の中に小学校・中学校・高校があり、すべてのハイアラーキーが人目にさらされてしまう。同じ業界であっても会社によって仕事の手順が違いすぎる。その職場密着主義のために新卒以外は社会的排除のプラセスに組み入れられる。
それに抵抗しようとしてむなしい努力を重ねてきた自分の人生、またいろいろな事情で学校を追われて学校・職場・地域の共同体から排除される友人たちがいる。自分たちをさらに泣かせおいつめることを言う代表が仕切る団体などわたしの味方ではありません。
むしろたとえばPOSSEのような若い世代の作った労働NPOのほうが、対話を重視しているように、小さな共和国のように、民主主義のあかつきのように見えます。
ただしNPOの場合は労働組合とは違って、労働組合法による刑事免責が適用されません。また、不当労働行為を受けない権利もありません。
できれば、若い世代が上の世代とは切れた形で組合を作って活動できれば一番いいと考えていますが、どうでしょうか。
実際には、アメリカの労働組合は、ネイティブ・アメリカや黒人に不利な解雇ルールを作り上げてきました。長く勤めたものから解雇されないですむというのは、労働市場にもっとも後に雇われるグループには泣いてくれということです。
日本でも、組合は日本人の健常者の50代男性の正規雇用者だけを守る傾向があります。それ以外のジェンダー、年齢階層、エスニシティそれに地区などは、おおむね守られないできたのです。
この苦しみのなかで、たとえば赤木智弘さんの紙雑誌「論座」1月号の記事のように、戦争に平等化の幻覚を求める危険な状態も生まれるわけです。
やはり、一度はこうした苦しみの声を表に出す必要があるのではないでしょうか?
出したあとにこそ、「それはわたしたちみんなの苦情なのよ」と言えるのだから。
そしてそれは、若い世代独自の苦しみを理解も尊重もできない識者の無知や、テレビ報道の偏向をあぶりだし、是正への道筋を照らすのだから。フレイレ風に言うと「意識化」です。(じっさいには暗記だけではなく生きいきと理解するというニュアンスもこめて「認知化」「認識化」と考えてもよい。)
次に問題の糸2について。一部のネオコンばかりか消費者までもが労働条件切り下げの共犯者という主張ですね。
あまりにも困っている人について無知で、横暴な話ではないでしょうか。
思い出します。テレビも本もなく、ただ面接のために生きていたような、日々を。
ふとショウウインドウに移った姿を見ると、やせ細って、背まで低くなったように錯覚してしまう自分がいました。わたしは親福祉を受けることによって、いわゆる「ニート」と罵倒される状態になることによって、労働法などを読む時間を手に入れました。
だけどそれを使えない状態の人にどうして政策責任があるのでしょうか。
労働者派遣法が成立したとき、わたしは15歳でした。今33歳のわたしがこう言うのです。今の27歳のアルバイターが10歳のとき。23歳の派遣従業員が5歳のときの出来事です。
それについてまで「若い世代の自己責任」を唱える労働組合アクテイヴィストーー財界から裏金でももらっとんのかいな!--に加担することはできかねます。
「わたしたちみんなの苦情なのよ」という話だって、民族的な文化やアイテンデイティを否定・後退・弱体化させかねない危なっかしい発言です。意図によっては、単なる口封じ、苦痛を訴えることへのかん口令としても機能する。
それをわかったうえであえて作戦として唱えるのならともかく、そうでなければ相手の死に物狂いの抵抗と、多方面からの疑念・反発を覚悟せねばならないでしょう。
赤木さんと連帯して、世代にこだわりますと、本当に、2箇所も3箇所も職場や派遣会社をかけもちしつつ、働きすぎて疲れ果てて倒れる寸前の若い世代がいます。体は骨の上に最小限の筋肉や皮がかぶさっている状態で、まるで減量中のボクサーみたいな体。
うつで思考力・集中力も低下している。仕事が終わったらなんとか家にたどりついて、あとはバタン・キュー。
夜になっておなかが減って目覚めたら、コンビニか24時間やっている百円ショップにでも行くほかない。体力は大事なので、疲れた体にムリにでもエネルギーをつめこむ感じ。そんな生活をするうちに胃が荒れて、胃腸薬が手放せなくなる。おかゆの食事でさえも残すこともある。そんな人にも責任があるという議論などやはりついてゆけない。あわそうとしてもあわせきれない。みなが都市中産階級でおまけに安定雇用で時間の融通の効くインテリさんでしかもリベラル~左派系ならともかく、実際にはムリな相談です。
特に生活がかつかつではそんなことをしていられません。わたしも弟も、「本を買うのはムダな支出だからやめろ」と親に圧力をかけられながら情報にアクセスしています。
職場では、汚いこと、上の人間の尻拭い作業をえんえんとやらされる。オヤジどもがミスったことを、「うちの女の子が~」「入ったばかりの若いもんが~」と電話口等で言っているのはイヤというほど聞きました。また、他の同世代のブロガーと話していても同じような状態が彼の働く業界にも普通だという情報がありました。
働く人はおおかた苛立って爆発寸前だったり、感情鈍磨になっていたりする。または、半泣き状態だったり、ヤケクソ気味だったり、頭をかかえていたりする。
親の援助があるか宝くじでも当たらないかぎり、この失業ー反失業地獄からは抜け出せません。そしてたいていの場合、親は自己責任論に染まって若い世代やフリーターをバッシングしているのです。
派遣の仕事は辺鄙なところに行ってロボット的な「単純作業」ばかりです。当然、疲れもあいまって口数は減り、文化・教養からどんどん遠ざかっていきます。それを差して、「自然じゃない」「コミュニケーション能力が低い」「おつむが弱い」「甘えている」「自動車工場・半導体工場の話は被害妄想」などと一部の正社員や識者たちは言うのですよ。なかにはそういった批判的訴えを「不幸自慢・不幸競争」と揶揄・嘲笑し、かん口令状態を作り上げる差別的なライターさえいるのです。
それには苦情を言ってもいいと思います。まずは言える雰囲気づくりです。
だいたいは、十代後半や二十代初頭のことからそういう環境だと、他のホワイトカラーや正社員と比してどのように異なるか、検討しようもありません。
わたしは親福祉を使って本を読んだり研究会に行ったりしたので、どんなふうにおかしいかかろうじて分かった。けれど、他の人も同じ条件にあるわけじゃありません。
ちなみに、わたしは途中から親福祉が切れるまで「ナマケモノ」として生きることにしたために、ブログなど建てています。ちょっと変わった本やサイトも見ています。だけど、これだってあと半年とか一年つづくかどうかです。もっと大変な状態の方もほかにいらっしゃいます。そういう人に消費者としての責任があるなどと口が裂けてもいえません。
政治的にここは、自分たちの責任を認めてはならないポイントだと考えています。
以前、ハラナさんの「安ければそれでいいのか」という記事を読んだとき、ほんねでは「ついてゆけない」「そんなのムリ」と思いました。
けれど、いつか自分がわうかの確率であっても中産階級の暮らしに戻れるのならば、そのときにはそうするべきだとうと考えて賛成しました。また、ブロガーとして孤立するのは政治的に避けたい事態でもあります。なので、わりと関心が近いサイトでつきあいのあるところですので、義理で賛成したのもあります。
わたしの場合は父がなくなるまでは、まあ中産階級の暮らしができた。十代のころ、消費者運動をしている人たちーーだいたい夫が一部上場企業などで年収1千万とか1千五百万程度は稼いでいた人たちーーの事務所を訪れたり、ミニコミを見せてもらったりしたこともあります。自然食品の店をぜいたくにも利用したこともあります。
なので、そういう主張がまあ分かるのです。
しかし年齢が低い、田舎のほうに住んでいるなど不利な条件が重なるほど、こうした意見にピンときたり、今では縁遠くなっても義理で賛成しておくといった余裕はないでしょう。
赤木さんが紙雑誌でホンネをぶちまけたとき、「そのとおり!」と無限大に叫びたくなったし、擁護したのもそういう事情からです。だって、民族やジェンダーへの罵倒や切捨てなんて組合オヤジも会社のオヤジもずっとやってきたことなのに、どうして若いものだけが苦しい立場でとりみだして訴えたら悪者扱い? ハラナさんも上の世代には甘いなあ。若い世代のフリーター的立場への理解があるようでいてないんだなあ。まあそういう5-60代の上の世代の男性と財界というのは今のところほぼ利害が一致しているようで、大学もどんどん企業の不採算部門としての研究・教育の下請け部門化しているとの声もあり、ハラナさんもまったく自由にものを書けるわけでもないだろうけれど。。。
そう感じました。
上からものを言う話ではなく、一人のフリーターとして若い世代として素直にそう感じたのです。
もちろん、ハラナさんが、労働のことについても旧教育基本法「改正」反対のときのような広い連帯を、と考えていらっしゃることは伝わります。
だけど、危ない発想であることもおさえておかなければ、労働者至上主義により、女性を、非日本国籍を、若い世代を組織がだましつつ引き回すことにしかならないでしょう。
組合が、これまで排除してきた人たちに対して、どれほどオープンになれるか、どれほど相手を尊重して誠実に接することができるか。
それが、これからの労働組合運動と社会的連帯の成否を握る鍵なのです。
ふたつめに、若い世代に「地域密着」とか言い出す。まさにその地域密着とか職場密着主義によって排除されているのに、また実際に地元に仕事がないので派遣の寮に入るのに、そうするのは自分の授業をよくきかない悪い子だからダメといわんばかりに、人前で大声叱責して恥をかかす。相手が不登校・フリースクーラーとしてのアイデンテイティを傷ついておいつめられて泣きだしても被害者意識いっぱいで、謝りもせず迷惑そうにしてばかり。まったく話にもなりません。(フリースクールは特定の学校・地域に密着しなくてもいいという考え方で成り立っています。そこを熊沢さんは、「フリースクール・ホームスクール・コミュニティに定着しろ」と言った。これはいろんなところをまわって自分にあったところ、少しでもいいところを探すというフリースクールの理念、個人の人格的自律権や幸福追求権へ蹂躙です。)
そのほか、そのルールをそのときカロリー不足だったのに自覚もなく、くるくると会社めぐりのための体力しか残っていなかったわたしの状態を見て知りつつ、「勉強しろ」と幼稚園入試の塾の講師のようなことをのたまう労働組合のアクテイヴィストの生存権軽視については以前も報告したとおりです。
そういう上の世代の組合を、組合を支援する学術団体を、若い世代は見捨てていいと思います。
定例会に行く交通費だけでも大変、お茶会への参加だけでも胃が痛む。そういう人がとうていアクセス不可能な一度で6千円とか三千円とか2千円もかかる食事会に人を誘う。断ると、「インターネットで遊びすぎて本当の人とのつきあいを知らない」と対等に人が結びつき、弱者にとって新たなビジネス・チャンスにもなりうる、学習ネットワークの理念から開発されたツールを侮辱・嘲笑する。
そのかわり、地域密着などというインターナショナルな連帯を破壊する文言など使わず、勉強しろなどと進学塾のような場違いなことは言わない。
知識つめこみ暗記よりも、自分の生活や職場について話すことによって政治意識を作ることが出来る。そうした組合を創造する。
また入って活動をしてみること。やってみることによって学ぶこと。
それこそ、若い世代が上の世代や組合どもに搾取されずに生き延びる道だと考えるものです。
そして、若い世代は若い世代の自律性を確保したうえで、上の世代の組合の横暴に耐えられるし、会社の残忍なしうちにも抵抗できるのです。
そこでなら「わたしたちみんなの苦情」を納得できることでしょう。
それこそが、これから求めるべき連帯です。
上の世代の組合と支持する意見・政策が一致すればするでいい。そこは是是非非でいけばいい。自由と反動は別ですので。
ハラナさんは、なんとか上の世代の男性とも融和してやってゆけとおっしゃるかもしれません。でなければ雇用流動化も、細切れ雇用のエスカレーションもみんなの責任だと。
だけど、国鉄を民営化してナショナルセンター総評をつぶそうとしてやった政治家がいるわけです。そういう連中の責任をとわないで「自分が悪い、わたしの責任」ですむでしょうか?
アメリカで、アイリッシュが結成した黒人排斥のアスレチック・クラブという組織があります。
たとえば、黒人詩人を袋叩きにしています。
だけど、白人中心の労働組合も黒人にとってはアスレチック・クラブと大差なかったのです。
「ストライキのさいにはスト破りは言うに及ばず、罪のない傍観者までもが黒人であるという理由からアイリッシュ・ギャングだけではなく白人組合員やその家族のリンチの犠牲となる。『労働組合なんてものは碌でもない代物だ』『そいつは俺たちをいじめる』というのが、黒人一般が労働組合に抱く感情だった。
とはいえ黒人たちのなかにも(中略)指導者になるものがふくまれていた。そんな彼らさえ、人種暴動のさいにはみずからが黒人であることをあらためて痛感し、絆のありかを否応なく意識せざるをない。黒人リーダーのひとりは次のような胸の中を吐露した。
トラブルが発生したらどうするか、だって? そう……。俺は黒人で、家族を合いしている。肌の色につけこむような白人の味方をする気なんか、さらさらないね。(前喝書 「労働者文化の胎動」)」
これは、今の日本で展開されている上の世代による若者叩きと構造が酷似しています。ただし、今は情報化社会。物理的よりも象徴的な割合が高い。
「分数のできない大学生」「勤めている会社の漢字も書けない季間工」「キレる若者」「凶悪犯罪者としての若者」「治安悪化要員としてのフリーター・ニート・オタク……etc」「自分探し・個性尊重で下流に落ちる、愚かで物好きな若者」「沖縄の民宿・ドミトリーに行くのは“外こもり”という心の問題だ」
こういうイメージがメディアにあふれかえっています。
そこには高遠菜穂子さんのように、「自分探し」の旅をしながらホスピスのようなところで働いたり、ストリートチルドレンの支援に乗り出したりする人たちは紹介されません。ただ得体の知れない不気味なイメージだけが誇張されて宣伝されています。
沖縄に旅して学んで「日本の伝統」の恣意性について検証したり、平和について考えたりしている若い世代も紹介されるわけありません。
そういう状況で、上の世代の各種横暴の反省や謝罪も経ずに、ただ資本主義に反対するために各グループ・各個人の自己主張をやめろという話を上の世代がやると、なんとも勝手で人をバカにした話だと思ってしまうのです。
マクロなことはともあれ、ミクロの観点からすると、自分をいじめる上の世代、ロクでもない労働組合、排除を推進する地域密着や職場密着主義には、とうていついてゆけません。
ものすごく長い文書になりました。
最後にまとめると、
問題の糸2があるから問題の糸1が生まれるのではない。
実際には問題の糸3がある。それは、福祉・医療切捨て、労働運動つぶしをねらった中曽根・小泉といったネオコン政治家の政策だ。
それを問題にしないといけない。でなくては連帯できない。
なお、第二次世界大戦への「一億総責任論」のように、誰もが責任があることは、誰にも責任がないってことだとする論理を繰り返してはならない。
資本主義の「欠如性の論理(イリイチ)」推奨によって、これ以上のうつ、「意気喪失(ブルデュー)」、自己嫌悪・自己否定→自殺の回路を広げてはならない。まるでどこかのカルト教団の洗脳のような「自己否定」をあおる論議に呼応してはいけません。大切なのは自己肯定です。若い世代が中心になってやっている組合のミニコミでも、職場で自己否定を強いられた若者が、労働相談を通じて会社側の違法・不正を知り、自己肯定を取り戻すという話が掲載されていたくらいです。
マイナス評価では連帯は切れてしまいます。「おれたちアイリッシュはワスプと同じ白人だ」とする主張は、ひもじい労働者として使い捨てられるアイリッシュへの否定です。それによって黒人をリンチにかけることになる。
ならば互いにプラス評価をすればいい。「アイリッシュもんばっている。黒人だって悲惨のなかで、何とか生きようとしている。立場は近い。協力しよう。」
それを殺す自己否定主義は自己責任論と同義語、ネオコン好みの語彙です。
問題の糸1、つまりいい平等を求める連帯はむつかしい。
その理由は問題の糸2にはない(ことにしましょう)。これ以上自殺者を出したくないのなら、うつを増やしたくないのなら、そのほうが公衆精神衛生上、いい。
問題の糸3を設定し、その責任を追及し、切り捨てた医療・福祉・再分配政策の本当に必要な部分を修復しましょう。
そこにしかみなが前向きに納得できる「わたしたちみんなの苦情」はないと考えるものです。
ここまで読んでくださったかた、情報消費労働お疲れ様でした。
>自身の自己否定は、なかなか拭いされないということ>です
実はわたしも、今の自分を肯定できなくて、つらくて死にたいと思うことがあります。職の危なさ・つらさも、職がないことによるしんどさも、すべて悪夢ならどれほどいいだろう! なんて思ったりもします。
最近、赤木さんのブログ記事にもあったけれど、もっと別の職業について、大金持ちとはいわなくてももう少しはゆとりのある暮らしをしているというイメージも思い描きますね。
なぜか夫はいなくて子どもはいっぱいいる(笑)。
>“赤木さん叩き”の異様さには、正直吐き気さえもよ>おしました。
そうですね。一部のブログでは、赤木さんを乳児よわばりしたり、性的に侮辱するものさえあった。
赤木さんの表現は、文化資本の低いものが、文化資本の高いところに一挙に跳躍しようとするときに起こりがちな戸惑い・間違いがかなり含まれているのではないでしょうか?
「彼の両親にとっては、赤木さんは頭のよい自慢の息子、だけど他人にとっては別」といった意味のカキコには、30代の赤木さんを両親の付属物扱いする、また彼の両親の育て方の悪さ・自己責任を問いつめるふるまいです。
いつまでもフリーターなんて10代後半から20代半ばまでの問題だと思い込みたい人たちは、30代のフリーターがいると顔写真や文章によって具体的にイメージして、けしからんと吹き上がっているようにも見えますが、どうでしょうか。(いろんな人がいろんなコメントをしているので、一律には語れないのが難しいのだけれど。)
確かにアカ起算の表現の一部に、荒っぽく不適当な点があったのは事実です。
だからといって、彼の正直さは全部否定されてはいけないと考えてるものです。
まず本田由紀さんもおっしゃるとおり、おかしなことがあったら批判していいという環境がなければ。
彼はたった一人でそれをやった。
わたしが諦めたり、妥協したりしたところも含めて完璧にやろうとしている。
そこに自分は敬意を払うし、感謝もしている。
女性の家事労働のつらさについてはちょっと彼はわかっていないところもありますが、自分のことに手一杯で他人まで見る余裕がないのでしょう。
それを差して自己中、甘え、視野狭窄、被害者意識などと言うのは簡単です。だけどそれですむのか。それを言う人が比較的余裕のある層ならば、それは単なる弱いものいじめになっていないか。
まず相手の声に耳を傾ける。おかしいところは指摘する。だけど自分の無知や勘違いも相手からただしてもらう。
そういう対話の姿勢のないバッシングは、互いの苦しみを共通の苦情にするルートを閉じてしまうでしょう。
「受苦者の連帯(ヴェーバー)」は、苦しみを隠すことではなく、苦しみを表現することからしか始まらないのではないでしょうか?
経団連や日本政府の目的はこれでしょう
解りやすいブログがあるので参考にしてください
忙しいママのためのしんじつのえほん
http://shinzitunoehon.seesaa.net/
今年の参議院選は大事です
将来の日本の道を本当に決める運命の投票です
アメリカ社会の本当の姿が日本人には解っていないでしょう
堤未果著「報道が教えてくれないアメリカ弱者革命」参照
堤さんは我々日本国民にこうメッセージを伝えました
民主主義国家において、政府が国をおかしな方向に持って行こうとしている時私たち国民がそれを止めることのできる最も大きな武器が、『選挙』なのだということを
一票の重みを侮ってはならないことを・・・
周りの人達に本当の事実を伝えて投票に行くという義務を説いてまわってください
こんな書き込みがあったんですね。
でも、普通に考えて、適当に人生をうまくやってこれた団塊の親が、就職すらできない息子を「頭のよい自慢の息子」なんて思うハズがないないじゃないですか(笑)
要はこういう書き込みをする人は、その程度の状況を推測すらできないということです。自身があまりに幸福すぎて、親と子供の間に亀裂がはいることなど、思いもよらないのでしょう。
そういう人がいくら平和だ平等だの叫んでも、独り善がりにしかならないのは必然と言えましょう。
まとめレスで失礼します。
>選挙民さん
情報提供ありがとうございます。
選挙制度の問題もあるものの、選挙は大切ですね。
今度の選挙では、今の悲惨を生み出している党には入れない予定です。
>赤木智弘さん
いらっしゃいませ。
ロクでもない叩き・晒しの一例としてあげたのです。たしかgegengaさんのところからリンクされているところをたどっていったらありました。
そのおかしさについては、赤木さんご本人のおっしゃるとおり。
NHKのフリーター漂流の本のなかに、そういうことがよく分かる写真があるんですが、今、家の中で親と子の階級・階層・身分が分化しているのです。
この出来のよくない記事は、ある記事への反応です。
たとえばお金持ちの多いことで知られる共産党系、あるいは正社員の雇用条件を前提にして、社会運動を組み立てようとする人たちは、わたしたちにとって危険で暴力的です。
自分たちの生活基準をもとにして、たやすく他人を断罪できるからです。
かなり以前とりあげた「ハイパー・メリトクラシー(本田 由紀)のなか、魅力をみがけといっても、先立つものがなければみがきようもない」といった話はその一例にすぎません。
そういうことを主張しているインテリさんは、六本木ヒルズの住人ではなくても、カネよりも知識・文化の価値観であっても、やはりアルバイトよりは安定しているのですね。
だから、わたしたちの疲れや訴えがよくわからないで素通りする。
あるいは、「そんなひどい職場は被害妄想でしょう」と自動車工場や半導体工場での勤務をなきものにしようとしてしまう。
以前、自分はとある平和団体に関わっていました。あとから知ったことですが、そこは共産党系の巣窟でした。
そこでの失業とか不安定雇用に関する理解のなさ、迫害の“自然”さときたら、そうとうのものでした。
貧乏で、みずほらしくない服やくつやバッグが買えない人がいることを理解できないのです。
本やパンフを買えない人がいることもわからない。お金がなくて会議等に出て行かれない、あるいはウツ状態で一日の大半を寝込んでしまう人が見えない。
説明しようとしてできる雰囲気じゃありません。
ある50代の工場づとめの人は、なんとなくその他大勢と違う臭いや考えがあるというだけで、そこのグループを追い出されています。
あとで話をうかがうと、メール等を通じたイヤガラセが相当あったそうです。そこそこは金持ちの若い世代のリーダーらは、老人、十代の子ども、それにわたしにもいろんなイヤガラセをしてきました。「やる気がない」、「淫乱だ」などと週刊誌レベルのくだらないウワサを流しているのです。
彼はその後、別のMLで、そういった現場の人間をおきざりにした共産党系の護憲・平和活動は終わった、と書いていました。
また、そういうものを高学歴やよい(安全な)職場環境の人が許さないのですね。
個性をすべて罪悪視し、ハッキリとものを言うだけでキレていると解釈し、受動的攻撃性によっておおげさに騒ぎまくり、公式的な「正義」「平和」を押し売りする。そんな連中にはわたしもウンザリです。
もう少しあの人たちは、相手が今どんな状況にあるかを学ぶべきなんです。
別の文化、別の言葉、別の雇用がそこにあるということから理解してほしいと思います。
正社員の人たちの、自己中心の話には、ちょっと話すだけで疲労と絶望を覚えます。
どうして仕事さがしや仕事じたいで疲れないと思っているのか。
金銭感覚もケタが違います。「安ければそれでいいのか」っていう問いは当然必要です。それでは、「高ければそれでいいのか」って問いだってあるわけでしょ?
ていうか、当面のところ実際には、貧乏なら商品経済の中では安全と思われる食品など求めたくても求められない日常があるわけで。
そうすると、そういった情報ともだんだんと疎遠になる。頭に入らなくなってしまう。選択的不注意とかいうやつです。
だからこそ、もし中産階級的な暮らしをできるようになったときのために、今からちょっとづつでも情報だけでもおさえておこうかな、と思う。
だけど、どうして年収50万円以下のわたしが、あるいは同じグループが、世のなか全体のためにという、人間の限りある知覚のために、犠牲になるようなことができるでしょう。
消費者運動だって、よほど大規模に同時に目標をしぼってやらなければ、効果はない。社会改良にならないであろうことのために、消費カロリーをおさえたり、家計に赤字をかかえたり、人とのつきあいを削る(いっしょにマクドやスタバに誘われてもいつも断るなど)をしなきゃならないか。
みながみな社会運動家じゃない。なのに、なぜフリーターなど貧しい層が、社会問題を解決する鍵のように言われるのか。
フリーターは社会の護美箱にされているわけです。
社会にとってマイナスのものなら何でも放り込むという。
そういう状況を無視したようなハラナさんの「貧しい層にとっても100円ショップの安い商品はダメ」という話は、いろんな意味で残酷です。
以前は、正社員に逆らっても仕方がないという考えもあり、泣くなく従っていました。いつか状況が変わったら、いいかげんにやめたいなあと考えつつ。
だけど、赤木さんが思い切って紙のメディアのほうでも言い切ってくれた。だから、自分も習うことにします。
この件に関してだけは、正社員中心の発想に表面上あわせなくてもいいと思います。
それで人を救っているつもりになっているのだとしたら、動機づけにおいて無効でしょう。
それは正しい指摘であっても、排除されるものにさらなるムリや犠牲を強いるのだとしたら、単に社会的排除に加担するだけになるのです。
そういうことは、相対的にはゆとりのある層のぜいたくです。ぜいたくをぜいたくだと認識できないなんてたいへん幸せな方がただと思います、そういう呼びかけができる人たちは。
だけど、不安定で、しかも年収も資産も乏しいわたしたちは、それこそ政府の補助でもなければオーガニックの食品も、フェアトレード製品も「縁がない」のです。
選択可能な消費者というカデゴリーからもわたしたちは排除されているのだから。
言葉も限界があって、相手が納得するとも思えないけれど、おそらく一生安全性に問題がありそうで、簡単にこわれてしまうことが多い100円ショップ風商品にわたしたちは囲まれて暮らすことになるでしょう。
貧乏を知らないというのは幸福です。だけれども、それは貧乏な人を知らず傷つけ、排除する幸福です。
その表れはホームレス排除のベンチの仕切りやオブジェだけじゃありません。
「フリーターなど貧困層であれば、もっと価格破壊に抵抗しろ。一番反対しなきゃならないグループのはずだ」
というマルクスの底辺革命論にも似た社会改良家の空想にすぎません。
そんなものは、もう少しで六本木ヒルズに住めそうだが住めないくらいの層がやればいいし、そういった立場の人たちにしかできないことでしょう。
それをなぜかフリーターを巻き込んでやろうとするのはいくらなんでもムリでしょう。
そういうことが分からない能天気な正社員の集団的自己中心主義に、わたしたちはしょっちゅう迷惑し、傷つけられ、吐き気をもよおさざるをえないわけです。
どんな風に言ってもハラナさんのようなタイプには伝わらないでしょう。以前いた平和団体もまったく同じような人たちが仕切っていました。
こういうことにはやはり苦情を言っていかないといけない。