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DonkeyMの部屋

Donkeyはロバ。格好良くなく、足も遅い。「のろま」とか「馬鹿」といった意味。日々の感動、怒り、愚痴等を記事にしたい。

俺って何者?(5)

2015-08-18 10:31:33 | 雑感

 小学5年のころ、俺はいつもランドセルの中に横笛と縦笛、それにハーモニカを入れていた。元々学校では縦笛を授業で使っていた。たまたま祭りで横笛を買い、吹いてみてもなかなか音が鳴らない。そうすると、親父がしゃしゃり出てきて、こう吹けば音が出ると言い出したが、あまりちゃんとした音が出るわけではなかった。ただ、息を吹き込む角度を微妙に変えることで、かすれたような音が出るのが分かった。その後、試行錯誤し、続けていると、かすかに音らしきものが出た。なんだかんだかなりの時間練習して音が出るようになった。しかし、そのとき初めて分かったのだが、日本のいわゆる横笛は、学校で習うような音階ではなく、あまり役に立たないことが分かってしばらくは横笛はそのままに放置されることになった。

 普通ならば、ここで横笛の話は終わるわけだが、耳鼻科通院の途中で、本屋と文房具店が一緒になった店をのぞいていると、学校で使っている縦笛と同じメーカーの横笛を見つけた。指の部分はほとんど同じで、音を出すところだけが縦ではなく、横になっているという代物だった。早速購入し、吹くようになった。学校へ持っていくと、最初は興味を持たれたが、それも大して続かず、普通になった。ただ、音階が全く同じで、音を出してもそれ程違和感がないので、授業でもひとりだけ横笛を使うことにした。俺は全く有頂天、音楽家気取りで、曲なども作ってみるようになった。ただし、音楽の才能なんてものはさらされなく、どう見ても、笛もうまく吹けるというほどにはならなかったのを覚えている。中学に入学した後は、笛はやらなくなり、興味関心は全く別の方に移っていた。

<次に続く>

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俺って何者?(4)

2015-08-17 06:20:40 | 雑感

 親父が浅草に行って買い物をして帰って来た。そして、自慢げに値切って安く買ってきたという話をした。それを聞いて俺は、「値切ると安くなるんだ。」ということを知った。その後、しばらくして、学生服が小さくなったので、買ってくるという話になった。俺は、2000円くらいをもらって、耳鼻科に行った後に買ってくるということになった。洋品店で学生服を見せてもらい、服を選んだのだが、色々見ていると、どうしても、値段の高い方に目が行ってしまう。それはそうだろう、高い方が見栄えが良く、品も良いに決まっている。しかし、ポケットに入っているのは、2000円なのだから、買えるものは限られている。そこで、少し高めの品物を選んで、「これ、2000円にしてくれる?」と店の人に言うと、ちょっと間を置いて、「いいよ」と返事が返ってきた。これが始めて買い物で値切った最初だった。親父がやったように、俺も値切ることができた。「俺ってすごい!!」と、俺はまたまた有頂天になって、家に帰ってきて、みんなに自慢話をした。家族の反応がどうだったのかは、今覚えていない。それ以後、買い物をするときは、値切ることにした。当時、小学4年くらいだったから、相当に変な小学生だったのだろうと改めて思う。

<次に続く>

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俺って何者?(3)

2015-08-16 05:03:21 | 雑感

 小学3年生頃に、ようやく自転車に乗れるようになった。それは、俺にとって、衝撃的な出来事だった。

 自転車に乗れるようになって、それ程経たないころ、母親の実家に自転車で出かけて行った。もちろん、親には内緒だ。行きは順調で、途中、転ぶようなこともなかった。着いて、母親の実家ではたいそう驚かれ、俺は有頂天になって、意気揚々と帰途に着いた。行きと同じで順調に自転車に乗って戻ってきたが、どういう弾みか分からないが、気付いたら、川の中にドボンと落ちて、濡れ鼠になった。泣こうにも周りには人影はなく、ただただ鼻をしくしくさせながら、家に辿り着いた。川に落ちたということはあまり問題ではなく、それよりも何よりも、自転車で行って帰って来れたということで、「俺は凄いんだ。」と思った。

 当時、中耳炎のために、隣町の耳鼻科に通う必要があったが、通院もひとりで行くようになった。俺の町は本当のど田舎だったが、隣町にはアーケードもあるようなところがあって、お店もたくさん並んでいた。当時としてはかなり栄えていた町だった。耳鼻科に通う途中で、少し足を延ばし、ぶらりぶらりすることもできた。お袋が自転車に乗れないため、買い物は親父がやっていたが、自分で必要な物は、自分で買って来れるようになった。

<次に続く>

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俺って何者(2)

2015-08-16 04:05:25 | 雑感

 俺の交通手段と言えば、親父に頼んで、バイクの後ろに熨せて貰って移動するのが唯一の手段だった。だから、余程のことがない限り、遠くへ出かけていくことはできなかった。そんな中、今でも強く印象に残っていることが1つある。それは、隣町(隣の県にある)に行く時に、大きな長い川を渡ることになる。その川の傍に交番があった。いつも交番の少し手前でバイクから降ろされ、親父は交番の先まで進んで、そこで待っていた。私は、緊張し、警官の目を気にしながら、びくびくと交番の前を歩いて通過したものだった。通り過ぎると、親父の待っているバイクに乗って先に進んだ。当時、1つの儀式のようなもので、ほぼ自動的に行っていた。それで、バイクの二人乗りはいけないことなんだと思った。その一方で、交番の警官だって、バイクを停め、子どもを降ろし、通過した先でバイクが待っている、その後、また二人乗りになることは分かっていたのだろう、でも、注意されることは一度もなかった、これが按配というものだと感じとっていた。小学校の高学年になって、バイクに乗るようになって、道路交通法なるものを始めて知った時に、親父のこの行動が非常に気になった。50ccの原付自転車は、二人乗りが禁止されているが、当時の親父のバイクは100ccだった。では、なぜ、交番の前を堂々と通過しなかったのだろう。よくよく調べてみると、乗車するための座席があるかないかで、二人乗りができるかどうかが決まるというものだと分かった。(次に続く)

 

 

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俺って何者!(1)

2015-08-15 02:11:46 | 雑感

 俺の家は集落のはずれにあった。同じ(集落)に同級生は女の子が一人いるだけ。後は、年下が1人2人いるだけだった。だから、小学校に上がる前に他所の子と遊んだ記憶がない。兄たちが学校へ行ってしまうと、後は一人ぼっち。親の農作業についていって、そばで見ていることが多かったように思う。

 すぐ上の兄が帰ってくると、一緒に遊んだのだが、2歳離れていると、なかなか一緒に行動することができず、置き去りにされることも少なくなかった。今、思うと、兄は兄で、上の兄についていくことで手一杯で、下の俺のことを考えている余裕などなかったのかもしれない。そんなこんなで、あまり子ども同士で遊んだ記憶があまりない。

 小学3、4年のころだったのだろうか?隣りの子と仲良くなって、遊ぶようになった。今から考えると、その子の家は本当に近い、目と鼻の先くらいの距離、200メートルくらいのところにいた。しかも、その家の近くにもう一人同級生がいた。また、1つ年下の子もいた。その子たちはいつも一緒に遊んでいたようだった。こんなに近いのに一緒に遊ぶことがなかったのだろうと思うが、子どもの世界は非常に狭い。親と一緒に出かけていく範囲が見える世界で、その先は全く未知の世界だったのだろう。が違えば、親同士が一緒に行動することもあまりなく、当然、子ども同士が知り合う機会もない。そんなこんなで、知り合うチャンスを逸していたということなのだろう。

 ところが、私も相当無鉄砲な方で、一度行ったことがあるところは、深く考えずに出かけていくところがあった。確か、小学3年生くらいに中耳炎で耳鼻科に通うようになっていた。当時我が家には、車などなく、最初は、父親のバイクの後ろに乗せられ、連れて行かれた。その後、自転車に乗れるようになると、ひとりで通うようになった。これが、今、考えてみても、かなりの道のりで、良く行けたもんだと改めて思う。距離にして6,7キロメートルはある。途中、国道で、通行量も多く、狭くて長い橋(県境にある橋)を渡らないとたどり着けない、隣の県にあった。子どもようの自転車なんてもんは家にはなく、大人用の自転車に乗るしかなかった。当然、足は届かず、フレームの横から右足を差し入れて漕ぐ(当時三角乗りと呼んでいたと思う)しかなかった。自転車を覚えたての子に、良くそんな遠くまで行かせたのか、今では全く考えも付かないが、当時は、良くあった話なのだろう。俺も、何ら危険と感じずに、「俺ひとりでいけるよ!」と得意になって出かけ、それができると、すごく自分が強くなったような気がして、「俺ってすごいな!」と自画自賛していた。

 そんな俺がどうしてわずか200メートルの距離にいる子と知り合うことなく、小学3,4年まで過ごしていたのか、不思議といえば不思議なことだ。やはり単純に知り合う機会がなかったというだけなのかもしれない。<次に続く>

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