DonkeyMの部屋

Donkeyはロバ。格好良くなく、足も遅い。「のろま」とか「馬鹿」といった意味。日々の感動、怒り、愚痴等を記事にしたい。

アバタも笑窪?

2017-02-08 05:41:33 | 雑感

 妻は、着替えるときに、私の着衣をじっと見て、髪の毛が洋服に付いていないかと非常に気にして、一本でも髪の毛が付いていようものなら、「肩のところに髪の毛付いているよ!それ取って!」と言ってくる。そんなこんなで、妻の着替えをさせる前に、老眼鏡を掛けて、自分の着衣をチェックし、老眼鏡を外すのを忘れて着替えを行った。そうしたら、見える妻の姿は、いつもの妻の姿とは違って、全体的に大きく見え、肌にも染みがあったり、毛穴が大きく見えたり、肌に荒れがあったり、それはそれは大きな違いがあり、びっくりだ。これが真実と言うものなのだろうか?

 ところで、人が物を見るということは、実に不思議なところがある。少し難しい話になるが、人間の目は良くカメラに例えられる。目の水晶体がカメラのレンズに当たり、網膜がカメラのフィルムに当たる。水晶体を通過した光は網膜で像を結び、それが映像として認識される。ところが、人間の脳では、網膜に映し出された像はそのまま認識するのではなく、加工が施され、認識されるのだ。昨日見た妻の姿と今日見た妻の姿、網膜に映し出された像は、違っているのに、脳によって加工され、同じ妻として認識されるのだ。「視覚の恒常性」といって、多少の違いを無視して、同じものと認識するという実に便利な働きを有している。もし、この機能がなかったら、人は常に新しい刺激に晒され、対応しなくてはならず、人はすぐに不安と混乱に陥ってしまう。

 ところが、この便利な機能が却って厄介な働きをすることもあるのだ。いったん妻と認識してしまうと、細部は注目されずに、ただ妻と認識したに終わってしまう。微妙な変化が見落とされるという問題が生じてくるのだ。また、同じものを見ても、Aという人が見るものとBという人が見るものは違っている。知識や経験、興味などによって、どこに焦点を当て、注目するかが違っているからだ。形に注目するか、色彩に注目するか等々、千差万別、一つとして同じということはない。同じように見ているが、変化に気付く人と気付かない人がいるのはこのためなのだ。

 昔から、アバタも笑窪という言葉がある。好きになると、相手のアバタも笑窪に見えてしまうという意味だが、心の状態が見えるものにも強い影響を与えるということを表している。好きという感情が強く働いているときは、人のアラが見えないが、いったん冷めてみると、人のアラが見えてくる。そのことに気付くと、次から次へとアラが見えて、ほとほと嫌になってしまう。人の出会いと別れにはつきものの話だ。

 話は横道に逸れたので、元に戻そう。私が老眼鏡を掛けたことで、細かいところまではっきり見えるようになった。しかし、このような細かい変化は脳の加工によって、いつもの妻が認識されるため、これほど認識が大きく変化することはない筈なのだが、メガネを掛けているということを脳が忘れ、更に多少の心の動揺があったためか分からないが、脳の「加工」処理に混乱が生じてしまったことによるものではないかと思う。これも、老化の一つの現われなのかも知れないと思うと、少し恐ろしくなってきた。

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