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金子勝 「マイナス金利解除」の本質的問題

2024年03月22日 11時04分53秒 | 社会

金子勝「マイナス金利解除」の本質的問題

 

アークタイムスの「尾形聡彦のディープバックグラウンド」に出ました。テーマは、なぜ大手メディアが「マイナス金利解除」の本質的問題をきちんと語っていないどこが大本営報道になっていて、なぜ本質をかたらないのかを説明しています。

金子勝@masaru_kaneko

裏金問題の自民党内インチキ処分を前例のない処分と持ち上げるメディア。日銀のマイナス金利解除を礼賛し、政策の支離滅裂さ、防衛費倍増を支える金融緩和継続で、インフレ課税の問題も隠すひどさは目を覆うばかり。

【どんどん貧しくなる:大企業のために円安、インフレ増税のウエダメ日銀】どうしょうもないアホだ。結局、上げるつもりのない金利を「上げる、上げる」と大騒ぎのあげくに、金融緩和継続で、軍事拡大のための財政ファイナンスを見透かされたウエダメ日銀の醜態だ。

【どんどん貧しくなる2:2月も貿易赤字】円安放置のインフレ増税を狙うしかないキシダメ・ウエダメで日本はどんどん貧しくなる。今日もまた投機筋に荒らされ一ドル

151円を突破し、2月の貿易収支も3794億円の赤字だ。

【ひたすら大企業と富裕層だけが潤うバブル】裏金問題など忘れてしまえと、円安バブルで日経平均株価が812円06銭(2.03%)高い4万0815円66銭と史上最高値を更新。

都心6区の中古マンションはなんと1億1380万円(2.2%)と値上がりが続く。

 

評。

政府・財務省はインフレを政策的に選択して、国民へのインフレ課税・インフレ税を進めている。

国民はスポーツ(大谷)の話題に洗脳されて、政治経済を考えない愚民にされている。

解決策はここにある。

政治経済 「平成経済 衰退の本質」 金子勝 2019年4月刊

自公政権への対案 金子 勝『市民連合』の提言  

現状分析

石原順(西山孝四郎)日経最高値 パラダイムシフトというより、「金融抑圧」による「円安バーゲンセール」

安倍元首相が「アベノミクスは失敗」認めていた 田原総一朗氏「朝生」での暴露が波紋

借金まみれごまかす岸田政権と植田日銀 本当に「出口戦略」体制か

 

 


國學院大學博物館 挙手人面土器 翳(さしば)形埴輪 免田式土器

2024年03月21日 13時22分09秒 | 東京都

國學院大學博物館。挙手人面土器。東京都渋谷区東。

2024年3月13日(水)。

古墳時代前期の出土だが、人面土器は弥生時代の遺跡に多いので、在地の伝統を引いた系統であろう。

 

国立新美術館のマティス展を鑑賞後、表参道で下車して、國學院大學博物館へ向かい、卒業式らしい青山学院中等部の横を通過して20分余りで着いた。国内の遺跡を見学すると國學院大學(大場磐雄教授)が関与している事例が散見されたので訪問することにしてみた。

企画展では、埼玉県熊谷市の名家「根岸家」が収集した考古遺物の展示をしていた。昭和3年(1928)、樋口清之博士が創設した「考古学陳列室」が源流で、神道考古学、祭祀遺跡から調査研究が展開されている。大嘗祭などの神道関係の展示も興味深かった。HPにyoutubeによる解説がある。

翳(さしば)形埴輪。円筒形の細長い胴に載った星形の頭。ちょっと怪しくユーモラスなこの土の造形物は、翳形埴輪と呼ばれている。「翳」は「さしば」と読む。貴人の身辺を飾る道具立ての一つで、長い竿の先にうちわが付いた形をしている。貴人がお目見えするとき、畏(おそ)れ多いそのご尊顔(そんがん)の前に従者がそれをさしかける。そんな使い方をした道具で、ルーツは中国だという。(歴博)

エミシの蕨手刀→毛抜形太刀→日本刀。

免田式土器。熊本県球磨郡免田地方の地名にちなんだ弥生時代中期末~古墳時代前期の土器。1918年ころ免田町(現,あさぎり町)本目の源が屋敷(げんがやしき)(本目遺跡という)一帯の畑を水田にするため地下げしたところ,数十~100個余りの完形土器が発見されたという。なかでも多くの長頸壺の胴部に半円(弧)を複数重ねてできた、重弧文(じゆうこもん)の文様が描かれていたところから,重弧文土器と呼ばれていた。37年に源が屋敷から発見された鋸歯文の長頸壺と瓢形(ひさごがた)土器の2個は重要文化財になっている。そろばん形の胴部からラッパ形の長く伸びた首は美術品のような気品を感じさせる。

免田式土器の古い形式は胴部が〈く〉の字状に折れ重弧文を,新しい形式は丸みをもった胴部に鋸歯文を描き,底部はともに丸底である。壺のほか甕,鉢,高坏などの土器や蛤刃状の石斧,石庖丁などを伴い,免田町馬立原(またてばる)の市房隠(いちふさかくれ)遺跡では,小型の支石墓に免田式土器が伴った。免田式土器は免田地方など球磨川流域を中心に,熊本県南部に広く分布し,北は佐賀平野から南は沖縄本島まで及ぶ。

一説には、大和朝廷と敵対していた熊襲(クマソ)の集団が使っていた土器と言われている。

 

このあと、表参道から三田まで行き、慶応義塾大学博物館を見学した。

国立新美術館 企画展「マティス 自由なフォルム」


国立新美術館 企画展「マティス 自由なフォルム」

2024年03月20日 13時28分48秒 | 東京都

国立新美術館。企画展「マティス 自由なフォルム」。東京都港区六本木。

2024年3月13日(水)。

切り絵というと熊谷守一を想起するが、アンリ・マティスも作っていたのかと思った。二人ともフォービズム(野獣派)から出発したというのも面白い。フォービズムといえば、1990年ごろ、長谷川利行を探っていた時期が懐かしい。

3月10日にEテレ「日曜美術館」がアンリ・マティス特集だったので見た。マティスは、「色彩の魔術師」といわれるが、1990年前後にコペンハーゲンかストックホルムの王立美術館で数点を見て、なるほどと納得した。また、ニューヨークの近代美術館MoMAで「ダンス」を見たときも衝撃を受けた。本当にダンスを踊っている躍動感を感じたからだ。それが、踊り場のような場所に展示されていた。1920年代後半からパリで活躍したジャズダンサーのジョセフィン・ベイカーがモデルになっているのだろう。

アンリ・ マティス1869-1954】 元々は法律家を志して法律事務所の書記として働いていたマティスですが、盲腸炎の療養中に絵画に心を惹かれ、導かれるようにパリへと出てきます。当初は写実的な絵を描いていましたが、より自由な表現を求め、激しい色彩と大胆な筆致の野獣派というスタイルを生み出します。野獣派の活動は短期間で終結しますが、その後も芸術へのあくなき探求は続き、やがて線や色彩を極限まで単純化した切り絵の世界へと到達しました。

Eテレで紹介されたように、ちょうど国立新美術館でマティス展が開催されているので、行こうとネットで調べると、当日2200円が身障者無料だったので微笑んだ。

サントリー美術館で開催されている「織田有楽斎」展を鑑賞してから、徒歩10分弱で国立新美術館に着いた。フランス語話者が多かったし、小学生団体も多かったので混雑していた。写真撮影は後半から許可されていた。

企画展「マティス 自由なフォルム」

2024年2月14日(水) ~ 2024年5月27日(月)

20世紀最大の巨匠アンリ・マティス(1869-1954)。自然に忠実な色彩から解放された大胆な表現が特徴のフォーヴィスムの中心人物としてパリで頭角を現します。後半生の大半を過ごすこととなるニースではアトリエで様々なモデルやオブジェを精力的に描く一方で、マティスは色が塗られた紙をハサミで切り取り、それを紙に貼り付ける技法「切り紙絵」に取り組みます。

本展はフランスのニース市マティス美術館の所蔵作品を中心に、切り紙絵に焦点を当てながら、絵画、彫刻、版画、テキスタイル等の作品や資料、約150点を紹介するものです。なかでも同館が所蔵する切り紙絵の代表的作例である《ブルー・ヌードⅣ》が出品されるほか、大作《花と果実》は本展のためにフランスでの修復を経て日本初公開される必見の作品です。

本展ではさらに、マティスが最晩年にその建設に取り組んだ、芸術家人生の集大成ともいえるヴァンスのロザリオ礼拝堂にも着目し、建築から室内装飾、祭服に至るまで、マティスの至高の芸術を紹介いたします。

マケットMaquetteとは 模型、雛型 のこと。

カズラ(ラテン語: casula、チャズブル chasuble)は、カトリック教会の司祭などが着用する祭服で、ミサ・礼拝の時に、アルバ(アルブ)やストラ(ストール)の上に着用する。外見はポンチョに似た貫頭衣である。教会暦の時節に従って決められた典礼色(祭色)のものを用いる。

皇居東御苑 富士見多聞 寛永期天守復元模型 二の丸庭園


皇居東御苑 富士見多聞 寛永期天守復元模型 二の丸庭園

2024年03月19日 13時47分25秒 | 東京都

皇居東御苑。東京都千代田区千代田。

2024年3月14日(木)。

10時ごろに、三の丸尚蔵館の見学を終えた。次に、明治大学博物館見学を予定していたが、時間に余裕がありそうだったので久し振りに東御苑を見学することにした。前回は20年ほど前に、天守台を見た記憶がある。三の丸尚蔵館向かい側の売店前にマップ付きのリーフレットが置いてあったので入手。売店の人に、現在の見どころを尋ねると、芝生に早桜、梅林坂に梅が残っている、江戸城天守模型があるとのことだった。

左から時計回りに進み、坂を登ると「果樹古品種園」に、皇居勤労奉仕団らしき一団がおり、白人夫婦が花を眺めていた。

果樹古品種園。上皇陛下の考えにより、江戸時代の食用品種を植えている。

松之大廊下跡。

本丸跡左手、現在は木立となっているところにある。松之大廊下は、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にわたる西へ約19ⅿ、北へ約31ⅿのL字型廊下で全長50m、幅約5mほどの畳式廊下で、本丸では二番目に長い廊下で、襖に松並木の絵が描かれていたことからこの名が付けられた。

元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所である。

道なりに進むと、茶畑があり坂道を上ると富士見多聞があった。前回は見た記憶がないので入場した。

富士見多聞。

木造平屋建本瓦葺。 建物の高さ 約6.3m。櫓下石垣の高さ 約19m。 延面積 155.17㎡。

建築年 未詳。明暦3年(1657)の大火で焼失した慶長11年(1606)頃創建の多聞を万治2年(1659)に再建したもの、安政6年(1859)の火災後の再建建物を基礎として明治21年に修繕したものとする説がある。

大正12年(1923)関東大震災で損壊、大正14年(1925)復旧、昭和43年(1968)解体修理。

多聞とは、城郭の石垣上に建てられた防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、中には鉄砲や弓矢が納められていた。江戸時代の江戸城本丸には15棟の多聞があったが、現在残っているのは、この富士見多聞だけである。

今は見られないが、かつては、この富士見多聞から、実際に富士山を望むことができたと考えられる。

将軍が政務を執ったり、日常生活をする場であった本丸中奥にある将軍の私的な居間をさす御休憩所の前にあったことから「御休憩所前多門」ともよばれていた。

乾通沿いの蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さが約20ⅿにもなる長大な石垣で、防御上の死角をなくすため東・南・西の三面いずれも激しく屈折している。

2016年11月15日より一般公開されている。

入口の職員は、入場者の8割は外人だと言っていた。2階への梯子は明治時代の後補、低い1階天井の化粧は昔のままという。

寛永期天守復元模型。

江戸時代の初期、江戸城の中心であった本丸には、慶長期、元和期、寛永期と3度にわたり天守が築かれた。

本天守復元模型は、外観、構造など、復元のために重要な資料が比較的多く残され、確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものである。

汐見坂。

白鳥濠の北側の坂で、この坂を下ると旧二の丸跡に出る。本丸と二の丸の高低差は約10mあり、汐見坂門(しおみざかもん)のあった場所までくると、白鳥濠を見下ろすことができる。往時は、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができた。

白鳥濠。

現在では、本丸と二の丸の間に唯一残った貴重な濠となっている。

二の丸庭園二の丸池は、小堀遠州作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にある。

二の丸は、将軍別邸や世継ぎの御殿が建てられ、御茶屋や庭園泉水などもあった。寛永12年(1635)に竣工した二の丸御殿の平面図によると、現在の雑木林のあたりには御殿が建てられ、庭園としては小堀遠州の作といわれる泉水が描かれている。その後、二の丸御殿は焼失と再建を繰り返し、慶応3年(1867)に最後の御殿が焼失した。

1968年の東御苑一般公開に先立ち、残された九代将軍家重の時代の絵図面をもとに回遊式庭園が1965年に復元された。

 

10時50分頃に東御苑を出て、明治大学博物館へ向かった。

皇居三の丸尚蔵館開館記念展 新国宝・雲紙本和漢朗詠集


皇居三の丸尚蔵館開館記念展 新国宝・雲紙本和漢朗詠集

2024年03月18日 15時24分49秒 | 東京都

三の丸尚蔵館。国宝・雲紙本和漢朗詠集 伝行成筆。東京都千代田区千代田(皇居東御苑 内)。

2024年3月14日(木)。

まさに、この御物本《雲紙本和漢朗詠集》が3月15日に文化審議会から国宝指定を答申されたという新聞記事を読んで驚いた。

漢朗詠集は平安時代中期の歌人・藤原公任が漢詩の秀句と和歌をまとめた詩歌集。上下2巻が完全な形でそろっており、国文学史や書道史上、極めて貴重とされた。もともとは藤原道長の娘威子入内の際の引き出物の屏風絵に添える歌として撰集され、のちに公任の娘が藤原教通(道長五男)と婚姻を結ぶ際の引き出物として、朗詠に適した和漢の詩文を達筆で知られる藤原行成が清書し、それを冊子として装幀されたものといわれている。

源兼行(かねゆき)は、平安時代中期の貴族・能書家。陽成源氏、上総介・源延幹の子。官位は正四位下・大和守。陽成天皇の第六皇子である大納言源清蔭の孫で、能書家でもあった源延幹の子として誕生。

当時第一の手書きと称され、位記(位を授ける際に与える文書)や上表文の清書、願文(祈願の意を表す文書)の執筆、色紙形や門に掲げる額の揮毫などを担当した。後冷泉・後三条・白河の三朝にわたり、大嘗会の悠紀主基屏風の色紙形の揮毫を行っている。宇治平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)の色紙形の執筆やその筆跡から「桂本万葉集」や「高野切」第二種など一連の古筆が兼行の筆によるものとされている。

2024年3月12日(火)から14日(金)まで東京に行ってきた。主な動機はサントリー美術館で開催されている「織田有楽斎」展鑑賞のためだが、それだけではもったいないので、あれこれ考えた。横浜の兄の自宅へ行って様子を見ることと、大学時代の友人2人と会うことは決定。

年末から検討したが、「織田有楽斎」展の優品は会期後半の2月下旬から出陳だった。3月24日が会期末だが、最終週は、旅行適期になるので各方面が混雑するだろう。それで、その1週前を選択した。暖冬であれば、サクラも早く咲くかもと思ったが、現在の予測では3月22日が開花予定日らしい。

東京観光は博物館・美術館を含めほとんど回っているので、離島を考えてみた。小笠原諸島父島・母島は15年以上前に行っているので、八丈島・青ヶ島、式根島・神津島あたりを検討してみた。問題は宿泊費を安くできるかどうかだ。ネットで見ると、キャンプ場のテント泊は無料だった。テントは1996年に購入したイシイのテントがまだ使えるだろう。4万円だったが、登山で8回ほど使い、山小屋の宿泊代よりは安くなった。しかし、今は心臓病の身障者である私には40ℓザックはかつげない。そこで、キャリーカートに収納して転がせばいいと思った。ただ、シュラフは嵩張って重い。最低気温が20度ほどだったら、シュラフカバーで十分だろう。そういう季節を狙うことにして、離島案は却下した。

東京の宿泊代は高い。マンガ喫茶・ネットカフェの「快活クラブ」が各地にある。12時間で3500円ほどだ。自宅近くにもあるので、会員証を取得して、予約した。ただ、クチコミを読んで見ると評判が悪い。そこで、キャンセルして、蒲田のカプセルホテルを予約した。1泊3300円で2泊。楽天ポイント700円を使用。

以前はマンスリーマンションを使い、月単位で全国県庁所在地で暮らしながら旅行することも考えたが、カネがなくなった。東京都区内はマイカー観光は困難。道の駅「八王子」で宿泊し、身障者無料の都区内の都営駐車場にクルマを置いて、JR・メトロを利用したい。

1年ほど前に、「Tokyo Subway Ticket」という外人観光客用・関東民以外用のお得切符を知った。72時間1500円48時間1200円で地下鉄2社乗り放題。今回は48時間用をコンビニで購入して利用した。

名古屋からの往復は、JRが身障者半額になる。高速バスは乗換え不要の長所がある。夜行バスは鬱陶しくなってきたので昼行の方がいい。東海道線は乗換えが多い。飛び込み自殺などによるダイヤ混乱がある。時期により青春18切符が安い。往路は、横浜で途中下車することにしたので、東海道線にした。金券ショップで18切符を買う時間が惜しかったので、当日、駅で乗車券を購入した。半額で3190円は良かったが、名古屋市区内→東京都区内なので、蒲田で前途無効になることに気付いた。復路は、JR高速バス。新宿バスタ発にしたかったが、適便がなく、東京駅発。ネット会員価格・身障者半額で2700円。13時30分発で名古屋駅に19時10分ごろ到着した。

で、東京観光は、新設された夏目漱石・森鷗外の記念館を当初検討したが、最近関心を深めた考古系の博物館ジャンルで検討してみた。江戸東京博物館は休館中。多摩の東京都埋蔵文化財センターは、この期間のみ休館していた。そこで、考古学関連の明治大学博物館と國學院大學博物館を見学することにした。

3月10日にEテレ「日曜美術館」がアンリ・マティス特集だったので見た。マティスは、「色彩の魔術師」といわれるが、コペンハーゲンかストックホルムの王立美術館で数点を見て、なるほどと納得した。また、ニューヨークの近代美術館で「ダンス」を見たときも衝撃を受けた。本当にダンスを踊っている躍動感を感じたからだ。ちょうど、国立新美術館でマティス展が開催されているので、行こうとネットで調べると、当日2200円が身障者無料だったので微笑んだ。

 

三の丸尚蔵館は、20年ほど前に見学している。昨年秋に改修開館したとき話題になって、行きたいとも思って、ネットで調べたが行かなかった。が、やはり行ってみるべきだと思い行くことにした。

皇居三の丸尚蔵館開館記念展。2023年11月3日~2024年6月23日。

第1期:「三の丸尚蔵館の国宝」2023年11月3日~12月24日。

第3期:「近世の御所を飾った品々」2024年3月12日~5月12日。

第4期:「三の丸尚蔵館の名品」 2024年5月21日~6月23日。

入館料1000円。日時指定予約制、来館前にオンラインによる事前予約が必要。無料入館者も事前予約が必要。ただし、障害者手帳等を持つ本人およびその介護者各1名の予約は不要。

地下鉄「大手町」から大手門をくぐり、三の丸尚蔵館前に着いたのは、9時40分頃だった。10時からの入場者が列をなしている前を、障害者手帳を水戸黄門のように見せて、中に入った。予約も入館料も要らないことは快適である。皇室崇敬の念がいよいよ高まってしまう。

内部は2室しかない。2室で終わりなのかと、思わず職員に尋ねてしまった。ついでに、今回の目玉は、と尋ねると藤原定家筆の国宝「更級日記」写本、とのこと。たしかに、見逃してしまいそうな位置である部屋の中ほどにあって、最後に鑑賞して、これが「更級日記」か、大名茶人が好んだ定家様本家の特徴ある「の」の字はこれかと思った展示品であった。

御物は、国宝ではないのでは、と尋ねると、管理・運営が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管された結果、国宝指定されたという回答に、ああそうだったな、と思い出した。伊藤若冲の動植綵絵は5月21日から展示されるとのこと。

国宝・更級日記は、東山御文庫に伝えられてきた 藤原定家による写本、通称「御物本」である。他の現存する写本は全て御物本の系統である。すなわち異本の類は一切なく、その点において例外的な古典である。

 

このあと、時間に余裕がありそうだったので久し振りに東御苑を見学した。