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明治大学博物館① 縄文・弥生 岩名天神前遺跡の再葬墓 顔面付壺形土器

2024年03月23日 13時38分59秒 | 東京都

明治大学博物館。東京都千代田区神田駿河台。

2024年3月14日(木)。

皇居三の丸尚蔵館と東御苑を見学後、御茶ノ水に移動し楽器街を通って明治大学博物館へ向かった。荷物用コインロッカーがないので、デイパックが重い。ビルの地下へ降りていくと3分野の博物館コーナーが商店街のように並んでいた。数十年前、刑事博物館は招待券をよく見かけたが、結局行くことはなかった。今回は、ガイドの解説付きで見ることができた。考古も以前は別の場所にあったようだが、独立した博物館ではないので、コーナー化している。ただ、明治大学の考古学レベルは高いので、説明が整理された状態にはなっている。見学順路を出口から入ってしまった。

 

夏島貝塚と縄文海進   。  

神奈川県夏島貝塚は、関東地方では最も古い貝塚の一つで、縄文時代早期前半から前期にかけて形成されました。

夏島貝塚の第一貝層が堆積したころはまだ陸続きでしたが、凡世界的に海水面が上昇した縄文海進極相期にあたる縄文時代前期には海中の孤島になったと考えられます。

貝塚に残された炉址や遺物、動物遺存体は、周囲の環境が変わるなかで夏島人が狩猟・漁労・採集などさまざまな活動をしていたことを物語ります。

縄文晩期の世界

縄文時代晩期の東日本には、亀ケ岡式土器と総称される土器群などいくつかの土器型式が分布しています。山内清男は亀ケ岡式土器を大洞B、BC、C 1、C 2、A、A’式に細分し、晩期土器編年の基本となる枠組みが作られました。

また、先行する縄文時代後期に引きつづき、晩期でも土偶に代表される優美な呪具・装身具が数多く生み出され「亀ケ岡文化」の特色ともなっています。弥生時代への移行を目前にひかえた縄文人の精神世界の一端をかいま見ることができるでしょう。

弥生時代

弥生時代は日本列島で米作りがはじまった時代です。年代でいうと紀元前5~7世紀頃にはじまり、紀元後3世紀の半ば頃に次の古墳時代へと移行しました。この時代には「クニ」といえるようなまとまりができ、「王」と呼ばれる人物も登場してきます。また、朝鮮半島や中国との交渉が非常に活発になるのもこの時代です。つまり、弥生時代とは前方後円墳によって示されるような古代の王権が出来上がる前の、激動の時代だったといえるでしょう。

考古学では、弥生時代を前期・中期・後期の3時期に区分します。前期の前に早期を考える人もいます。いずれにしても、弥生時代の動きを年代的にとらえるために区分しているのです。

日本列島における稲作の開始

私たちの食生活の中心であるコメは、今から8,000年ほど前に中国の長江中・下流域で作り始められました。5,000年前頃になると稲作はアジア各地に広がり始めます。日本列島で水田を伴う稲作が始まるのは、それよりも2,000年以上後のことです。

稲作はまず北部九州に伝わりました。このときが弥生時代の開始時期です。そしてまもなく、急速に西日本一帯に広がっていきます。「遠賀川式土器」と呼ばれる土器様式の広がりは、初期の稲作の広がりを示すものと考えられています。

列島北部の稲作遺跡

初期の稲作の広がりは、ほぼ名古屋と福井を結ぶラインの西側にあり、東へ、そして北へ行くほど時間的に遅れるものと考えられていました。しかし、そうした定説は1987年に青森県弘前市の砂沢遺跡で、弥生時代前期の水田址が発見され、大きく見直されることになったのです。ただし、東北での稲作は長く継続的に行われることはなかったようです。きびしい天候がそれを許さなかったのでしょうか。

再葬墓の「発見」

東日本の弥生時代初期の遺跡で、地面に掘られた穴(土坑)の中から1個ないし数個体の壷形土器が発見されることは戦前から知られていました。しかし、そうした遺構の性格はよくわからず、祭りの跡であるという説と墓ではないかという説がありました。

1961年、千葉県佐倉市の岩名天神前遺跡の発掘調査が行われ、壷の中から人骨が見つかりました。この発見によって、この種の遺構が墓であることが明らかになったのです。

また、骨を入れた壷の頸部が細いことから、何らかの遺体処理を行ったものと推測されたため、「再葬墓」という概念が出されました。

再葬墓とは何か

「再葬墓」とは文字通り2回の葬儀を執り行う墓制です。1回目は、人間が死んだ後にその遺体を骨にするときです(1次葬)。2回目は骨になった遺体を壷に入れて埋めるときに行います(2次葬)。

こうした行為自体は「再葬」と呼ばれ、弥生時代に限らず、縄文時代から古墳時代、果ては現代にいたるまで行われています再葬墓とは、東日本の縄文晩期から弥生中期にかけての時期に、壷を棺として埋葬した墓制のことを特にそう呼んでいるのです。

岩名天神前遺跡。

千葉県佐倉市岩名字天神前にある弥生時代中期の再葬墓遺跡。印旛沼の南約1.6kmにあり,標高30mの丘陵上に位置する。1963-64年に行われた発掘調査によって,6m×8mという限られた範囲から7基の小竪穴が見つかった。各竪穴の平面は,径70~150cmの不整円形をしており,深さはもと50cm内外あったらしい。竪穴中には1~8個の壺を主体とした土器が計20個埋納されていた。ほかに副葬品とみられるものはない。

これらの土器は,南関東地方の弥生時代中期中ごろを代表する須和田式と呼ばれる段階のものが主で,ほかに北関東系のものが数点ある。これまでこの種の再葬墓と考えられてきた遺構から墓であることを証明する人骨が出土することはなかったが,本遺跡では,出土した土器内に頭骨片を含む成人骨が遺存するものがあった。それらが口の小さい壺に入れられていることなどから,骨化した状態で土器に納骨していると考え,弥生時代に一次葬として土葬などによる洗骨の風習があったと考えられるにいたった。

須和田式土器。関東地方の弥生時代中期前半を代表する土器。

須和田遺跡は、千葉県市川市の江戸川左岸国府台(真間山)の南端から東南東に向かって延びる須和田台に所在する。

昭和8年(1933)から昭和10年(1935)にかけて明治大学の杉原荘介氏らにより発掘調査が実施され、文様が描かれている弥生時代中期の土器が十数点出土した。これらの土器は後年になって、南関東地方最初の弥生土器「須和田式土器」として型式設定された。また、昭和42年(1967)には、この遺跡内から採集された資料である甕形土器の実態も明らかにされ、「須和田式土器」の内容を補完することになった。現在では、「須和田式土器」に先行する弥生土器の存在が明らかになっており、さらに須和田遺跡出土土器群は「須和田式土器」でも後半に位置付けられ、埼玉県の「池上式土器」に並行するとされている。

弥生時代中期は6期に区分され、そのうち前半は、1~3期とされ、1期は杉原によって岩櫃山式と名付けられた土器群で、須和田式は2~3期に充てられている

須和田式の特徴的な土器は、口縁部が逆台形に開き、小さい平底の底部をもつ肩の張った細い長頸壺である。

古相のものは、神奈川県平沢北ノ開戸遺跡及び栃木県出流原遺跡、埼玉県上敷免遺跡出土の資料であり、器面全体を太い沈線で区分し、条痕文を主に縄文を充填して胴部下半を全面条痕を施すタイプと肩部に沈線で三角形を交互に繰り返し、縄文や刺突文で充填し、胴部下半は無文か条痕がまばらに施されるタイプがある。

新相のものは、埼玉県須釜遺跡の再葬墓や池上・小敷田遺跡の出土例である。胴部下半の条痕がまばらか無文で、肩部に沈線で区分された三角形に縄文や刺突文が充填されるもの、肩部に加えて胴部中央部に紡錘状ないしはひし形の区画が繰り返されて縄文や刺突文が充填されるものがみられる。また口縁部や胴部に波状文が繰り返され、その間に縄文が充填される長頸壺や深鉢状の広口壺があらわれる。

重文・顔面付壺形土器。出流原(いずるはら)遺跡(栃木県佐野市)

高さ21.6cm。弥生時代中期の再葬墓遺跡から出土した。目はないが大きく開いた口の上には鼻の穴が開き、トサカ状の突起が頭頂部にあり、両耳には耳環をつけるためなのか穴が開いている。

再葬墓遺跡からは人の顔が表現された壺形土器が1点から数点出土するが、このように壺の口が顔のとなっているものは珍しく、全国でも数例のみである。

南関東の弥生時代

南関東地方が本格的な農耕社会に入るのは弥生時代中期のことです。この地方で「宮ノ台式土器」と呼ばれる土器を製作・使用していた時代です。宮ノ台式土器の時代には、南関東に環濠集落が登場し、それを中心に地域のまとまりができてきました。

また、西日本からの墓制である方形周溝墓の出現や、石器から鉄器へと道具の材質が代わっていくのもこの時代のことでした。宮ノ台式土器の時代は大きな画期だったのです。

弥生時代後期になると、中期の環濠集落が解体し、地域社会が再編されたようです。環濠集落を含む集落は小型化し、内陸部へと進出します。土器の特徴も小地域ごとに違いが際立ってきます。

こうした様々な社会の動向が次の古墳時代への移行を準備したのです。

宮ノ台式土器。宮ノ台遺跡は、千葉県茂原市南部の綱島地区の宮ノ台と称する三島神社背後の台地上に所在する。南関東地方における弥生時代中期後半の土器型式である「宮ノ台式土器」は、本遺跡から出土した土器の研究により設定された型式名であり、本遺跡が「宮ノ台式土器」の標式遺跡となっている。

本遺跡は、昭和10年(1935)、15年(1940)の2回、台地上の西側及び南側斜面部の一部が、明治大学の杉原荘介氏により発掘調査された。

発掘調査の結果、弥生土器とともに、この時代の特徴的な石器である柱状片刃石斧(ちゅうじょうかたばせきふ)、大型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)などの磨製石斧や碧玉(へきぎょく)製の管玉などが出土した。調査はごく一部にとどまっているが、遺跡の範囲は独立した台地上全域に拡がっているため、弥生時代中期後半の大規模な集落の存在が推定されている。

本遺跡から出土した土器は、東海地方に出土する櫛目文土器の影響を強く受けた弥生時代中期後半の代表的土器群で「宮ノ台式」と呼ばれる。その後、各地で数多くの発掘調査が実施された結果、宮ノ台式土器が東京湾を囲む地域に広く分布していることが判明している。

弥生後期の地域色         

弥生後期には関東地方一円で個性豊かな土器群が展開し始めます。南関東の弥生土器では、戦前に久ケ原式、弥生町式、そして前野町式という3つの土器型式が設定されていました。その後、70年代以降になると発掘調査が進んで、それらとは違う土器も知られるようになってきました。臼井南式・朝光寺原式・吉ケ谷式といった型式がそれです。また、関東全体の土器群の整理が進むなかで、これまで久ケ原式・弥生町式とされていたものの中にも、厳密にはそれらとは異なる土器があることがわかってきました。二ツ池式土器と呼ぶ土器などがそうです。

壺形土器。弥生時代後期。二ツ池遺跡。

頚部の円形浮文(粘土粒)、無文部の鮮やかな赤彩、複雑な重山形文と梯子文からなる見事な胴部の文様で構成されている。

慶應義塾大学三田キャンパス 和田英作原画、小川三知制作のステンドグラス



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