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皇居東御苑 富士見多聞 寛永期天守復元模型 二の丸庭園

2024年03月19日 13時47分25秒 | 東京都

皇居東御苑。東京都千代田区千代田。

2024年3月14日(木)。

10時ごろに、三の丸尚蔵館の見学を終えた。次に、明治大学博物館見学を予定していたが、時間に余裕がありそうだったので久し振りに東御苑を見学することにした。前回は20年ほど前に、天守台を見た記憶がある。三の丸尚蔵館向かい側の売店前にマップ付きのリーフレットが置いてあったので入手。売店の人に、現在の見どころを尋ねると、芝生に早桜、梅林坂に梅が残っている、江戸城天守模型があるとのことだった。

左から時計回りに進み、坂を登ると「果樹古品種園」に、皇居勤労奉仕団らしき一団がおり、白人夫婦が花を眺めていた。

果樹古品種園。上皇陛下の考えにより、江戸時代の食用品種を植えている。

松之大廊下跡。

本丸跡左手、現在は木立となっているところにある。松之大廊下は、本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院にわたる西へ約19ⅿ、北へ約31ⅿのL字型廊下で全長50m、幅約5mほどの畳式廊下で、本丸では二番目に長い廊下で、襖に松並木の絵が描かれていたことからこの名が付けられた。

元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所である。

道なりに進むと、茶畑があり坂道を上ると富士見多聞があった。前回は見た記憶がないので入場した。

富士見多聞。

木造平屋建本瓦葺。 建物の高さ 約6.3m。櫓下石垣の高さ 約19m。 延面積 155.17㎡。

建築年 未詳。明暦3年(1657)の大火で焼失した慶長11年(1606)頃創建の多聞を万治2年(1659)に再建したもの、安政6年(1859)の火災後の再建建物を基礎として明治21年に修繕したものとする説がある。

大正12年(1923)関東大震災で損壊、大正14年(1925)復旧、昭和43年(1968)解体修理。

多聞とは、城郭の石垣上に建てられた防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、中には鉄砲や弓矢が納められていた。江戸時代の江戸城本丸には15棟の多聞があったが、現在残っているのは、この富士見多聞だけである。

今は見られないが、かつては、この富士見多聞から、実際に富士山を望むことができたと考えられる。

将軍が政務を執ったり、日常生活をする場であった本丸中奥にある将軍の私的な居間をさす御休憩所の前にあったことから「御休憩所前多門」ともよばれていた。

乾通沿いの蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さが約20ⅿにもなる長大な石垣で、防御上の死角をなくすため東・南・西の三面いずれも激しく屈折している。

2016年11月15日より一般公開されている。

入口の職員は、入場者の8割は外人だと言っていた。2階への梯子は明治時代の後補、低い1階天井の化粧は昔のままという。

寛永期天守復元模型。

江戸時代の初期、江戸城の中心であった本丸には、慶長期、元和期、寛永期と3度にわたり天守が築かれた。

本天守復元模型は、外観、構造など、復元のために重要な資料が比較的多く残され、確かな時代考証に基づく復元が可能な寛永期の天守を1/30スケールで制作したものである。

汐見坂。

白鳥濠の北側の坂で、この坂を下ると旧二の丸跡に出る。本丸と二の丸の高低差は約10mあり、汐見坂門(しおみざかもん)のあった場所までくると、白鳥濠を見下ろすことができる。往時は、今の新橋から皇居前広場の近くまで日比谷入江が入り込み、この坂から海を眺めることができた。

白鳥濠。

現在では、本丸と二の丸の間に唯一残った貴重な濠となっている。

二の丸庭園二の丸池は、小堀遠州作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にある。

二の丸は、将軍別邸や世継ぎの御殿が建てられ、御茶屋や庭園泉水などもあった。寛永12年(1635)に竣工した二の丸御殿の平面図によると、現在の雑木林のあたりには御殿が建てられ、庭園としては小堀遠州の作といわれる泉水が描かれている。その後、二の丸御殿は焼失と再建を繰り返し、慶応3年(1867)に最後の御殿が焼失した。

1968年の東御苑一般公開に先立ち、残された九代将軍家重の時代の絵図面をもとに回遊式庭園が1965年に復元された。

 

10時50分頃に東御苑を出て、明治大学博物館へ向かった。

皇居三の丸尚蔵館開館記念展 新国宝・雲紙本和漢朗詠集



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