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青森県弘前市 津軽為信の本城 国史跡・堀越(ほりこし)城跡①

2024年04月18日 15時06分17秒 | 青森県

国史跡・堀越(ほりこし)城跡。弘前市堀越。

2022年9月27日(火)。

道の駅「弘前」で起床。国史跡・堀越城跡は、予定していなかったが、急遽見学することにした。国道7号線を北に進んで、西北側の見学者用駐車場に着いた。8時45分ごろだったが、犬の散歩をする人が多かった。

城跡を見学したあと、国道7号線を渡って東側にあるガイダンス施設を見学した。

堀越城跡は、国史跡・「津軽氏城跡種里城跡 堀越城跡 弘前城跡」の一つである。津軽氏は、系図では種里(鰺ヶ沢町)に入った光信を始祖とする。種里から、大浦(弘前市五代)に移り、為信の代の天正18年(1590)、津軽領有を豊臣政権から認められ、津軽氏と称するようになった。

為信は、文禄3年(1594)に堀越城を改修、本拠を大浦城から移転し、あわせて家中諸士、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。これは、政治及び経済面での領内支配の強化のためとされる。堀越城は以後、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に高岡(弘前)に居城を移すまで、津軽氏の本拠として機能した。

堀越城が本拠として機能していた文禄・慶長期は、豊臣政権による朝鮮出兵から、江戸幕府の成立までに至る、激動の時代である。本州北端に位置する津軽家も、領主権力の確立の過程で、時代の変動に大きな影響を受けた。

近年の調査により、堀越城跡では16世紀末ころの大規模な改修により、求心的な縄張り構造へ変化したこと、本丸に礎石建物による御殿建築群が配されたことなどが判明しており、織田・豊臣政権下の西日本において発展した築城技術の強い影響を受けたことが判明している。しかし同時に、同時期の築城技術である石垣や瓦屋根建物が見られないことなども判明しており、変革期の社会情勢下における、当地方の城郭の変遷や領主権力の確立の過程を考察する上で重要な城跡といえる。

「堀越」という地名が文献上に現れるのは、南北朝時代の建武4(1337)年にさかのぼる。この時の記録には「堀越に楯(館)[たて]を築く」とあるが、この「楯」の詳細は不明である。

 大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図る。この頃から再び、「堀越」の地名が現れ始める。

 弘前藩が享保16(1731)年に編さんした弘前藩官撰史書『津軽一統志』によると、元亀2(1571)年、為信は堀越城から石川城(大字石川)の城主南部高信を奇襲し、石川城を攻め落としたとされている。その後、為信は大光寺城[だいこうじじょう](平川市)や浅瀬石城[あせいしじょう](黒石市)を攻略し、天正19(1591)年頃までには、「津軽右京亮」為信として豊臣秀吉より大名として認められ、領地安堵を得ることとなった(いわゆる「津軽切り取り」)。

 文禄3(1594)年、為信は堀越城を改修し、大浦城から居城を移す。その後堀越城は、弘前藩2代藩主信枚が高岡城(後の弘前城)へ拠点を移す慶長16(1611)年までの17年間、津軽氏の居城として栄えた

 現在の堀越城跡の形は、本丸を中心として、周囲を家臣等が住む二之丸、三之丸、外構[そとがまえ]等の曲輪が取り囲む平城となっているが、この城の形は、為信が文禄3(1594)年の堀越への居城移転の際に行った大改修により作られたものと考えられている。

 昭和期の発掘調査は、国道7号バイパス建設に伴い昭和50(1975)年から実施された。昭和期と平成期の2回の調査成果に基づき、現地での整備工事が本格化した。整備工事は、文禄3(1594)年に為信により行われた大改修後の堀越城の姿を基準として、主に土木工事の痕跡である曲輪の形や土塁、堀の復元を行った。

平成24年(2012)より、本格的に整備を行い、令和2年(2020)4月から全面公開を行っている。

三ノ丸北土塁上の展望台から本丸。

三ノ丸北土塁上の展望台から東方向の国道7号線とガイダンス施設。

本丸跡入口。

青森県平川市 名勝・盛美園 田舎館村 田んぼアート 黒石市中町・重伝建地区



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