旧石戸谷家住宅(国史跡・堀越城跡ガイダンス施設)。弘前市堀越(ほりこし)。
2022年9月27日(火)。
堀越城跡を見学したあと、国道7号線を渡って東側にあるガイダンス施設を見学した。
大浦城(弘前市大字五代)の城主であった「南部右京亮[うきょうのすけ]」為信(後の弘前藩初代藩主津軽為信)は、16世紀後半(約440年前)に、津軽を支配していた南部氏から独立を図る。津軽為信は天正18年(1590)、津軽領有を豊臣政権から認められ、津軽氏と称するようになった。
為信は、文禄3年(1594)に堀越城を改修、本拠を大浦城から移転し、あわせて家中諸士、神社仏閣、商家なども堀越へ移住させた。これは、政治及び経済面での領内支配の強化のためとされる。堀越城は以後、二代藩主信枚が慶長16年(1611)に高岡(弘前)に居城を移すまで、津軽氏の本拠として機能した。
昭和期の発掘調査は、国道7号線バイパス建設に伴い昭和50(1975)年から実施された。昭和期と平成期の2回の調査成果に基づき、現地での整備工事が本格化した。整備工事は、文禄3(1594)年に為信により行われた大改修後の堀越城の姿を基準として、主に土木工事の痕跡である曲輪の形や土塁、堀の復元を行った。
平成24年(2012)より、本格的に整備を行い、令和2年(2020)4月から全面公開を行っている。
旧石戸谷家住宅(国史跡・堀越城跡ガイダンス施設)。弘前市堀越(ほりこし)。
旧石戸谷家住宅は、木造一部2階建1階床面積388.39㎡という巨大な建物である。ウマヤに当たる国史跡・堀越城跡ガイダンス施設部分の見学を終え、座敷方面へ移動した。
家伝によれば、石戸谷家はもと種里に居住したが、近世初期に萢中(やちなか)に移り住み開拓に従事したという。以来明治にいたるまで萢中の大家(おおや)と呼ばれ、藩主も立ち寄る家柄であったと伝えられる。座敷に続く東面には、貴賓用の玄関跡と思われる痕跡がある。
この建物は、文政5年(1822)の建築との伝えもあるが確証を欠き、また、当家に安政6年(1859)の普請中諸払帳が残されていることや木部の風食などからみて、江戸末期の建築と推定される。
全体的にみて後世の改造も少なく、豪農の建築を知るうえで貴重な建物である。
現在は、史跡津軽氏城跡堀越城跡のガイダンス施設として、史跡隣接地に移築されている。
ウマヤの天井裏小屋組。
中座敷から奥座敷方向。
奥座敷の床の間。
奥座敷の飾り棚。
大石武学流庭園。
このあと、南の碇ヶ関関所跡へ向かった。途中、大円寺、大鰐温泉大湯に立ち寄った。