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青森県三戸町 国史跡・三戸城跡 盛岡藩南部家(三戸南部氏)の本城

2023年08月16日 21時40分05秒 | 青森県

国史跡・三戸城(さんのへじょう)跡。本丸跡駐車場。青森県三戸町梅内字城ノ下。

2022年10月4日(火)。

南部町の国史跡・聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡を見学後、国史跡・三戸城跡へ向かった。三戸町町役場南東から日本の歴史公園100選にも選ばれている三戸城跡城山公園の車道を登っていくと、本丸跡の広大な駐車場に着いた。

三戸城は、三戸南部氏(盛岡藩南部家)が聖寿寺館から移転して室町時代から江戸時代のはじめにかけての奥州南部領の本拠としたと伝えられる。

三戸城は三戸町の中心部、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された標高約131mの独立河岸段丘上に立地する。四方は名久井岳や奥羽山脈に連なる丘陵に囲まれ、両河川を天然の水堀とした天然の要害となっている。低地との比高差は約90mを測り、規模は東北から西南方向に約1.5㎞、北西から南東方向に約400mである。

近世の城絵図によると、連郭式山城の中心に位置する大御門から東側は本丸をはじめとする城の主要部で、大手門から本丸手前までは一門や重臣の屋敷、北東側(裏手)には直臣達の屋敷、そして城下の周りにその他の家臣達が配置されている。

三戸町立歴史民俗資料館(左)・三戸城温故館(中央)。

本丸跡西の一門の屋敷跡に昭和42年(1967年)に天守風の建物が築かれ「温故館」の名で歴史資料館となっている。

三戸城は、室町時代後期から江戸時代初頭まで三戸南部家の居城であったと伝えられている。江戸時代の史料『系胤譜考』によると、天文8年(1539)南部晴政の代に、居城としていた本三戸城(現南部町・聖寿寺館跡)が家臣の放火により焼失したため移転したとされている。しかし、近年の研究では、南部家の勢力拡大に伴い、三戸が地勢的に有利である点や権力に見合った大規模城郭の必要性などにより移転したとする見方もされている。

24代晴政・25代晴継が相次いで没すると、天正10年(1582年)22代政康の孫・田子信直(南部信直)が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、26代当主の座に着いた。

天正18年(1590)、小田原攻めに参陣した南部信直は、豊臣秀吉から「南部内七郡」の領有を認められるが、この時、三戸城が正式な居城(本城)に定められていることが『豊臣秀吉朱印状から確認されている。

天正19年(1591年)九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請される。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。

その後、三戸南部家の居城は福岡城(二戸市)、盛岡城(盛岡市)へと移るが、三戸城は残され城代が置かれた。また、貞享年間(1684~88)の城代廃止に伴い古城となってからも、御掃除奉行が設置されるなど、江戸時代を通して城は管理が続けられた。

三戸城跡は盛岡城築城以前の南部氏の本城の姿が詳細に復元できるとともに、戦国末期から近世初頭における北東北の築城技術を知る上で重要である。

江戸時代初頭と推定される造成土下で、複数の整地層が認められ、14・15世紀代の国産陶器が出土することから、この城は少なくとも15世紀以前から城館としての利用が始まり、江戸時代初頭に至るまで複数回の改修が行われ、現在の曲輪配置になったとみられている。

石垣の石材の加工法から石垣が築かれた時期が複数あることや構築方法などから、奥州仕置後と元和期(1614~23)に大きく分けられることが確認されている。

大門跡からみつかった門礎石の構造は、奥州南部領の城郭では当時最大規模の城門であったことが判明しており、南部家の高度な築城技術と権力を示す遺構として注目されている。

南部家の定紋「向鶴」。

温故館4階展望台からの眺望。西方向。

 

このあと、岩手県一戸町の世界遺産・御所野遺跡へ向かった。

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