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青森県南部町 盛岡藩南部家のルーツ 国史跡・聖寿寺館跡 現地見学

2023年08月15日 18時09分04秒 | 青森県

国史跡・聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡。概念図。青森県三戸郡南部町小向村中。

2022年10月4日(火)。

三光寺の南にある史跡聖寿寺館(しょうじゅじたて)跡案内所の展示を見学後、南西にある国史跡・聖寿寺館跡現地の見学に向かった。

航空写真。左が北。

南部氏は南北朝期に勢力を伸張し、戦国時代に東北北部地方に覇をとなえた。南部町は甲斐源氏支流の南部氏本宗家の本拠地で、南部氏ゆかりの文化財が数多く残されている。南部氏は、14世紀末頃に聖寿寺館に本拠を移したが、天文8年(1539)に家中の内紛によって聖寿寺館は焼亡し、現在の三戸城に移った。

聖寿寺館跡は、青森県南東部、南部町の南西部、猿辺川と馬淵川の合流点付近に位置し、眼下に馬淵川を望み、霊峰名久井岳を遠望する。奥州街道と鹿角街道の合流点に近接し、奥州街道は館跡の東堀底道を北上する

聖寿寺館跡は、標高60~70m(周辺との比高差20m)の段丘上に占地する。聖寿寺館跡本体は開発による破壊が殆どなく、中世の状態が良好に保存されている。東西約330m、南北約280mの三角形を呈し、緩く南東方向に傾斜しており、内部はいくつかに区画されていたと推定される。

館跡は北側と東側を幅約6~10mの大型の堀で区切られている。北堀跡は完全に埋まりきっていないが、現地表下から堀底まで約6.5mを測る。堀底で4条の溝跡が検出され、4回改修されたことが確認された。

西側は切り立った断崖で、北西端部の最高所には館神と呼ばれる小祠がある。北西側に西側から続く堀跡が入り、堀底道になっている。

南側は帯郭状になっており、若宮八幡宮が祭られている。

検出された遺構は掘立柱建物跡が4棟、竪穴建物跡が38棟、堀跡等がある。北東部で検出された東西6.2m、南北14.2mの大型竪穴建物跡は、青森県内では中世で最大規模の事例である。

掘立柱建物跡は城館の西側地区に集中し、逆に東側地区には工房や倉庫と推定される竪穴建物跡が集中する傾向が見られる。

出土遺物の年代は、おおむね15世紀前半から16世紀前半で文献史料とも符合する。

奥州街道が東から南に屈曲する地点の表示がある。

そのまま西へ歩くと、堀の跡を歩くことになり、南側に聖寿寺館跡の北東部が見えてきた。この地区は工房や倉庫があった地区で地表表示がされている。現在は、発掘調査の詰所および駐車場となっている。

枡形1。北側の中央部に史跡への入口がある。このあたりからは、東北最古級の枡形と土橋が発掘されている。

南東部方向。

西方向。北西端部の最高所には館神と呼ばれる小祠があるといい、朱色の小さい鳥居が見える。

西側地区。中心区画。発掘調査中。

南東部。虎口2。

南東部。南へは低く傾斜している。帯曲輪があったとされる。

北東部で検出された東西6.2m、南北14.2mの大型竪穴建物跡は、青森県内では中世で最大規模の事例である。

 

見学後、三戸町の国史跡・三戸城跡へ向かった。

青森県南部町 盛岡藩南部家のルーツ 国史跡・聖寿寺館跡 聖寿寺館跡案内所②本州アイヌ



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