「東京くらしねっと」(10月号、編集発行:東京都消費生活総合センター)の記事に「被害者にならないために~騙される心理(こころ)を知る~」という精神科医の名越康文(なこしやすふみ)先生のお書きになった文章がありました。これはつまり、振込め詐欺を元にして、加害者側の巧妙なテクニックもさることながら、なぜ、「これだけの人が簡単に騙されてしまうのか」という驚きとメカニズム、対策がテーマとなっています。確かに被害はいっこうに収まらず、被害者は後を絶ちません。これは広い意味でこころの問題であると、先生は考えたようです。
さらに先生がおっしゃるには、ここ20年ぐらい、私たちは「感情人間」にさせられてきた、ということです。
それは、あらゆる情報・教育・娯楽を通じて「感情のままに生きなさい」「感情豊かなのは人間らしいすばらしい生き方です」=「感情こそ人間です、私そのものです」と刷り込まれた。
これが、大きな副作用を呼んでいるとおっしゃっております。
感情を表に出すことはストレスを発散した気になるし、解放感もあって一定の満足を得ることが出来、効果もある。しかし、感情を「すばらしい」「美しい」「あるんだから仕方ない」「感情があってこその人生」と感じて・思ってしまうと大変なことになります。
よく考えてみてください。
感情ほど瞬時にして変化して止まることを知らず、環境や状況に応じて千変万化してしまうものはないのです。
ということはそれを自分自身であると思うことは、「常に瞬間瞬間の気分に振り回され、こころも行動も混乱し疲れ果ててしまう。強烈な思い込みに引きずり込まれてしまう。」こととなります。
そこで、思い出せる方は、遊園地にあった「コーヒーカップ」という乗り物を想像してください(いまもあるのかな?ディ○ニーランドとかに…)。
コーヒーカップにみたてた乗り物に乗り、最初は優雅に動き出し、次第に激しくなります。右に、左に、くるくる回り、突然止まったり、蛇行したり…平衡感覚が無くなったりする人もおられるでしょう。気分不快もありうるでしょう。逆に気分爽快になる方もおられるかもしれません。
われわれの感情はこのコーヒーカップにそっくりのような気がすると先生はおっしゃっています。
ここでもう一度考えましょう。
感情を自分だ、と思っている方は、コーヒーカップを「自分自身だ」と言うでしょうか?それは妄想です。
しかし、私たちは自分の感情については「自分自身だ」あるいは少なくとも「私の一部だ」と信じて疑うことがないのです。
そして、それは乗り物であるコーヒーカップを「私だ」と言っているのと同じぐらい、実に奇妙なことです。
感情を「自分自身だ」などと思い込んでしまったとしたら、それはまるで次の瞬間に、どちらの方向に進むかわからない乗り物にずっと乗っているのと同じになります。
私はさらに思います。
逆に感情表出した他者を「あなた自身だ」と決め付けることも同様では無いでしょうか。それは本質とは関係なく、環境や情報などにより、そのコーヒーカップ(怒るとか怒鳴るとか)に乗っているに過ぎない。
もちろん、それを受け取った自分自身の感情も同様です。
私たちは、ここ20年ぐらい、感情という暴れ馬を制御する騎手の業を、学んだり・トレーニングしたりすることを怠ってきたと思います。毎日毎日、その瞬間瞬間を、心配したり・安堵したり・怒ったり・喜んだり…まさに一喜一憂して過ごすようになってしまったと思われます。
私も、自分自身を振り返ると、感情の赴くままに生きております(反省)。神経症ですし。
感情的になった場合、感動や嬉しさはともかく(快感だから)、怒りや悲しみや不安の時には、「コーヒーカップに乗っている」と思うこととしたい、そして、それをコントロールできる騎手にならなければ…と感じました。
先生は、神経症という病について「この病気になると、不安や焦燥感におそわれることが増え、動揺してしまい、自分にどのような感情が起こっているのかを冷静にみることができなくなる」とされ、「私たちは今やみんなが神経症の要素を持っていると言えるのではないか」とおっしゃっています。
ちなみに、振り込め詐欺対策としては、感情的(不安やあせりや怒りなど)になったら、それを普通だと(自分自身だと)思わずに「ちょっと待てよ、これは危ない状態だぞ」と自分の心を疑ってみる、用心してみる、冷静になる、ということとおっしゃっています。
こういう習慣を取り戻さなければならない社会ではないかと、私も思います。
みなさまは、「感情」をどうとらえますか?
自分自身ではない。コーヒーカップなんだ。自分という本質・アイデンティティは、コーヒーカップに乗っているもので、コーヒーカップとは別物なんだ…などと考えていただけますと、よいのではないかしら。
さらに先生がおっしゃるには、ここ20年ぐらい、私たちは「感情人間」にさせられてきた、ということです。
それは、あらゆる情報・教育・娯楽を通じて「感情のままに生きなさい」「感情豊かなのは人間らしいすばらしい生き方です」=「感情こそ人間です、私そのものです」と刷り込まれた。
これが、大きな副作用を呼んでいるとおっしゃっております。
感情を表に出すことはストレスを発散した気になるし、解放感もあって一定の満足を得ることが出来、効果もある。しかし、感情を「すばらしい」「美しい」「あるんだから仕方ない」「感情があってこその人生」と感じて・思ってしまうと大変なことになります。
よく考えてみてください。
感情ほど瞬時にして変化して止まることを知らず、環境や状況に応じて千変万化してしまうものはないのです。
ということはそれを自分自身であると思うことは、「常に瞬間瞬間の気分に振り回され、こころも行動も混乱し疲れ果ててしまう。強烈な思い込みに引きずり込まれてしまう。」こととなります。
そこで、思い出せる方は、遊園地にあった「コーヒーカップ」という乗り物を想像してください(いまもあるのかな?ディ○ニーランドとかに…)。
コーヒーカップにみたてた乗り物に乗り、最初は優雅に動き出し、次第に激しくなります。右に、左に、くるくる回り、突然止まったり、蛇行したり…平衡感覚が無くなったりする人もおられるでしょう。気分不快もありうるでしょう。逆に気分爽快になる方もおられるかもしれません。
われわれの感情はこのコーヒーカップにそっくりのような気がすると先生はおっしゃっています。
ここでもう一度考えましょう。
感情を自分だ、と思っている方は、コーヒーカップを「自分自身だ」と言うでしょうか?それは妄想です。
しかし、私たちは自分の感情については「自分自身だ」あるいは少なくとも「私の一部だ」と信じて疑うことがないのです。
そして、それは乗り物であるコーヒーカップを「私だ」と言っているのと同じぐらい、実に奇妙なことです。
感情を「自分自身だ」などと思い込んでしまったとしたら、それはまるで次の瞬間に、どちらの方向に進むかわからない乗り物にずっと乗っているのと同じになります。
私はさらに思います。
逆に感情表出した他者を「あなた自身だ」と決め付けることも同様では無いでしょうか。それは本質とは関係なく、環境や情報などにより、そのコーヒーカップ(怒るとか怒鳴るとか)に乗っているに過ぎない。
もちろん、それを受け取った自分自身の感情も同様です。
私たちは、ここ20年ぐらい、感情という暴れ馬を制御する騎手の業を、学んだり・トレーニングしたりすることを怠ってきたと思います。毎日毎日、その瞬間瞬間を、心配したり・安堵したり・怒ったり・喜んだり…まさに一喜一憂して過ごすようになってしまったと思われます。
私も、自分自身を振り返ると、感情の赴くままに生きております(反省)。神経症ですし。
感情的になった場合、感動や嬉しさはともかく(快感だから)、怒りや悲しみや不安の時には、「コーヒーカップに乗っている」と思うこととしたい、そして、それをコントロールできる騎手にならなければ…と感じました。
先生は、神経症という病について「この病気になると、不安や焦燥感におそわれることが増え、動揺してしまい、自分にどのような感情が起こっているのかを冷静にみることができなくなる」とされ、「私たちは今やみんなが神経症の要素を持っていると言えるのではないか」とおっしゃっています。
ちなみに、振り込め詐欺対策としては、感情的(不安やあせりや怒りなど)になったら、それを普通だと(自分自身だと)思わずに「ちょっと待てよ、これは危ない状態だぞ」と自分の心を疑ってみる、用心してみる、冷静になる、ということとおっしゃっています。
こういう習慣を取り戻さなければならない社会ではないかと、私も思います。
みなさまは、「感情」をどうとらえますか?
自分自身ではない。コーヒーカップなんだ。自分という本質・アイデンティティは、コーヒーカップに乗っているもので、コーヒーカップとは別物なんだ…などと考えていただけますと、よいのではないかしら。