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「龍馬を斬った刀」

2013-03-19 21:04:22 | 旅行


龍馬を斬った刀  :「京都幕末維新をゆく」木村幸比古


:霊山歴史館HP
長さ42.1cm 反り0.8cm 越後守包貞(偽銘)
京都東山「霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)」で館蔵の逸品、「龍馬を斬った刀」を目の前に興奮しました。

『慶応3年11月15日、見廻組肝煎桂早之助がこの脇差を持って京都近江屋の一室で坂本龍馬を斬ったといわれている。
当時調査した川田瑞穂(のち早大教授)は「初より室内の闘争を予期して小太刀の名人のみを二階に闖入(ちんにゅう)せしめたのである。予は桂早之助の娘婿桂利器の宅にて右に使用せし刀を見せて貰いたり、二尺に足るか足らぬか脇差程度のものであった」と土佐史談に寄稿している。
桂早之助は西岡是心流を習い、17歳で目録を受け特に小太刀の名手だったといわれている。慶応4年正月、鳥羽伏見の戦いで撃たれて戦死、行年28歳。
脇差はのちに桂家から霊山歴史館に寄贈された。』:霊山歴史館HP

残念ながら撮影禁止でしたが本差、脇差の二本が並び、その脇差は錆びていました。
なぜ砥ぎに出さなかったのだろう?と考えてしまいます。
切先ふくら部分に激しい刃こぼれが見えます。
龍馬は一太刀でやられたのではなく激しい渡り合いの痕跡に思えます。
鞘にある受け太刀傷から、兄権平から譲り受けた名刀「陸奥守吉行」を抜く間もなく頭に致命傷を受けたとされていますが、この刃こぼれを見れば間違いなく激闘があったのでしょう。

ここではリアルな格闘シーンを映像でも見ることができます。
鞘つきの陸奥守で防ぐ龍馬の眉間に切先がめり込んでいます。

狭い場所に踏み込まれての格闘は脇差のほうが扱いやすい有利さがあるといわれます。
戦場で武士は組み打ちになる至近距離の攻撃(余りに近いと本差などの大振りは死角になる)に右腰に抜きやすい馬手差(めてざし)の短刀刺刀(さすが:差刃は誤り)を差したのです。
小太刀の達人が差し向けられたとする説に説得力があります。
いったい誰が差し向けたのでしょう? 幕末最大のミステリー、謎ナンバーワンです。

鎌倉時代、徒歩の兵士たちの主要武器は薙刀であったがこれを失ったときや、乱戦になって薙刀(長い武器)が使えなくなった時に用いられた。「刺殺武器」としての刺刀は、反りがなく重ねが厚い(刀身の断面形状が厚い)「鎧通し」と呼ばれる短刀の形式に発展した。抜きやすいよう右腰に口を帯の下に差した刺刀は妻手指(えびらさし)または馬手差(めてざし:右手差しの意味)と呼ばれる。後に腹部を刀剣類で薙がれる危険性をより回避するために中央左寄りの腰に短い脇差を差すようになり、馬手差は次第に廃れていった。:Wikipedia


映画「たそがれ清兵衛」で真田広之が脇差で闘うシーンを思い出しました。
「わたすが津田先生から教えてもらったのは小太刀でがんす。」 (追:津田と聞こえたが一刀流戸田仁斎だった)
田中泯演じる余吾善右衛門の大刀は振り下ろせずに鴨居に刺さるのです。

闘いの前夜、清兵衛は脇差の目釘を抜き柄、鍔、はばきをはずして土間の筵の上の砥石で刀身を砥ぎ始めます。
砥ぎ終るや庭に出て構え、抜き打ち真一文字に横になぎります。
達人の域の形は美しくて身震いするほどです。
刀を持たせたらこの人の右に出る役者はいないと思います。
ラストサムライで首への寸止めにトム・クルーズもたまげたことでしょう。

「お聞きしてもいいでがんしょか? なぜ清兵衛さまが果し合いに・・?」
「藩命に逆らうわけにはいきますねぇ。わたすも侍のはすくれでがんすさけぇ・・。」


2002年の日本アカデミー賞を総なめした「たそがれ清兵衛」で朋江役の宮沢りえも光っていました。
最近見たNHK連ドラマの「神様のボート」ではガッカリでしたが、伊右衛門のりえは楽しみに見てます。
むかし「Santa Fe」仲間で注文しました。



:「京都幕末維新をゆく」木村幸比古
霊山歴史館学芸課長の木村氏サイン入りを求める。

現場に残った刀の鞘、「こなくそ」のことばから新撰組原田左之助による説、薩摩中村半次郎とする説などがありますが、霊山歴史館では函館戦争で投降した京都見廻組今井信郎の取調べ証言などから京都見廻組説を採っているようです。

「事件当夜、近江屋の一室で密会が持たれた。・・・土佐勤皇党の同志宮川助五郎の身柄引取りについて、龍馬は中岡、岡本健三郎らと協議、その話も終え岡本は帰り、中岡と話し込んでいた。
一方、見廻組の一団は佐々木只三郎の指揮のもと今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、桜井大三郎らと龍馬暗殺を企てた。
まず佐々木が、十津川郷士の札名刺を龍馬の下僕藤吉に差出し油断させ、龍馬がいることを確認した。龍馬を襲う三人が二階に上がる前に、藤吉を切り倒す。一階では家族を取り押さえる者が一人、玄関先に一人、戸外の伝令役が一人、総指揮の佐々木が手はず通りについた。
 小太刀の名手桂が、一人で龍馬の部屋に、会談中の龍馬を正座から脇差(越後守包貞かねさだ)で横一文字になぎり、二太刀目を後ろから小袈裟懸け、三太刀目は頭上へ刀身を左手で押し込みながら斬り伏せた。
そこへ渡辺と高橋が部屋に入り中岡を斬った。佐々木の「もうよい」の声で引き上げたのである。
ではなぜ見廻組は犯行をかくさなければならなかったのか。中岡を斬ったことは誤算であったのだろう。」:「京都幕末維新をゆく」


「近藤勇所用鎖帷子 新選組が着用した鎖帷子は、土方歳三のものが有名だが、近年になって近藤のものが発見された。文久元年(1861)4月20日付の小島日記には「廿日、雨降、近藤勇来ル、錣帷士壱領二圓(二両)相附置申候」とあり、このとき多摩小野路村の名主小島鹿之助が、近藤に一着につき金二両を添えて、鎖帷子二着を頼んだ。近藤はさっそく江戸の武道具屋でつくらせ、小島に納めた。後に近藤が京都に上る際、うち一着が小島から贈られている。
鎖帷子の総重量は6キロある。池田屋突入の時に着ていた可能性もある。/布と鉄製」:「京都幕末維新をゆく」

館蔵の逸品その二、近藤勇の鎖帷子(くさりかたびら)を見忘れてしまいました。
玄関ni
出て気づきました。うっかり残念。
近藤のは額銕(ひたいがね)というよりほとんど兜、鉢金ですね。後頭部をも保護する優れものです。
額銕と手甲合わせて6kgもを着物の下につけての斬り合い。少々動き辛くても斬り合いでは断然有利だったでしょう。



3/14日 4:45pm霊山歴史館前で龍馬とツーショット。
6:30pm 出てきたらすっかり夕暮れの時間を忘れる歴史館でした。

「地図」をクリック



三日月が上がってきた空に東山花灯路の坂道がつづきます。

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