樋口一葉が18歳から3年間(明治23年9月~26年7月)借家暮らししていた本郷菊坂の家並み。坂上から見た小路中ほど左に共同井戸が残る。手押しポンプが乗った現役だが当時は釣る瓶で水を汲んだのだろう。
一葉旧居から約150m菊坂を下ると明治を偲ばせる伊勢屋質店。文京区文化財として公開中に入ってみた。道路に面した出格子のある「見世(=店舗兼住宅)」と呼ばれる質屋の造りに当時の一葉の暮らしを偲んでみる。玄関脇の土蔵はひと目で火事対策の頑丈さだ。扉前の廊下床下に火災時に扉の隙間に塗りこむ「目塗り土」の入った大甕があった。
案内にある、母と妹と窮乏生活が明治26年5月2日の日記には 「此月も伊せ屋がもとにはしらねば事たらず、小袖四つ、羽織二つ、一風呂敷につゝみて 母君と我と持ゆかんとす。 ・・・」 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがへ」
西鶴の「長持へ春ぞくれ行くころもがへ」をもじったものとされる。「春が暮れて行く」と「衣替えの春の着物が長持ならぬ質屋の蔵の中に隠れていく」と5月1日の衣替え行事を日記に書いているのか。「此月も」とあるほどここ伊勢屋に通ったのだろう。
「昨日より家のうちに金といふもの一銭もなし」明治26年3月15日 日記には「伊せ屋がもとにはしる」と何度も・・・・。
父の残した借金に17歳から苦労暮らし、幼時に受けた教育が花開いた天才女子も24歳の11月に肺結核で亡くなった。窮乏の質屋通いはいつの間にか新渡戸稲造と入れ替わった5,000円札に何か因縁を感じてしまう。日本銀行が一葉に決めた理由(それも初めての女性?)を知りたいものだ。
ホテル近く、東京メトロ丸の内線南阿佐ヶ谷駅から本郷三丁目駅で地上に出る。今日は同級生たちと夕方から新宿でイッパイの予定。時間はたっぷり物見遊山は本郷、弥生界隈。東大本郷キャンパス赤門を見に行く。一帯は高台の縁で右手上野御徒町南東方面に傾斜している。雨にぬかるみ転げ落ちてタドンの様になる炭団坂、鎧坂、胸突坂、梨木坂、菊坂と坂の街・・・ガイドブックを頼りに坂、高低差探訪ブラタモリだ・・・。
本郷菊坂界隈には明治大正の歴史が残っている。ミニスーパー・シナノヤでご主人の力作「本郷菊坂文学史跡マップ」を30円で仕入れる。一葉、賢治、四迷、坪内逍遥、子規、虚子、啄木、金田一京助・春彦・・・文人たちが住んでいた町を歩く。
マップにある「宮沢賢治下宿跡、名作童話の多くがこの頃形成された・・・」 いま3階建てアパートになっている2階中央付近に賢治の間借りした6畳間があった。妹トシを思う兄賢治「あめゆじゅとてちてけんじゃ・・・」悲しい別れ永訣の朝。
有名な「赤門」を抜け東大本郷キャンパスに。「旧加賀屋敷御守殿門」が正式名。「武士の家計簿」で中村雅俊が殿様の婚礼の準備に表門だけ朱塗りして窮乏の費用捻出したと自慢していたのがコレだ。
かなりの段差ある坂道を下りて三四郎池に。夏目漱石の小説以来こう呼ばれているが、正式の名は「育徳園心字池」とある。形が心の字になってるからだって。さすが前田の上屋敷に江戸諸侯の中で第一の庭園池と言われた規模。絶好の散歩コースではないか。
「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」銀杏の葉が吹雪く並木に桃尻娘橋本治の駒場祭ポスターを思い出す、正面に安田講堂。昭和44年(1969)1月の火炎ビンとガス銃と放水。日本中でTVのLIVE映像を見ていた。
歩きくたびれて講堂正面の地下にある東大の学食、中央食堂で昼飯を食う。右端イベリコ豚丼500円には三四郎定食とも書いてあった。「孤独のグルメ」井之頭五郎になりきって美味しく頂いた。東大生はこんなの食ってんのか・・・。
東大病院を抜ければすぐ上野の不忍池だが、行けども行けども塀が切れていないので出られない。病院は塀で囲まれていた。やっと見つけた「鉄門」から出て旧岩崎邸、三菱資料館前を通って丸の内線本郷三丁目→JR御茶ノ水→新宿に出る。懐かしい顔に再会だ。
二次会に歌舞伎町を歩く。幹事役ご苦労さん江〇くん。遠路はるばる上〇さん、小〇クン、冨〇クン、後ろにマスクは幡〇クンに漫画の本〇くん。一人になったらナビナシでは帰れない迷子だな。
かれこれ50年近くもむかし、JR芝三田駅→新宿→京王線明大前に通って、帰りにはつるんで歌舞伎町で遊んだ時期。新宿伊勢丹はオシャレで気高い建物だった。あれからもう50年も人生歩んできたんだなぁ・・・の感慨をしみじみと東京駅8:08pm発MAXときに急がないと燕三条から弥彦線に乗れないぞ・・・。
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