鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

自治体は競争から共生へ③

2022年10月25日 13時26分40秒 | Weblog

自治体は「競争」から離れること、「競争」では共倒れになるんじゃないかと、ここまで書いてきました。

そこで、フェイスブックに「自治体間競争から自治体共生へフェイズが移ったのでは」と書いたことに立ち戻ります。いま一度、“ 共生 ”についてweblio辞書を参照します。

「共生」******

1 共に同じ所で生活すること。

2 異種の生物が、相互に作用し合う状態で生活すること。相利共生と片利共生があり、寄生も含めることがある。

**********

自治体は、多少離れていても「1」の状況のはずです。市で考えると次に制度的な枠組みとしての「都道府県」の中で、ともに同じ所で生活しているともいえるでしょう。まして隣接しているのであれば、なおさら「共生」の意識が必要なはずです。

「2」については、住民・市民の方々は、通勤や通学といった形や買い物、そのほかの多くの活動を通じて、自治体の線引きにとらわれずに移動していることで、相互に作用しあう状況があると考えるのが自然ではないでしょうか。

これらのことからだけでも、「競争」から「共生」に移行していくことが自然な流れと考えられます。この中で「片利共生」と「寄生」については、自分のイメージの中に入っていません。

人口について考えることも重要です。人口減少は日本全体で起こっている動きで、その大きな流れを止めきることは難しいでしょうし、むしろ、人が担っていた仕事が機械に置き換わったりすることで、消費者としての存在以上に、どれだけ存在できるのかを考えることも必要かもしれません。また、多様な生き方を許容する社会であるということは、一定割合で結婚することや子どもを持つことに積極的判断を行わない人がいる可能性も考慮に入れる必要があると思います。

それに自然増として出生数が増えても、その子たちが働いたりできる15歳を過ぎるまでは、増えることによる影響は見込めないはずです。つまり劇的に出生数が増加するとしても、20年近くは今のような状況が続くと考えられると思います。また並行して、自然減少で大きな割合を占めることになる死亡者における高齢者の考え方も整理する必要が出てくると思います。

出生数の減少による少子化は、日本の多くの地域で同時進行で起こっている変化と考えれば、支援策の提示など表面的な取り組みで競争するのではなく、根本的な要因の部分を考え、全体として柔軟に社会を変化するようにしていくべきなのだと思います。

社会増減について、国内の他地域から自分のまちへの移住を誘導するということは、その先の地域での人口減少になり、マイナスの影響とセットである可能性が高いということを忘れるべきではないでしょう。そして各種優遇策を講じることは、同様のサービス実施競争につながり、ゼロサムゲームの中でお互いに住民を取り合うことになり、結果として政策の選択肢をどんどん減らしながら、均質化していくことになるのではと危惧します。そして体力が落ちた自治体から疲弊が加速していき、格差が拡大していくことになる可能性が大きいでしょう。

同じく社会増減について、国外との間での人の移動を考えると、多文化共生という言葉や取り組みもありますが、国外からの人の流入が多くなることは、人手不足の解消という側面からはプラスが見えるかもしれませんが、多様な文化や考え方を持つ人たちとの共存・共生は容易ではなく、そのための政策負担は自治体が負うことがほとんどになる可能性が考えられます。また「同一労働、同一賃金」ということがありますが、同じ仕事をしているのに日本人より賃金や待遇が低い状況であったり、逆に、賃金や待遇を低く抑えることが根拠の一部になって日本人の賃金や待遇も抑えられる状況があるとすれば、誰にとっても幸せな状況にはならないでしょうし、そのような社会状況の中では不安定要素が多くなり、社会が鬱屈とした空気に包まれるでしょう。

経済の恩恵を受ける人たちは地域社会などから遠いところで生活を行っていて、不利益になる部分を受けることは小さいことが考えられます。その一方で、地域社会に根付いて暮らすことになる人たちは、日本人だけでなく海外から来る人達も、生活の困難をそれぞれにうけ、地域で解決に取り組まざるを得なくなるということではないでしょうか。それは一地域の課題ではなく全体の課題だと考えます。

人口について考えていることをいろいろと書きましたが、人口問題について自治体で検討に政策を考えていく際には、やはり「競争」ではなく「共生」で考えていく局面であると考えます。そこでのキーワードが「関係人口」なのだと考えます。

■総務省:関係人口ポータルサイト(図は引用)

この「関係人口」となる方々への取り組みを考えるにあたっても、「競争」という考え方では囲い込む方向性になりがちと考えます。いまの「移住」政策は、そのような傾向が強いものが多いように思います。逆に、囲い込むのではなく、ゆるやかに居心地の良い状況、活動のしやすい状況を考えなければ、このような方々は選択肢からその自治体は外すかもしれないでしょう。

自治体を線引きで考えて「競争」するのではなく、多様な自治体間で緩やかに“ 場 ”を意識すること、別の細胞ではなく一つの個体を形成する多様な細胞として連携するように「共生」を考えれば、細胞間を行き来したりしてそれぞれをつなぎ合わせる存在としての「関係人口」となる方々をどう考えるかもわかりやすくなるように思います。

 

人口という視点から考えて、「自治体共生」という考えで政策を考え整理、そして展開していくことが必要と考えます。

 

⇒ 「自治体は競争から共生へ④」につづく

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自治体は競争から共生へ②

2022年10月22日 13時01分10秒 | Weblog

「競争」という考えから離れる必要があるというところで、前回のブログは終わりました。ですが、私自身も「競争」そのもの、全ての競争意識を否定して考えているわけではありません。「競争」を精査して分類、重要なところは切磋琢磨ということは必要だと考えています。

そのまちの住民の方はもちろん、そのまちを訪れる人たちにも、すごしやすく魅力的なまちであるための「善政」を行うために、他の取り組みを参考にして真似をしたり、自分たちのまち独自の政策を立案することは大切なことです。

しかし「自治体間競争」だからと、自分たちのまちが良ければいいだけになってしまうとすれば、お互いの体力(財源)を削り合うことにつながってしまうのではないかと懸念します。

例えば、政策実現のお金(財源)をどのようにしてねん出しているのかを考えずに、「とにかく、ある自治体ではこのような政策に力を入れて人口増につながっているから、わが自治体でも真似をするべきだ。」ということばかりを表に出しても、実現するための財源ねん出を合理的にできなければ、もしかすると、次の世代への負担が前提になってしまう場合もありえます。

対象となる子どもさんにかかった医療費を公費(税金)で助成する「子ども医療費」がありますが、この政策を実施するために鈴鹿市では、独自で使い道が考えられる一般財源から4億2192万9千円を財源に充てています。

子どもが適切に医療を受けられることは本来は国がするべき政策、「子どもの権利」として国が保障するものだと、自分は考えます。しかし現在は、自治体間競争の政策になっていることに疑問はわかないでしょうか。またそれは、国がしてくれるものではなく、私たち自身がそれを選択して、国に求め実現するものだとも思います。

このような政策は、自治体間で競争するものではないはずです。

そして「競争」という言葉に縛られると、有権者受けの良い政策が優先的に選択されがちになるでしょうから、行き着く先はどこも同じようになってしまうのではないでしょうか。

また別の観点では「競争」という意識が、支えあうべきところに対する意識を低め、自分の自治体に都合のよい行動選択をしがちになることにつながる懸念があります。

市民は自治体の線引きを超えて施設やサービスを利用しているので、ある意味でお互い様の部分があるのですが、その中で考えたいことは、医療のような命や健康に関わる部分についてです。

公立病院を持っていない代わりに、地域内にある民間の病院に対して、一次救急と二次救急を支えるための補助金として毎年数千万円を支出し、二次救急を担う病院がMRIなどの機器を導入する際も数千万円の補助を行ったり、あわせて地域内に応急診療を行う施設を設置して運営している自治体があるとします。

ところが、二次救急を行っている病院の救急受け入れの状況や通院患者数を見ると、隣接している自治体からの割合がそこそこ高いことが見られていて、両自治体で形成される医療圏の中で、医療資源としても重要なことが見られるものの、隣接している自治体からは、地域内の病院に対する補助などはないとき、みなさんはどうお考えになるでしょうか。

私は、そのような場合は同じ地域の中にある医療資源として、両市で応分の補助などの支援を行い、地域医療を守るべきだと考えます。

ですが、このような場面でも「競争」的な意識や考えがどこかに潜んでいると、応分に負担することを検討するよりも、そのような支出を抑える方向に考えが向き、それに合わせた説明の論理が組み立てられてしまうのではないでしょうか。よほど、主となる自治体が隣接自治体に申し入れなどを行わなければ余計に。

そのようなことを考えると、人口が全体で減少している中で、いつまでも「競争」という意識でいては、自治体は共倒れになると考えます。

⇒ 「自治体は競争から共生へ③」につづく

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自治体は競争から共生へ①

2022年10月21日 13時01分55秒 | Weblog

フェイスブックに「自治体間競争から自治体共生へフェイズが移ったのでは」と書いたことについて、今回は書いていきたいと思います。まず、“ 共生 ”という言葉について、weblio辞書を参照したところ、生物学での意味として以下のようになっているのですが、この中で「片利共生」と「寄生」については、自分のイメージの中に入っていません。

「共生」******

1 共に同じ所で生活すること。

2 異種の生物が、相互に作用し合う状態で生活すること。相利共生と片利共生があり、寄生も含めることがある。

**********

では1の“共に同じ所で生活すること”を、鈴鹿市で考えてみます。

まず市町とのつながりから、鈴鹿市は亀山市と鈴鹿亀山地区広域連合を形成して介護保険事業に取り組んでいますし、三重県の医療圏構想の中で北勢医療圏の中の鈴鹿亀山医療圏となっていたり、はしご車の共有、中学校の大会でも鈴亀地区などなど、いろいろなつながりを持っています。次の括りは北勢地域として、いなべ市、桑名市、四日市市、亀山市、東員町、菰野町、木曽岬町、朝日町、川越町の中に入ります。最近では消防の通信業務について、津市と亀山市とで指令業務の一本化に取り組まれています。そして、三重県、東海三県、中京圏、中部地方、日本国といった流れで、“共に同じ所で生活すること”のつながりがあるのではないでしょうか。

そのような中で私たちは、地理的にはもちろん様々な移動手段で物理的なつながりを持っていることはもちろんのこと、移動することを通して、心理的な面でもつながりを持つことになっているのではないでしょうか。それぞれのつながりの太さに違いはあっても、まったく切り離されるようにして存在する地域はないように思います。

自分も「自治体間競争」という言葉を使ったりもしていたのですが、違和感を感じるようになりました。それは自分の中にもともとあったものが、いろいろと知るものが増える中で、雪玉が転がるうちに大きくなるように、自分の考えの中で大きくなったのだと思います。

 

自分は尾鷲出身で、学生の時に関大前に住んでいた時期を除いて、幼稚園くらいの時から鈴鹿に住んでいますが、冬休みや夏休みに尾鷲に帰省したこともあって、自分にとって尾鷲は愛着を感じるまちです。子どもの頃に見た海山からトンネルを抜けて見える尾鷲の夜景や、商店街の風景、港でカツオ漁師の方からカツオを一本「やろか」と言われたことなど、自分の記憶に残っているものがたくさんあります。

ですが、その尾鷲は年を重ねるにつれて活気を失い、最近では残っていた火力発電の煙突もなくなり、景色が大きく変わりました。商店街はそのずっと前からさびれてしまっていて、往時の面影を感じることはできません。とはいえ、そのようになっている地域でも頑張られている方や、若い世代がきてがんばっていることも、いろいろな情報で目にします。

日本のいろいろな地域、地方で見られていることだと言われればそれまでなのですが、自分の中にある「自治体間競争」に対する「違和感」の根源は、このようなところにあるのだと思います。

このグラフは厚生労働省の資料からの引用ですが、1990年代半ばにはじまる生産年齢人口(15~64歳)の減少が要因の一つであるだろうとは思いますが、それだけでは地方の衰退の説明はつかないでしょう。産業構造の変化で就労も変化し居住地の移動があったことや、就労場所となる企業も外部に出ていったことがあるかもしれません。

・・・これまで自治体間で競争を行った結果がどうなのか、図らずとも競争となった結果どうなったのか。それが現在の状況ではないでしょうか。であるとするなら、「競争」という考えから離れる必要があると思います。

そして人口減少についても、冷静に考えるべきではないでしょうか。リンク先は総務省統計局が公開している人口推計ですが、2022年9月20日公表の速報では前年の同月と比較して、日本の総人口は1億2475万人で、前年同月に比べ“ 81万人 ”減少しているとあります。

■総務省:人口推計(令和4年(2022年)4月確定値、令和4年(2022年)9月概算値) (2022年9月20日公表)

9月30日現在の鈴鹿市の人口は19万6693人ですから、極論ですが1年で日本から鈴鹿市が約4つ無くなっていると考えられます。1年で数十万人単位で減っていっている事実実から目をそらして、自治体運営を夢物語で考えるわけにはいかない、と私は考えます。

話は少しずれますが、尾鷲出身の方はけっこう鈴鹿市などにお住まいです。小さなまちですから、話をしていると身内と知りあいだったりすることも多く、ずいぶん前、ローカル三重で設計士の方が建てた住宅を取材していた時に、話をしているとそのお宅の方は尾鷲出身で、祖父母が営んでいたお店のことを良く知っているということがありました。就労場所の関係などで尾鷲から出て移住された方が多いことが、今の状況につながっていることを感じさせられます。。。

ということは、“移住”を前提において人口増加を考えることは、他の地域からの移住を増やすということであり、その地域の人口流出とセットになった動きだと考えるべきです。そのことに考えを巡らせずに、「競争」という考えや意識で政策に取り組んでいるとしたら、いつか競争に疲弊するときが来るでしょうし、そうなったときのダメージはより大きくなるのではないでしょうか。

やはり「競争」という考えから離れる必要があると思います。

⇒ 「自治体は競争から共生へ②」へつづく

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部活動の地域移行に考えること

2022年10月12日 13時48分00秒 | Weblog

ここのところ、部活動の地域移行について質問されることがよくあるので、現時点の考えを書きます。

2013年の一般質問以降、たびたび一般質問で取り上げていますが、現時点で私は中学校部活動について「土曜、日曜、祝日は休みでよい」と考えています。そしてそれらの日で技術を高めたい生徒は、「クラブチームや学校外での大人の文化活動に参加できる」ようにしていくほうが良いと考えています。イメージにしている考え方は、2013年に提案した次の図の形です。

一般質問では他に、AGF鈴鹿体育館の大規模改修と合わせる形で、部活動の見直しを市に問いました。2015年6月は「②市立体育館休館時の対応について  (1) スケジュールについて (2) 中学校体育館の活用」の内容で、まず日曜日の中学校部活動を原則休みとすることを取り上げ、2017年6月質問では「②休館対応と中学部活の改善について  (1)AGF鈴鹿体育館休館中の対応は(2)中学校体育館の利用 ①日曜、祝日の部活動を休みに ②持続的に運用を」という形で、より明確に日祝日の部活動を休みにすることと、学校施設の開放を市に投げかけています。

今も日曜などについて、生徒の活動を単一の“ 部活 ”に縛る必要性はないと考えていますし、探求学習などの広がりや、地域活動への参加などを考えると、そのような余地をつくることのほうが大切で、なにより大切なことは「生徒の成長」という一言に集約されると考えています。

年齢を重ねることで、生徒・子どもは“ 心 ”も“ 身体 ”も成長し変化します。そのことも織り込みながら、部活を考えたほうがよいでしょう。

心について、学校での学びだけでなく、いろいろな手法で情報を得ることができることで知識も増え、考えることや考え方も変化するでしょうから、興味がいろいろな方向を向くことは自然なことだと思います。その興味を受け止める仕組みが地域社会にあるほうが、豊かな学び、成長につながるのではないでしょうか。つまり地域社会が豊かかどうかが問われるのですが、豊かであることはすべての人に意義があることにもなるはずで、政策として力を入れることに問題はないと思います。

身体について、骨格や筋力の成長は平等にあるものではないでしょう。その限界を自分で感じた時、他の可能性を選択できることは、逃げということではなく、自分の新しい可能性を探索できるという観点から、多様な活動に参加できることがあって良いと思います。例えば、好きなスポーツだけれども、身体的な理由で後ろ向きなってしまうというのであれば、戦術的な学びを深められるようにすることも考えられるのではないでしょうか。

そして顧問になったりする教員の方々ですが、“ 日曜と祝日の部活動は行わない ”と市が方針を明確にすれば、休みを取ることが容易になるはずです。ここで重要なことは、私たちも教員の方々の生活を尊重するという意識や考えを持つことで、それは相手のことを自分ごととして考えることです。

私は、顧問となる教員の方々も自分の時間や生活を大切にしてもらい、家族や大切な人との時間を過ごしてもらうほうが良いし、趣味があるのであれば趣味に充ててもらったり、地域活動やいろいろな学びへの参加など、心を休めることや自分の見聞を広げてもらえるようにすべきだと考えています。教員の人間的な充実や成長も、大切なことではないでしょうか。

また「部活動の地域移行」という表現ですが、鈴鹿市では教育委員会の教育指導課や、文化スポーツ部のスポーツ課が関係してくるところになります。ここでも個人的な考えですが、いったん「土曜、日曜、祝日を休みにする」と明確にした上で、市スポーツ協会や各種競技団体、文化活動を行っている方々などと意見交換を行い、さらに深めたい子のための場所づくりを考えるほうが合理的ではないかと思います。そうすれば、経済的に厳しい環境の子どもや生徒への支援も、多様な視点から考えられると思います。

そして「生徒が、やってみたいこと」や「生徒に、やってみてほしいこと」を下地にした、土・日・祝の活動メニューを揃えてはどうかと思います。例えば自分が考えることですが、本格的な職人の手前まで認めてもらえるようになる伊勢型紙の彫刻や、いろいろなお菓子をつくることや調理についても学べたり、普段は吹奏楽をしているけれども映画“スウィングガールズ”のようにジャズ演奏に取り組めたり、大人の楽団と一緒に練習機会が持ててそこに入ることが考えられたり、スポーツもデータ分析などが学べる機会があったり等々と想像すると、ワクワクするような気持ちを感じたりしないでしょうか。そのようなことも大切と思います。

最後に施設面ですが、学校の屋内運動場について「土曜、日曜、祝日」は、テスト期間中を除き基本的に部活で使用することが前提になっているのではないでしょうか。それを、それらの日を「休み」と明確にすることで、市民、地域内の住民が利用しやすくできると思います。あわせて、利用にあたって施設の維持管理のために使用料を頂くことにすれば、フロア床面のメンテナンスのための油性ワックス購入などのための予算を捻出しやすくなるはずです。

また、バリアフリー法施行後に建設された屋内運動場は、施設全体の仕様がバリアフリーが前提になっていることを考えると、広がっている障害者スポーツの鈴鹿市における活動拠点的な運用も考えられます。新たに建設は難しくても、既存の施設を活用してそのように利用できれば、市の価値も上がると思います。

文章で伝えきれていない部分も多くありますが、既存の価値の組み替えをしながら、新しい形にできる時期に入っていると考えています。片方で、伝えきれていなかった自分に歯痒さと力不足を感じていますし、国が動くまで動きがほとんどなかった市政に苛立ちも感じています。

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全国旅行支援に見える疑問

2022年10月12日 00時10分36秒 | Weblog

全国旅行支援が始まり、ニュースではそのことが盛んに取り上げられています。海外からの観光客の受け入れも進み、円安効果での増加を見込んでいるなどというニュースも流れたりしています。三重県では「おいでよ!みえ旅キャンペーン」と銘打って、事業に取り組まれています。

■観光三重:「おいでよ!みえ旅キャンペーン

事業そのものは、財源について考えるところはありますが、否定するものではありません。ただ、利用方法に書かれている条件にある「また、旅行当日に、本人確認書類及びワクチン3回接種または(陰性の)検査結果通知書の提示が必要となります。」という部分にひっかかりを感じています。

で、利用方法の部分の末尾には「※ワクチン接種証明または検査結果通知書についての詳細はこちら」と書かれていて、リンク先を見ると『 ★ワクチンの効果は完全ではなく、接種しても感染し、他の人に感染させる可能性があります。また、 検査結果が陰性であったとしても、検査後に感染する可能性があり、また、偽陰性である可能性もあります。「手洗い」、「適切なマスクの着用」、「換気」、「マスク会食」、「黙食」など、基本的な感染防止対策を徹底してください。 』と明確に記述されています。

■「おいでよ!みえ旅キャンペーンの利用にあたって」

ということは、「ワクチン3回接種」を条件に入れる妥当性に疑問がわきます。

そこで、9月15日に開かれた鈴鹿市議会地域福祉委員会で、市ワクチン接種推進課と健康づくり課から提供された資料を参考に見ると、実際にワクチンを3回接種していても、陽性反応者が相当数出ていることがわかります。

・・・このグラフを見る限り、科学的な数字から見て「ワクチン3回接種」を条件にする根拠は何かと疑問がわきます。これは三重県に限った話ではありませんが、国で政策決定する際、どこまで詰められていたのかと考えてしまいます。ワクチンを否定しているわけではありません。ただ、条件に入れるのであれば、その根拠の説明を政治は求められると思います。

この状況であれば、ワクチンの接種歴の有無を条件に入れずに、「陰性の検査結果通知書の提示」に一本化するほうが、すべての国民に公平な政策になるはずではないでしょうか。「接種していないほうが悪い」というような言葉が出ないことを祈るばかりです。

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気候変動の影響を考える

2022年10月03日 14時04分26秒 | Weblog

週末、録画してあった世界のドキュメンタリー「氷の世界に見る地球温暖化」とブラタモリ「東京湾~海の玄関口・東京湾原点は川にあり?~」を視聴したのですが、幕末以降、特に戦後の日本の状況から現在までにとらわれず、科学的な視点から今後を考えた取り組みの必要があると、ひしひしと感じていました。

 

ブラタモリでは、現在の東京湾が形成される中で、縄文海進の影響と利根川の東遷が取り上げられていました。縄文海進については、自分の過去の一般質問でも取り上げているのですが、縄文時代には“ 現在よりも気温が2℃高く、現在の標高4.4メートルのところが海岸線 ”だったといわれています。利根川上流河川事務所が公開している「利根川の東遷」に、そのことがわかりやすく書かれています。

■ブラタモリ「東京湾~海の玄関口・東京湾原点は川にあり?~」

■利根川上流河川事務所「利根川の東遷」

これを見ると海進の影響だけでなく、利根川による「浸食、運搬、堆積」の力で、今の地形ができていることがよくわかります。

ということは、私たちはこれからの土地利用を考えるときに、“ 地形は自然の力で変わるものだ ”ということを前提にして、私たちの生活してきた時間や状況で考えるだけではなく、過去の状況について学び、それを踏まえながら可能性の未来をいくつも想定して、柔軟に適応していくようにするべきと思います。

 

世界のドキュメンタリー「氷の世界に見る地球温暖化」は、グリーンランドの氷河で夏季に氷河が融けることによってできる「甌穴」が取り上げられ、現地で調査をしている研究者を通して、それがどのような意味を持っているのかという内容でした。

内容の中で耳に残ったことは、言葉そのままではなく自分でまとめたもので、ニュアンスの違いがあるかもしれませんが、“ 現在の二酸化炭素排出抑制の動きは時間を稼ぐという程度 ”、“ 予測の幅が0~120センチあり正確に伝えるのは難しい ”、“ 甌穴を通じて氷河内部に流れている水は、夏季に融けた時のエネルギーを蓄えたままで、冬季も氷河を溶かし続けている ”、“ 融けた水がまた氷るには、再度氷期になる必要がある ”、ということでした。

■世界のドキュメンタリー「氷の世界に見る地球温暖化」

今すぐ起こるとは言えないまでも、いずれ、どこかの時点で氷河が大きく動き、それによる影響が起こることは避けられないと、科学者は懸念しているというところで、番組は終わりました。

 

鈴鹿市はここ数年、大きな台風や豪雨などの気象災害に見舞われることが、日本のほかの地域と比べほとんどない状況です。ですが、全国では毎年どこかで大きな気象災害が起こってはいないでしょうか。

「特別警報」が発令されると、ニュースなどで“ 数十年に一度の ”という表現が流れます。それは異常災害ではなく、気候変動の影響が避けられず起こっていること、気候変動の影響から逃れられない時代に入っているからで、聞いていると自分は違和感を感じますし、具体的に災害状況がイメージできる表現が良いように思います。

■気象庁「特別警報」

気候変動の影響は、すでに短期的にもに出ていますし、長期的なものも視野に入っているでしょう。長期的な影響の海水面上昇は、もしかするとないかもしれないし、数百年で起こるかもしれないし、もしかすると、気温上昇が続くことで数十年で起こるかもしれません。

ですが、過去に気候変動の影響があったことは事実であることを考えると、想定できるリスクを未来の計画に織り込まないことは、リスクマネジメントの観点から課題があるはずです。

個人的な考えですが、いずれ大きく考え方や価値観を転換する必要が出る可能性が高い、数年単位ではなく数十年のうちにそれがもっとはっきりしてくるでしょう。次の画像は、資料「日本の気候変動2020」から引用したものです。

■出典:文部科学省及び気象庁「日本の気候変動2020」概要版より引用

ここでは気温上昇に伴い、海水面は39センチから71センチの幅で上昇が予想されています。それに加えて、近年の台風などの状況を日本近海の海水面温度との関係から考えると、海水温の上昇があれば日本の近くで台風が発生し、衰えることなく、場合によっては成長して日本に来ることも考えられます。そうなると、高潮のリスクだけでなく、極端な豪雨による河川の氾濫や洪水のリスクも跳ね上がると考えます。

つまり、立ち止まっているのではなく真剣に考える必要がありますし、そのとき、次の世代の参画が重要な要素だと考えます。20年後、30年後を考えるとき、社会を担う中心がどの世代かを考えればはっきりしています。

政治に大切なのは、目の前の状況だけでなく、先を想像したり想定して、今の取り組みを考えて、実践していくことだと思います。

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