鈴鹿市議会議員 中西だいすけの活動日誌

鈴鹿市議会議員として年齢も含め5期目のベテランになりました。日々の活動や感じたこと、議会での動きなどをつづります。

「ただほど高いものはない」はどこに?

2015年12月10日 09時37分27秒 | Weblog

「~の無料化」という言葉が政治の場で語られることが多い。

たしかに、自分の負担をだれかが肩代わりしてくれること、

自治体や国がいろいろな支援を行うことは、

厳しい状況に置かれている人たちにとって、

生活の自立につなげる意味でも重要だと思います。

 

しかし、「タダ(無料)ほど高いものはない」という言葉が

これまでの私たちの生活で語られていなかったでしょうか。

その言葉はどこに行ってしまったのでしょう・・・。

意味を調べると、

「ただで何かをもらうと、

 代わりに物事を頼まれたりお礼に費用がかかったりして、

                           かえって高くつく」

と出てきます。。。

 

言うまでもなく、自治体などが行う支援について、

その財源は払える人みんなから集めている税金のはず。

ということは、それにより提供される社会サービスは、

そのサービスのメリットを受けることのできる人だけでなく、

それ以外の人の税金からも支出されることになるわけで、

それは本質的にタダ(無料)ではなく、

社会としてみんなが出していいと判断するもので、

公費助成、税金負担、公費負担というべきでしょう。

 

それを無料(タダ)化と表現することは、

その社会に対する責任意識が希薄な人を、

サービスを利用する人たちの中に生まれさせてしまうリスクをはらんでいるでしょう。

もしそのような人たちが増え、サービスを濫用することが増えれば、

税金や人の厚意で作られている社会サービスのシステムは、

容易に崩壊してしまうことにならないでしょうか。

 

そして、「タダ(無料)」とされる政策を実現するには、

当然のことながら財源が必要になります。

その財源はどう捻出されるのか・・・

いろいろと人を減らしても限界はあります。

ということは、なにか別の行政サービスをスリムにするか、

もしくはやめるという選択をするしかなくなるのではないでしょうか。

それは結局のところ「タダ(無料)」を求める人にも返ってくる。

それを意識することが大切だと思います。

 

そのことを考えたとき、

「タダ(無料)ほど高いものはない」という言葉の重さを、

政治に携わる者は意識しなければいけないのではないかと思います。

「タダ(無料)」は聞こえのいい言葉だけれども、

それを安易に政治の場で濫用することで、

結果として社会が混乱することにつながるのであれば、

安易に使う人たちが糾弾されても仕方がないのではないかと思います。

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相殺されては意味がないでしょう

2015年12月08日 08時00分00秒 | Weblog

地方創生ということで、いろいろな取り組みを地方で進めようとする動きがあることはみなさん御存じだと思います。

なんとなく“地方”という言葉が使われながらそのようなことが語られると、いろいろな支援が各地域に充実されていくという感じがするのですが、、、

その背景となっている、少子化・高齢化の進行と人口減少を考えると、研修などからの受け売りですが、東京問題を隠しながら夢を見させようとしているようにしか思えません。

少子化でいえば東京は日本で最低の出生率1.15程度しかなく、いま目標とされている1.8の達成には非常に大きな課題がありますし、そのような低出生の首都圏や大都市などで待機児童などの問題が起こっていることは、そもそもそのような体制を整えず都市を形成してきた責任があるでしょう。

高齢化の問題については、高度成長期から現在を通じ、地方から人を吸い込んで都市を拡大させてきたことで起こっていることでしょう。団地の高齢化の課題はそれを象徴していることのはずです。それに加え、どんどん地域コミュニティを意識することなく暮らせる状況で拡大してきたこともあるのではないでしょうか。

 

それなのに、

そのような仕組みの改善が地方創生の中で語られているかというと、ほとんど語られていないのではないでしょうか。

地方の魅力創出の面ばかりが強調されているだけではないでしょうか。

 

地方が独自の努力をし魅力を創出することや、子どもを育てたい環境を整えることは、人口が減少しないとしても当然のことですし、人口減少下では急務であることは至極当然のことです。それは地方の各自治体に向けて人を引き寄せる力の方向と考えられます。

一方、東京圏に向けて人を引き寄せる力は、高度成長期から現在まで途切れることなく、非常に強い力で存在しています。

がんばる力が引き寄せる力で相殺されないようにすることが大切だと思います。

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気候変動への備え

2015年12月08日 00時57分42秒 | Weblog

12月7日は一般質問登壇の日でした。今回のテーマは「気候変動への備えについて」として、鈴鹿市の考えを問いました。気候変動については、都市マスタープランの改定時や、いろいろな機会で気になっていたことでした。もちろん、豪雨災害は念頭に入ったうえです。そこに、農業などの影響を考えながら話を構成しようとして、“気候変動”で検索をかけたところ、国の「気候変動の影響への適応計画」にいきあたり、それを軸に質問を構成することとしました。今回の質問にあたっては、IPCCの5次報告書も関係してきますので、それもリンク付けしておきます。

■気候変動の影響への適応計画(報道発表)

■IPCC 5次報告書

 

地球温暖化の4つのシナリオを重ねると、今世紀末にむけて0.26m~0.82mの海面上昇が予測されています。海面0.3m上昇で約5割、0.6mで約8割の砂浜が消失と予測されています。このことだけをとっても、とても大きな影響があることが容易に予測されます。そこに、極端な気象現象が発生することが重なることを考えれば、私たちは応分の覚悟を持って考えなければいけないことに直面していると考えるべきです。

個人的にも、気候変動に備えることは非常に重要だと考えています。私たちは、今の気候がそのまま続くという前提で政策を考えることが多いのですが、いろいろな自然状況を勘案して、動き出した温暖化と過去の気候変動などを考えると、私たちは次の気候局面に向けて動く中にいると考えるべきだと思っています。だからこそ、国の動きは非常に納得できるものでした。それをいろいろな資料などを用い、鈴鹿市行政と聞き取りなどを通じて意見交換を行いながら、本会議場での質問を構成していきました。

それに対する市長をはじめとした行政側の答弁については、質問をした私としても納得のできるものになりました。今回の質問は気候変動への取組について入口に立っただけで、これから、各方面で検討していくことが求められます。今後は、鈴鹿市の適応計画の策定にしっかり取り組むよう、行政だけでなく議会活動の中でも意識していきたいと考えています。

 

質問には取り上げていませんが、気候変動を考えるとき、現在COP21が開かれていますが、先進国と途上国の関係以上に、これまでの社会システム、経済システムがはたして本当に持続可能かどうかを、私たちは考えるべきだと思います。これまでと同じ“成長”を求めることは、もしかすると不可能ではないかと考えることも求められるかもしれません。

世界人口も現在まで右肩上がりで増加してきていますが、それは、世界的にまだ安定した気候条件の中で農業がおこなわれ、食糧生産も行われてきたからこそ実現できたことではないでしょうか。もし、気候変動の影響が大きくなって、世界での農業生産がこれまでより大幅に減少することになるとしたら、はたして食糧の分配はどうなるでしょう、食料による紛争が絶えなくなる可能性があるのではないでしょうか。そのような世界に、次の世代を送ることになるかもしれないと予測されるのに、それを見ないふりをすることは、現在の世代が行うことではないでしょう。

 

またIPCCの5次報告書で、気候変動によるリスクは「気候によるハザード(災害での危険な事象)」と、気候変動の影響に対する社会経済の「ぜい弱性(対応力の欠如)」、「曝露(影響箇所に住民や財産等が存在)」の相互作用で生じ、適応のためにはぜい弱性や曝露を低減することが示されています。このことは自然災害全般に当てはまることだと思います。私たちは極端化する気象現象や、人間の力では対応しきれない自然現象などから受ける災害に対して、「曝露(影響箇所に住民や財産等が存在)」の低減に真剣に取り組まなければいけないと思います。そのためにはこれまで常識と考えてきたこと、既得権益・・・などについて、考え方の大きな転換を求められる時期を避けることはできないと思います。

40代以下の世代は、危機意識を共有しながら社会のデザインに関わることと、社会に対する責任を意識せずにいられなくなる時期がすぐそこに来ていると、私自身は感じています。

 

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小さいバイクから?

2015年12月07日 20時18分33秒 | Weblog

リターンライダーの方や長期にわたるペーパーライダーの方などが、バイクにまた触れあうことを考えたとき、エイプやKSR,グロムくらいのサイズと、100cc程度の排気量の車両から振興していくと良いように思います。
力の弱い人でも扱いやすいサイズ、中古車を含めた車両価格や、そこそこいじることができるところとか、大きなバイクから考えるより、底辺から広がるように思います。税金等の維持費も低いので、それを持ちながら車両を増やす選択もあり得ますし。
移動する楽しさ(ツーリング)、扱う楽しさ(モータースポーツ)、いじる楽しさ(カスタム)、どれが自分の嗜好にあっているのかもわかりやすくなるかと。

こういうバイクが国内で生産されるようになることが、産業振興にも大切かと考えたりします。。。


http://www.bikeloveforum.jp/

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足元を見直すこと

2015年12月07日 20時11分12秒 | Weblog

まず、フランスでおこったテロは許せないものです。同時に、被害にあわれた方々には心の立ち直りを、残念ながらお亡くなりになられた方にはご冥福をお祈りしたいと思います。

 

そのフランスでのテロから考えることは、そのまちで暮らせば自然に愛着を持つわけではなく、そのまちに育てられたと感じ、そのまちで心が育たないと、愛着を感じることはないのだろうということ。

つまり、愛着を生むことのできる環境をどう創るのかが、将来にわたるそのまちの大きな課題だろうと思います。それは、単に教育や福祉支援の制度があればいいということではなく、“わたし”をまなざす目、共感してくれる存在が必要なのだろうということと同時に、“わたし”自身もそのまちのコミュニティに参加して、自分の位置をつくっていく努力をすることが大切なのだと思います。

 

振り返って、そのようなことをふだん意識することがあるでしょうか。

“わたし”は誰かからサービスを提供されることを期待し要求することが多くなってはいないでしょうか、“わたし”は自分たちでコミュニティを支える意識が薄くなってはいないでしょうか。

“わたし”がたくさんいる状況でも社会は成立することが可能に今はなっていると思います。しかしその分、“わたしたち”という意識が希薄になった状態に、身近な社会はなってしまっていないでしょうか。

 

その希薄な状況の中に、いろいろな闇は生まれるのではないでしょうか。

その闇を減らしていくには、“わたし”が少し変わり、身近な“わたしたち”を意識し、ほんの少しのことからでも参加して変えていくことではないかと思います。

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観光政策の指数について

2015年12月01日 15時56分35秒 | Weblog

 

12月定例会では、「鈴鹿市総合計画2023」が議案として上がっています。

構成の中で特徴なのは、基本構想だけでなく「めざすべき都市の状態に対する成果指標(個別指標)」が、議案の中に入っていることです。成果指標が議決案件に入っていることも含め、総合計画が議決案件になっていることは鈴鹿市議会にとっても、鈴鹿市にとっても非常に大きな意味を持ってきます。というのは、この成果指標が妥当がどうかをしっかりチェックしなければ、鈴鹿市は今後8年間、この総合計画に基づいて市政運営を行っていくことになるからです。

今回はその中で、観光に関する指標を考えたいと思います。

 

この写真の左側の数字が“22”のところに、めざすべき都市の状態が「地元のモノ・コトが情報発信され、人が訪れ、交流が進んでいること」とあり、その成果指標として「観光レクリエーション入込客数 現状値464万人(2014) 目標値550万人」が設定されています。

この「入込客数」という指標についてですが、実は、第5次総合計画の行政経営計画見直しが行われる際にも、観光関連産業従事者数としてはどうかということを、当時のすずか倶楽部で執行部との意見交換で伝えたことがあります。そして今回、全国都市問題会議でも講師の話において、観光政策においては入込客数ではなく宿泊客数で考えるべきだという話がありました。パブコメや議会においても全員協議会などでその点を指摘する声が上がっています。

 

“入込客数”について、何万人も集まる大きなイベントが開催されれば、その数字は達成することはできるでしょう。しかし、まちにとって重要なのは、そのようなことを通じて、どれだけまちにプラスがでるかという観点のはずです。

F1を例にして考えると、前年に対して1万人観客が増えたとして、その人たちが鈴鹿に宿泊するのではなく、三重県内で宿泊するのでもなく、名古屋などに宿泊するとすれば、宿泊料だけでなく食事なども含めた関係の経済効果が鈴鹿に落ちるのではなく、他のまちの経済効果となるということでしょう。また、F1の開催日数などを考えれば、いくらその日程に観光客が訪れてくれるとしても、その日がすぎれば鈴鹿に訪れてくれる人が少なくなるのであれば、名目上の観光客入込数がいくら増えても、通年で営業されている観光関連産業での雇用は増えないでしょう。

やはり、宿泊者数であったり、観光関連産業(事業者)数であったり、観光関連産業従事者数という形の指標にすべきだと、私は考えます。

 

指標の表現による物事の見え方の違いを考えます。

“観光レクリエーション入込客数”の増加でイメージされる政策を考えると、「大規模イベントの開催」、「市民主催のイベント推進」、「F1などへの観光客の誘致」・・・といった政策になりがちではないでしょうか。しかし、このままでは単発イベントの開催ということでも良いことになり、また点から点に移動する形の観光客でも達成されることになり、そのような人たちによる経済効果が見えにくくなるでしょう。それは鈴鹿市を支えていくために、観光産業の持続可能性の課題などを見えにくくすることにならないでしょうか。

対して、たとえば“観光関連産業従事者数”を指標として置けば、観光でまちが活性化しているなら当然働く人も増えるわけで、通年で観光客増につながる政策の効果がはっきりします。同時に、通年での観光産業育成のための政策という方向性が明確になるでしょう。また、雇用が増えることは、市民生活にも直接のプラスが見えやすくなるといえます。

また、別の考えとして「宿泊可能客数(ベッド数)」のような形も考えられるのではないでしょうか、そうすれば、宿泊可能数が増えることはそのような事業者が増えることにつながりますし、逆に減るとすれば観光産業政策に課題があるということがより明確になるのではないでしょうか。

とすれば、めざすべき都市の姿に対する成果指標として、“観光レクリエーション入込客数”を指標として計画の本体に記載することは、やはり妥当ではないということになるでしょう。このことを、先日に行った熊野本宮周辺の地域と宿泊施設との関係を考えながらあらためて実感しました。

 

鈴鹿について考えると、多世代が通年で訪れる観光地として考えたとき、鈴鹿には有名な温泉地があるわけではなく、そのような視点から観光政策を立案することは難しいと考えられるでしょう。

逆に、その考えにとらわれてしまっては、市内の観光の種をどう活かすかということに壁をつくってしまうことになるのではないでしょうか。通年で鈴鹿に訪れていただくことや、滞在時間を1時間でも伸ばしてもらえないかと考えたり、海外からの観光客の方を受け入れることやそのための情報発信を考えたりするとき、伊勢型紙や鈴鹿墨、モータースポーツ関連、海岸線、椿大神社などをどうつなげるのか、また、どのようにそれらを活かすのか、維持していくのかなどを考えることが大切だと思います。

 

観光レクリエーション入込客数ではなく、宿泊者数や観光関連産業従事者数などを観光政策の指数として鈴鹿市は用いるべきだと、私は考えます。

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