いじめについて、防止や抑止といった観点で語られることが多いのですが、自治体として教育面からも考えるべきと思うことは、どんな形やどのような程度であれ、いじめを受けた子どもの、いじめを受けたことによる心の傷に対するケアはもちろんですが、それが長期的に人間関係などに落とす影響についても考えを及ばせることだと思います。
一見すると、いじめを受けてそこから立ち直っているように見えても、そこで受けた傷をどのように自分の中で整理、折り合いをつけているかは、その人それぞれだと思います。それを、前向きな方向で整理できている人もいるでしょうが、もしかすると、パーソナリティ障害やそれに近い状態を持つことになり、悩んでいるような人もいる可能性もあるのではないでしょうか。
後者のような、パーソナリティ障害やそれに近い状態を持つことになると、それは対人関係などにも影響を与えられることになり、成長の過程で、その個人の人生の選択にも影響を与える可能性が出るかもしれません。このような長期的な視点からもいじめを考えて、子どもたちに伝えることが大切ではないかと思います。
また、スポーツ選手の逸話などに、いじめを受けたけれども、それを乗り越えて、スポーツの世界で活躍できたという方の話を聞くことがあります。このことはこのことで大切なことだと思います。しかし、もし、その人がいじめを乗り越えられなかったら、その人はどうなっていたでしょうか?いるでしょうか?もしかすると、そのスポーツの世界で活躍できておらず、別の生活の中にいるのかもしれません。その生活が幸せなのかどうか、それさえもわからないのではないでしょうか。
そこを考えること、想像を働かせることが、必要ではないかと思います。そう考えるとき、いじめの時期はひと時かもしれませんが、その後の人生に与える影響は、計り知れないものがあるのではないでしょうか。そのように、誰かの可能性を奪う権利を、一体がだれが持つのでしょうか。そのようなことを誰がしていいのでしょうか。自分がその対象になったらどうなのか、そのことを考える時間を、子どもたちと共有することが大切だと思います。
しかし、残念なことに、大人の世界はこのようなことが満ちあふれてはいないでしょうか。いじめという言葉を使わないけれども、自分たちの価値観にそぐわなかったりすると、排除の論理を働かせることは日常的に見られることだと思います。また、そのような自分たちの行動を正当化するために、いろいろな理由をつけることを大人はしていないでしょうか。
そのようなことを大人自身が考え直さない限り、いじめはなくならないのではないでしょうか。